一乗谷朝倉氏遺跡 (25)
朝倉氏の城郭 (34) 補遺

石仏No.7(左端)から。
笏谷石の石仏・石塔
『福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館ガイドブック』(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 2022年)によると、一乗谷で現在までに確認されている石仏・石塔の総数は約6,000点とのことです。一方、西山光照寺出土の石仏・石塔数は、平成30年(2018年)の報告(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2018年)によると2,110点です。集計の対象・方法が同じだとすると、一乗谷全体の約1/3が光照寺にあるということになります。正直、にわかに信じがたい数字です。
しかし、『福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館ガイドブック』では、銘文のある石仏・石塔の遺跡ごとの集計図(p.51)があり、これによると、一乗谷総数2,128点のうち光照寺は511点とのこと。比率は石仏・石塔総数より下がるものの、一乗谷の中で、圧倒的な石仏・石塔数、銘文数を誇ることは間違いないようです。ちなみに、光照寺と同じ天台宗真盛派の盛源寺(福井市西新町)(写真2)銘文数411点、極楽寺(福井市東新町)94点、法蔵寺(福井市西新町)96点を合計すると、これら四寺で一乗谷全体の半数以上になります。
また、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館Webサイト『石造物検索システム』によると、総高が1m以上の大型の石仏41体のうち、39体が光照寺・盛源寺・法蔵寺で占めています。
面白いことに、これら天台宗真盛派寺院はすべて城戸の内外(上城戸・下城戸の外)にあります。
なお、『石造物検索システム』は、光照寺・盛源寺の大型石仏がすべて登録されているわけではありません。

光照寺石仏・石塔2,011点のおもな内訳は、一石五輪塔1,174点、組合五輪塔24点、宝篋印塔21点、石仏348点、石龕仏(せきがんぶつ)77点です。
16世紀は、各地で石塔・石仏が小型粗略化する一方で、爆発的に増加します。
滋賀県では、以下の集計があります。
【石塔寺】(滋賀県東近江市)
石仏6,533基、組合式五輪塔4,497基(火輪数)、一石五輪塔960基、五輪塔形板碑15基、宝篋印塔13基、計12,012基
【百済寺(引接寺)】 (滋賀県東近江市)
石仏1,773基、組合式五輪塔3,962基(火輪数)、一石五輪塔298基、五輪塔形板碑7基、宝篋印塔13基、計6,053基
※多賀町教育委員会『敏満寺遺跡石仏谷遺跡』報告書から)
京都化野念仏寺(京都市右京区)の石仏・石塔群も有名です。
この時期のこれら石塔・石仏は、滋賀県多賀町石仏谷遺跡(多賀町教育委員会 2005年)のように、墓地に造立することを目的としていて、現状は後の時代にまとめられたものです。
しかし、現在これらの寺院で見ることのできる石仏のほとんどは、石龕仏など総高50cm程度の小型石仏であり、光照寺の石仏群のような大型品はほとんどありません。
石仏や磨崖仏は、もともと修験者、僧侶によって彫られていましたが、鎌倉時代になると、中国現淅江省寧波出身の伊行末(いのすえゆき)を祖とする伊派や、伊派の分派でおもに関東で活躍した大蔵派などの石工集団が出現し、室町時代の初期にかけて多くの優品が残しています。しかし、こうした専門の石工集団は室町時代以降衰退します。
戦国時代に爆発的に増加する小型石造物(石塔・石仏)は、入手や加工が容易な砂岩の川原石などでつくられていることから、願主本人ないしは近親者、身近の村内(寺内)の工人あたりが製作したと考えられます。
光照寺の石塔・石仏は、福井市の足羽山近辺から産出した笏谷石(緑色凝灰岩を加工したものです。原則、石垣の築石には用いられていませんが、石仏・石塔以外にも、調度品や石臼・大平鉢・茶磨・風炉など調理加工関係など多種多様の笏谷石製品が一乗谷から出土しています。江戸末期に刊行された『越前国名蹟考』には、笏谷石について「石谷山切石間歩当国の名石なり、壁・橋・柱・樋・火器・水道・仏像・塔・墓皆此れを用う」とあり、江戸時代には越前の特産物の一つとして広く流通していました。
畿内周辺の専門石工集団が衰退する一方で、足羽山近辺の石工集団は、中世から近世にわたって活発に活動をしていたことがわかります。
光照寺など一乗谷出土の笏谷石製品は、足羽山近辺の専門石工集団によって生産されていたと考えられます。一石五輪塔、小型組合五輪塔も、大きさこそ滋賀県のものと変わりませんが、製品としては一乗谷のものが明らかに優品です。
笏谷石製石仏と天台宗真盛派
現在、西山光照寺正面にある笏谷石製の大型石仏群は、参道両側に並べられたもので、光照寺の権勢を象徴する記念碑的ものであったと考えられます。
石仏は約40体です。約40体の石仏は、北西覆屋(3体)と北東覆屋(16体)の北列、南西覆屋(2体)と南東覆屋(14体)の南列に分かれていて、他に東覆屋(2体+)があります。報告(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2015年)では37体としているので、残欠などを含む東覆屋の石仏については、参道配列の石仏としてカウントされていないようです。
南北列については、基本的に当時の状態に近いと考えられており、後に保護のために覆屋が設置されました。現在の覆屋は、平成26・27年度(2014・2015年度)の史跡整備事業で改築されたものです。
現在、覆屋の中央は方形の凹地になっていますが、当時はこの凹地部分、南北石仏列の中央に参道が通っていました。
凹地といっても、周囲の水田面と同レベルで、石仏列の部分が高くなっています。『一乗谷の宗教と信仰』(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館1999年)掲載図では、石仏北列部分を土塁としています。凹地は、整備計画を見ると「修景池」となっていました。谷側からかなりの量の湧水がありそうなので、過去に、東覆屋部分に土堤を築き、調整池を兼ねた池を設けたのではと考えましたが確認は取れていません。全体図はこちら。

