朝倉館(5) 湯殿庭園 復原町屋
一乗谷朝倉氏遺跡 (23)
朝倉氏の城郭 (31)

一乗谷朝倉氏遺跡の石垣と矢穴については、「一乗谷の石垣と矢穴 朝倉氏の城郭(11)」(2025年3月14日)で投稿済みです。ただ、一部見落としがあったため、2025年11月に現地を確認してきました。「補遺」編として投稿しておきます。
朝倉館南濠石垣
朝倉館南濠湯殿跡横の石垣は、一乗谷では他に例のない特徴をもった石垣で、天端が整っていたこともあり、違和感をもって見ていました。「一乗谷の石垣と矢穴 朝倉氏の城郭(11)」投稿時には、分類(A・B類)対象から外していましたが、報告書(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 1990年)によると朝倉時代の可能性が高いようで、さらに「楔」を使用しているとのこと。この「楔」は「矢」の可能性があると思い、今回間近で見てきました。
一乗谷でも主要部にあり、特徴のある石垣であることから、今回「C類」として分類に含めました。前回の投稿も更新しています。
【A類】 板状の石(最も大きな面を表面にして)をほぼ垂直に並べた、土塁に向かって奥行きのない石垣。裏込石の使用は部分的。築石を横長方向に横積みにするが、出入り口、雁木の両脇や隅角、所々に縦長石を配置する。
【B類】 小振りの円礫を使用している石垣です。石垣面は多少勾配をもつ場合がある。
【C類】 50~60cm前後の割石を横積みにした石垣で、縦長石など装飾的な要素はない。


この石垣は、50~60cm前後の割石を横積みにした石垣で、高さは約3.5m。一部2段積みにしています。「割石」=人為的截断 ではありませんが、ここでは多量の「矢穴石」が確認できました。一乗谷でまとまって矢穴石が確認できるのは、ここと中の御殿南門周辺だけです。
この石垣は、巨石を使用した下城戸の石垣をのぞくと、一乗谷で最も高さのある石垣です。前回もふれましたが、2段積みは、観音寺城(滋賀県近江八幡市・東近江市)でも認められる高さを出すための工夫です。段積みは、一端途中で整えて、自重で地盤と石垣のかみ合わせが安定するのを待って上部を積み足すといった工程を示す痕跡だと思います。同時に、段をずらすことは、急傾斜のまま石垣を高くするための工夫だと思います。石垣の勾配を緩傾斜にして高石垣を築くのは織豊期になってからで、観音寺城では、ほとんどの石垣が90°~79°です(伊庭功 2014年)。南濠の石垣もかなり立っています。



矢穴は、かなりの量確認できます。全部は見ていませんが「古Aタイプ」主体です(森岡・藤川 2008年・2011年、森岡 2017年)。
断面形は矢穴底が丸みをもつ逆台形が大半で、一部に矢穴底が平らのものが混在します。矢穴口長辺は、(写真5(B))のように16cmを測るものもありますが、9~12cmが大半で、中の御殿などと比較すると、この時期のものとしてはやや小振りです。矢穴列は一辺に対して2~3個です。矢穴列が一辺に対して1~4個(おもに2~3個)で、矢穴列が分割予定線(一辺)の30~60%の範囲に収まるものは「観音寺城技法」と呼ばれていますが(北原治 2008年)、ここではそこまで一辺が長い矢穴石がありません。観音寺城の矢穴は、運搬可能な大きさに分割するための「大割り」と考えていますが、朝倉館南濠石垣の矢穴は、使用工程が異なる可能性がありそうです。
矢穴がやや小振りであること、矢穴底が平らのものが若干認められることは気になりますが、石垣の積み方など全体的な特徴からみて、この石垣が朝倉氏以降になる可能性はないと判断できます。
前回の投稿では、観音寺城のような「寺院石垣」から「城郭石垣」への進化は一乗谷では認められないとしましたが、高さを指向するこの南濠の石垣は、唯一「城郭石垣」として評価できるのではないかと思っています。
朝倉館は、越前10代(4代)宗淳孝景晩年の天文12年(1543年)に新造され、その後越前11代(5代)義景の時代になってから中の御殿が増築されたと考えています。中の御殿と同レベルにある湯殿、そして今回の南濠の石垣も、同時期に築造された可能性が高いのではないかと推定しています。
湯殿跡庭園庭石矢穴
(写真7)は、朝倉館湯殿跡庭園南端近くの庭石にある矢穴です。柵内にあるため、大きさは測っていません。矢穴の多い中の御殿、朝倉館南濠石垣と同時期に築庭された根拠にしたいところですが、そこまでの証拠にはならないと思います。


復原町並土塀石垣矢穴
復原町並エリア北側入場口から、メイン道路に出てすぐの正面土塀石垣にあります。
いわゆる残念石で、矢穴口長辺は15cm前後あります。
天正元年(1573年) 8月の織田勢による焼き討ちの痕跡でしょうか、表面が黒く変色しています。



参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。

コメントを残す