一乗谷朝倉氏遺跡 (24)
朝倉氏の城郭 (32)
一乗谷外郭(惣構)の概要
一乗谷は、文明14年(1482年)閏7月の大火以降、大規模な都市改造が行われ、城塞都市「城戸の内」が形成されました。
「城戸の内」は、城門・土塁の「上城戸」「下城戸」によって谷の南北を遮断しています。城戸の内両岸の山域にも、一乗谷城や御茸山(みたけやま)・御立山(おたてやま/みたてやま)堀切群(砦)があり、これらと上城戸、下城戸は尾根によって連結しています。防衛ラインとなる外郭(惣構)です。
今回投稿する御茸山古墳群(砦)は、一乗谷左岸山域北部にあります。左岸山域南部の御立山堀切群(砦)については投稿済みです。

「御立山堀切群(1) 朝倉氏の城郭(15)」掲載図。赤色立体図は(川越光洋・石川美咲 2020年)掲載図を使用させてもらいました。
御立山堀切群(砦)のうち、上城戸に接続する支尾根との接点にある、御立山山頂(標高296.7m)付近の堀切群(砦A/堀ア・イ・ウ)には、一乗谷の中でも最大級の堀切があります。
一方、左岸山域北部の御茸山古墳群(砦)については、参考にした佐伯哲也氏の『越前中世城郭図面集Ⅱ 越前中部編』(佐伯 2020年a)で取り上げていなかったことから、御立山を歩いた2023年11月には、そこまで足を延ばしませんでした。
しかし、石川美咲氏(石川 2022年)によると、「御茸山古墳群には、新たに設けられた堀切等、戦国期の改変がうかがえる」とのこと。赤色立体図(図1・3・4)を改めて見ると、御立山堀切群(砦A)と同じように、主稜線と下城戸を結ぶ支尾根の接点に御茸山のピーク(標高245m)があり、その北側に堀切と見られる痕跡(堀ソ・タ)がありそうなので、2025年11月に再訪しました。
なお、御茸山、御立山の名称については、こちらを参考にしてください。
国土地理院地図などでは、御茸山を山域北端の御茸山31号墳付近ないし44号墳付近のピーク(標高114m)を山頂にしているように見えますが、ここでは、御茸山66号墳付近のピーク(標高245m)を御茸山山頂としておきます。
御茸山付近は遊歩道が整備されていて、ルートもいくつかあります。現地案内図はこちら。
予定では、西山光照寺跡の駐車場にクルマを止めてそこから登り、外郭ラインのルートを通って、安波賀春日神社から下山する予定でしたが、早朝の雨がなかなか上がらなかったことから、最短ルートになる福井市少年自然の家の駐車場をお借りしてそこからのピストンに変更しました。福井市少年自然の家の駐車場が常時使えるかどうかは不明ですが、一応職員さんがいたので一声掛けて置かせてもらいました。ちなみに、職員の方によると、この周辺の熊出没情報は過去に一度もないそうです。
トラックデータはこちら。YAMAPの活動データは、累積標高差276m、移動距離3.8km、時間が2時半でした。
御茸山古墳群の概要
現在、一乗谷左岸山域の尾根上では、連なる多数の古墳を見ることができます(図1)。現地解説によると総数120基(県webサイトでは155基余)からなる古墳群で、支尾根の一部古墳群をのぞき、御茸山から南部の御立山周辺を含む一乗谷左岸山域の古墳群全体を「御茸山古墳群」と総称しているようです。盟主となる前方後円(方)墳を含む分布の中心は御茸山周辺にあり、現在、県有林内にある73基が県史跡に指定されているとのことです。
時代は、古墳時代前期から後期の各時期にわたるようです。福井市周辺では、前期に小規模な方墳を築くことが多いので、31号墳から下部の方墳群は古いかもしれません。
尾根のピークには、41号墳、44号墳、66号墳の前方後円(方)墳が築かれています。44号墳あたりから南側については(第1図右側)、古墳の間隔が開く部分は斜面地で、まとまっている部分が平坦ないし緩傾斜地になります。

現地解説板。
古墳群と城郭遺構
(写真1)は、31号墳前からの眺望で、足羽川流域から福井平野を見渡すことができます。
一乗谷下城戸口側にある御茸山は、一乗谷の物流拠点である阿波賀(あばか)地区のまさに前衛あたる場所にあり、防衛上の最重要地点だと思います。英林孝景時代の長禄3年(1459年)には、阿波賀城戸口合戦と呼ばれる、堀江利真を中心とした反朝倉の国人勢力との激しい戦いが下城戸付近で行われています。