(A)境内下段から、(B)境内上段から。(A)正面奥が東覆屋。

石仏No.6~20(左から、一部除外)。
参道脇石仏群の像種は、阿弥陀仏と千手観音などの観音菩薩、地蔵菩薩が中心で、他に不動明王、虚空菩薩、制多迦童子などがあります。
大きさは、(写真6(No.1))の不動明王像が総高260+cm、像高205cm、(写真11(No.5))の地蔵菩薩像が総高243+cm前後、像高が180cmですが、他は、総高180cm前後、像高120cm前後とサイズは規格的です。
年代は、大型の不動明王像と地蔵菩薩像がそれぞれ享禄3年(1530年)、天文2年(1533年)と古く、それ以外は、弘治3年(1557年)が1体、永禄元年(1558年)が4体、永禄2年(1559年) が2体、永禄3年(1560年)が6体、永禄10年(1567年)が1体、永禄年間のものが他に2体です。大きさは規格的でも一時期に造立されたものではありません。
造立の契機としては、「道秀大法師七回忌」の銘文が2体に、あとは「逆修(ぎゃくしゅ)」が4体にあります。逆修とは、生きている間に自分で仏事を行い、自身の死後の功徳とする供養です。
現在でも、瓦奉納といった勧進は各地で行われていますが、光照寺では、大法要から檀家個人の仏事など、さまざまな機会を通じて寄付を募る勧進活動が活発に行われていて、ここでは勧進が笏谷石製石仏を介して行われていた可能性がありそうです。
一乗谷の笏谷石製の石仏・石塔、とくに大型石仏は、光照寺や盛源寺などの天台宗真盛派にまとまっています。盛源寺にも道秀大法師の名を刻む石造物が複数みられることから、天台宗真盛派一体となった活動が行われていたのかもしれません。
さらに、同じく天台宗真盛派の越前市の引接寺(いんじょうじ)にもほぼ同型の笏谷石製石仏があり、25体が越前市の文化財に指定されています。年代も天文10年(1541年)、弘治2年(1557年)、弘治3年(1557年)と光照寺と重なります。
一乗谷には、15世紀末になってから新たに参画したのにもかかわらず、圧倒的な笏谷石製品をもつ天台宗真盛派寺院は、足羽山周辺の石工集団と緊密な共存関係を築いていたのではないかと思います。
天台宗真盛派本山の西教寺(滋賀県大津市)にも、笏谷石製二十五菩薩石仏があります。近江国栗太郡冨田民部進が愛娘をなくし、娘が極楽往生することを願って、天正12年(1584年)に寄進したものです。天台宗真盛派と笏谷石石工集団の強い結びつきをしめすものと思われます。
ただ、西教寺として石仏を介した勧進活動を行っていた形跡ははっきりしません。天台宗真盛派と笏谷石の関係は、越前国内の布教活動の中で構築されたと思います。
越前では、大谷寺石造九重塔(福井県越前町)など、室町時代初期には、石塔の石材として笏谷石が使用されています。しかし、笏谷石製品の多様多量化は朝倉時代になってからで、天台宗真盛派の活動は、笏谷石自体の価値を高め、権威付けしただけではなく、笏谷石の生産活動全体を押し上げたと可能性があります。 その後、結城家(越前松平家)や加賀前田家、京極家、16世紀半ばになると、遠く北海道の松前家でも、墓所の石廟、石塔として笏谷石が採用され、さまざまな笏谷石製品は、江戸時代に全国各地に流通しました。
西山光照寺 笏谷石製石仏群 (1)
石仏群の写真を今回と次回の投稿に分けて掲載します。ただし、すべてではありません。
下記の石仏表は、福井県教育庁埋蔵文化財調査センター『特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡46』 2017年と福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館Webサイト『石造物検索システム』をもとにしています。しかし、なぜかこれらから脱落している石仏がいくつかあります。下記表で像種しか記していないものです。理由は不明。
原典は、福井県教育委員会『一乗谷石造遺物調査報告書 1 銘文集成』1975年刊 のようですが、この報告書は確認できていません。

石仏No.6~13(右端)。

南西覆屋。

南西覆屋。

南西覆屋。

北西覆屋。

北西覆屋。

北西覆屋、北東覆屋。

北東覆屋。

北東覆屋。

北東覆屋。

北東覆屋。
次回投稿に続く。
| No. | 覆屋 | 像種 | 年代(和) | 年代(西) | 総高(cm) | 銘文 | 光背等 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 南西 | 不動明王 | 天文2 | 1533 | 260 | 見我身者」発菩提心」聞我名者」断悪修善」天文二癸巳年五月廿八日願主道伻」聴我説者」得大知恵」智我心者」即身成仏」道林」善長」盛永」寛沢」道西」・・・(銘多数) | 裏面に銘文。舟形光背。 |
| 2 | 南西 | 制多迦童子 | |||||
| 3 | 北西 | 如意輪観音 | |||||
| 4 | 北西 | 地蔵 | |||||
| 5 | 北西 | 地蔵 | 享禄3 | 1530 | 243 | 奉造供養地蔵菩薩御尊像』諸願成就』□時享禄三庚寅年卯月十六日』大衆敬白』妙音』妙□盛』□□』妙善』・・・(銘多数) | 舟形光背。雲の装飾、六地蔵の種子。 |
| 6 | 北東 | 阿弥陀 | 168 | 願主新右衛門」阿弥陀仏 | 懸仏11体、坐像、舟形光背。 | ||
| 7 | 北東 | 虚空蔵 | 永禄元 | 1558 | 170 | 全消禅定門妙珍大姉J妙梢比丘尼逆修卅 三回忌永禄元年七月廿八日 | 舟形光背。 |
| 8 | 北東 | 十一面千手観音 | 170 | 道秀大法師七廻忌」四恩法界/」舜[ ]妙法 | 舟形光背。種子。 | ||
| 9 | 北東 | 阿弥陀三尊 | 173 | /□□』善光寺如来』善□」 | 化仏七体下に神像(カ)二体。舟形光背。 | ||
| 10 | 北東 | 阿弥陀 | 永禄元 | 1558 | 136 | □全禅定門」七世父母六親」□□大姉」眷属□□等」善久上座」永禄元年 妙全大姉」妙□」八月廿六日敬白」 | 放射光 |
| 11 | 北東 | 十一面観音 | |||||
| 12 | 北東 | 千手観音 | 永禄年間 | 172 | 主□□紙屋[ ]永禄□□」十方三世仏一切諸篇節六親界衆生等」四月□日」[ ]阿弥陀仏□□禅門[ ]」 | 舟形光背。 | |
| 13 | 北東 | 観音 | 175 | 奉造立開眼正観音仏一体右志者」[ ]」妙[ ]」七世父母六親眷属等施主」 | 舟形光背。頭光に種子多数。 | ||
| 14 | 北東 | 観音 | 天文20 弘治3 | 1551 1557 | 175 | 蓮妙禅尼天文廿年四月廿二日」門金上座」盛妙禅尼弘治三年二月晦日 | 十一面(カ)。舟形光背。 |
| 15 | 北東 | 観音 | 160 | /禅□』父母六親眷属等」 | |||
| 16 | 北東 | 地蔵 | |||||
| 17 | 北東 | 地蔵 | 166 | □円法師□□□□ | 舟形光背。 | ||
| 18 | 北東 | 阿弥陀 | 永禄元 | 1558 | 174 | 永禄元年□月廿八日」道祐禅定門宗印法師」妙忍比丘尼六親眷属等」 | 舟形光背。種子あり。 |