御茸山31号墳前から。
尾根筋のほぼ全体が加工してある中、何をもって戦国期の遺構と考えるか、ただの削平地で判断できません。やはり御立山堀切群(砦)にあるような「堀切」を探すことになります。
古墳には周堀(周濠/周溝)があり、連続する古墳間は堀切状になっていますが、城郭遺構としては、古墳周囲ではなく、尾根が直線的に切断されていることが判断基準になると思います。
(図1・3・4)の堀ソ~チは、赤色立体図から事前に推定していたものです。

赤色立体図は(川越光洋・石川美咲 2020年)掲載図を使用させてもらいました。

結論から言うと、堀ソ~チを含め、確実に戦国期の「堀切」と断定できるものはありませんでした。石川氏が、どこをもって「戦国期の改変」と言っているのか分かりませんでした。堀の規模では、いずれの周堀も御立山堀切群(砦)の堀キ~サあたりより大きく、そのままでも戦国期に使用することは可能だったのかもしれませんが、明らかな「改変」は確認できませんでした。佐伯哲也氏がこの地区を取り上げなかったのはそういうことなのでしょう。
堀切推定地と御茸山古墳群(砦)
堀切と推定した場所を個別に見ていきます。
(写真2)の「堀チ」は尾根の鞍部で、遊歩道の交差地点です。堀切があってもおかしくはない場所ですが、遊歩道の改変もあり判断できません。

(写真3)の「堀ツ」は事前に推定していたものではありません。前後に古墳もなく尾根を切断していることから可能性としては最も高いと考えました。ただ、赤色立体図(図4)をよく見ると、どうも堀が尾根の南東側に延びています(写真3(B))。切通し道とするのも不自然ではあるのですが、「堀切」とも断定できません。

(A)南から、(B)東側、(C)東から。
(写真4~8)の61~63号墳周辺は、藪が少なめで、遊歩道部分をのぞくと古墳の旧状もよく残っていました。


御茸山62号墳から。
(写真6・7)は62号墳と63号墳で、周堀は共有することなく上下2段になっています。(写真8)は周堀を横から撮った写真で、左が62号墳、右が63号墳周堀です。このうち、62号墳周堀を事前に「堀タ」としていました。

御茸山62号墳から。

御茸山63号墳から。(A)63号墳周堀と62号墳周堀(堀タ)、(B)62号墳東側周堀、(C)62号墳西側周堀。

左(下段) 62号墳周堀(堀タ)、上段(右)63号墳周堀。
62号墳周堀は、この古墳群の周堀規模としては大きめですが、断面形状は皿状で深さがありません。東側は遊歩道で壊されていてはっきりしませんが、古墳を囲繞するような形状(カーブ)が残っていて(写真7(B)(C))、直線的に尾根を切断して竪堀になって落ちていくような状況ではありませんでした。
(写真6)だけを見ると、堀と土塁、腰曲輪にも見えますが。。
62・63号墳の墳頂部平坦面は、古墳にしては広すぎるように思いましたが、ただそれをもって「戦国期の改変」とは断言できません。

(写真9)の「堀ソ」は古墳周堀ではなく、64号墳の墳丘中央部にありました。
人為的に掘削した「堀」ではなく、明らかに崩れたような状況でした。おそらく埋葬施設が何らかの状況下で崩壊したのではないかと考えました。これも事前に「堀切」と推定していたものですが、可能性としては最も低いと思います。動画の方が、状況は分かりやすいと思います。

(写真10)は前方後円墳66号墳です。御茸山最高所(標高245m)に築かれています。そのすぐ南側で主尾根は分岐し、東に向かう支尾根は下城戸につながります。外郭ラインと推定している尾根筋です。
その分岐地点最高所にある64~67号墳、その一段下にある61~63号墳周辺は、外郭(惣構)の城砦には適地だと思われます。
ただし残念ながら、赤色立体図から推定した城郭遺構は不確実なもので、戦国期の確実な改変は認められませんでした。
御立山堀切群(砦)の堀ア~ウの巨大堀切がある以上、一乗谷左岸山域の尾根筋が外郭ラインとして意識された時期があったことは間違いないと思いますが、御立山堀切群(砦)も堀切以外の曲輪や土塁の整備が不完全です。外郭(惣構)は、常設的な施設として整備し維持管理されていたわけではないということでしょうか。
全体の状況は、動画で確認してみてください。
(川越光洋・石川美咲 2020年)から。
参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。
2025年11月現地、2025年12月22日投稿。