| 19 | 北東 | 釈迦如来 | 永禄元 | 1558 | 163 | 真勝上座往生浄土」願主祐善法師永禄元年」閏六月十五日」 | 舟形光背。顔欠。頭光上部に宝塔、化仏十体。 |
| 20 | 北東 | 不動明王 | 永禄年間 | 168 | □金法師」妙□禅定門」妙□禅定」妙祐禅定尼」朝霊童女永禄□年」妙□禅尼」 | 舟形光背(火炎)。 | |
| 21 | 南東 | 阿弥陀 | |||||
| 22 | 南東 | 阿弥陀三尊 | 天文10 天文21 永禄3 | 1541 1552 1560 | 111 | 永禄三年」□□逆修」天文十年十二月十二日」教道禅門」六親法界」妙正比丘尼」天文廿一八月廿六日」理求逆修」三月廿九日」 | 上欠。 |
| 23 | 南東 | 阿弥陀 | 永禄10 | 1567 | 149 | □春禅定門[ ]」妙□大姉』玄椿禅定門六親法界』[ ]」永禄十年四月廿八日」 | 放射光。 |
| 24 | 南東 | 阿弥陀 | 132 | 六親法界[ ]吉日 | 両肩に種子。 | ||
| 25 | 南東 | 千手観音 | 永禄3 | 1560 | 156 | 慶善禅定門」妙林[ ]九月廿一日」□永[ ]永禄三年』二月[ ]」 | 舟形光背。頭光に種子あり。 |
| 26 | 南東 | 千手観音 | 永禄2 | 1559 | 136 | 上町江上泰左衛門盛念」□□□世一切諸仏』□念禅定門」永禄二年九月十一日」妙□大姉 | 上欠。右肩に種子あり。 |
| 27 | 南東 | 制多迦童子 | 145 | □本法師 | 下欠。舟形光背。 | ||
| 28 | 南東 | 地蔵 | 永禄2 | 1559 | 102 | 盛春逆修飯田新七郎宗信」時永禄貳年己未二月吉日敬白」 | 上欠。 |
| 29 | 南東 | 阿弥陀 | 127 | /妙□□」[ ]禅定尼」[ ]童女 | 上欠。化仏あり(カ)。 | ||
| 30 | 南東 | 阿弥陀 | 永禄3 | 1560 | 139 | 道秀大法師第七回忌」永禄三年四月十四日施主玄祐法師 | 舟形光背。合掌。頭光に種子あり。 |
| 31 | 東 | 阿弥陀 | |||||
| 32 | 東 | 虚空蔵菩薩 | 坐像。 |
今回は、おもに、福井県教育庁埋蔵文化財調査センター『特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告11』 2015年 と、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館『一乗谷の宗教と信仰』第10回企画展図録 1999年、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館Webサイト『石造物検索システム』を参考にさせてもらいました。
参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。
一乗谷朝倉氏遺跡の報告書は、こちらからダウンロードが可能です。
2023年11月、2024年3月、2025年11月現地、2025年12月31日投稿。
