コラム (2) 御茶屋平の矢穴 (観音寺城補遺)
安土城東門道
安土城(滋賀県近江八幡市・東近江市)、東門道東門口の御茶屋平です。
安土城には、大手道、百々橋口道、搦手口道(台所道)、七曲道、東門道の登城道あります。東門道東門口は、安土城の東端にあって街道と接している防衛上の要衝で、屋根部には御茶屋平、馬場平といった曲輪群が配置されています。
安土城は、尾根ごとに配置された独立した曲輪群が防衛拠点になっていて、大坂城のように城域の外郭全体が堀と石垣で区画されているわけではありません。安土城は、近世城郭のさきがけとして評価されていますが、縄張り的には中世的です。
東門道地区は、八十八か所霊場の巡礼路を模して大正8年頃に整備されたようで、城内道に沿って石仏が並んでいます。立ち入り禁止区域外になっています。今回は、観音寺城に関連して、安土城御茶屋平の矢穴を取り上げます。
安土城東門道入口
巡礼路の入口になります。駐車場は大手前を使用しましょう。
観音寺城と安土城
矢穴について興味をもったのは、10年ほど前のことです。中井均氏の説で、観音寺城の石垣には矢穴があり、安土城には矢穴がない。そのことが異なる職能(石工)集団の存在を示唆するといった内容です(中井 2015年・2022年など 最初に何で読んだのかは不明。多分講演会資料のようなものだったような)。
初期の石垣に異なる系列があること、そして石垣という「もの」から、当時の歴史背景に切り込むことに考古学の醍醐味を感じ、刺さるものがありました。
ただ、その当時は、矢穴が寺院起源で、鎌倉時代にさかのぼる技法であることも知りませんでした。
安土城の矢穴
矢穴がまったくないと言われている安土城ですが、実際にはあります。
確認していませんが、百々橋口道にあることは北原治氏が指摘しています(北原 2008年)。そして、御茶屋平ではある程度まとまった量の矢穴が確認できます。絶対量として少ないと思うかもしれませんが、そもそも観音寺城についてもたいした数があるわけではありません。
一辺に対する矢穴数は1~3個で、観音城技法といわれているものです。矢穴口径は9~13cmで観音寺城よりもやや小粒です。
枡形虎口石垣下部にあることから、織田時代のものでしょう。観音寺城から引き下ろした石材といえなくもないですが、安土山も繖山と同じで全体が湖東流紋岩体なので、この程度のサイズをわざわざ観音寺山城からもってくることはまずないと思います。
『信長公記』(巻9 天正4年)には石材の調達場所として「観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊庭山」の名前があがっていますが、その後の文章は「諸所の大石を引き下ろし、これを千人とか二千人、あるいは三千人がかりで安土山に引き上げた」と続きます。ルイス・フロイスの『日本史』には、数千人が巨石を引き上げようとし、150人以上が圧死したとの記事がありますが、対象は、有名な「蛇石」のような、あくまでも「諸所の大石」で、津田(織田)信澄が各地の巨石・名石を集めたようです。「大石を撰取り、小石退けられ」といった記述もあります。
信長に焼き討ちされた百済寺(滋賀県東近江市)には「石曳き図絵馬」が伝わっていて、百済寺から安土城へ石垣石が運び出されたといわれています。確かに百済寺旧坊院群には、石が抜かれたような石垣がありますが、おそらくこれは江戸時代になって百済寺で新たな参道が整備されたときにもち出されたもので、信長がほしがっていたものは、あくまでも巨石だったと思います。
中井説を最大限尊重して、寺院跡の可能性のある搦手口側立石南・搦手口のひな壇状曲輪群(坊院跡)からもってきたと考えることも不可能ではないかもしれませんが、そこまで考えると、観音寺城の矢穴も、もともと観音寺城ではなく観音正寺の石垣であった可能性も考慮しなければなりません。
安土城と目加田城・安土寺・九品寺
安土城でもそれなりの数の矢穴が確認できるわけですが、東門道エリアについては、安土城以前に六角氏の重臣、目賀田(目加田)氏の「目加田城」があったとする説があります。
目賀田城跡公園(滋賀県愛荘町)の説明板によると、天正4年(1576年)、信長が安土城を築くにあたり、安土山(目加田山)にあった屋敷を、目加田貞政の所領である光明寺野(目加田)に移した、という説です。
仲川靖氏(仲川 2011年)によると、根拠となる史料は以下の通りです。
・『武功夜話』巻六 前野家文書
・『明智軍記』
・『目加田地区春日神社蔵文書』
このうち、『武功夜話』については、1959年に発見された文書で原本は非公開。墨俣一夜城の根拠となった史料ですが、偽書説が有力で、成立年代については、江戸中期以降、明治以降、研究者によっては昭和29年以降とする説もあります。
『明智軍記』は江戸時代元禄期に書かれた軍記物で、一般的に内容的には信憑性に乏しいと考えられている文書です。
『目加田地区春日神社蔵文書』が問題になりますが、残念ながら詳細を知る手立てがありません。
実際の遺構に即して、ピンポイントに馬場平周辺を目加田城としたのは『まぼろしの観音寺城』(1979年)の著者、田中政三氏とのことです。『まぼろしの観音寺城』(近江源氏1巻)は手元にあるので、けっこう読み込んだのですが見当たらず。どうも『まぼろしの観音寺城』ではなく、『佐々木氏の支流・分流』(近江源氏3巻 1982年)に書かれているようです。
田中政三氏がどのあたりを根拠としていたかは確認できていませんが、馬場平北辺の掘り残し土塁(石塁)(写真10(C))や折れのない直線的な石垣、曲輪南側の平虎口などは、六角氏系の城郭と考えることが可能かもしれません。
もしそうであるならば、東側の御茶屋平の矢穴も、「六角氏系城郭」にともなうものと考えられなくはありません。もちろん、その場合枡形虎口は織田時代に積み直されたということになりますが。
ただ、目加田城があったとすれば、地形的に見て馬場平が主郭とは考えにくく、安土山(目加田山)山頂付近に主郭があったと考えるのが自然だと思います。そうなると。それなりの規模の城郭ということになってしまいます。
個人的には、馬場平、御茶屋平の石垣は基本的に織田時代のものと考えています。馬場平北辺は、ちょうど搦手口側を睨む位置に築かれています。
馬場平北辺部は、途中に横矢の折れがなく直線的ですが、横矢折れは、安土城全体を見てもそれほど発達していません。
石積みは、築石と間詰め石が区別されていて、石垣面は割石面を使用して平滑に整えられていています。横長石の横積みですが横目地の通りが悪い「整層乱積み」で、これらの特徴はは、観音寺城の石垣とも共通しています。
年代的な決め手、そして観音寺城との違いは、単純な見方と思われるかもしれませんが「石垣の勾配」でしょうか。
織豊系城郭の石垣が緩勾配になることは良く知られていると思いますが、観音寺城と安土城の石垣の勾配について、伊庭功氏が可視的なグラフとしてまとめられています。これを見ると両者の違いは明らかです(伊庭 2014年)。
安土城の場合、とくに天主台や二の丸など中心部付近の高石垣は、勾配が明らかに緩やかです。緩勾配は、石垣の高さを出すため工夫であるとともに、石垣が天主など重量級の瓦葺き建物の基礎を兼ねるようになったことによると考えられます。安土城でも、すべての石垣に瓦葺き建物があったわけではなく、とくに外周部の石垣の勾配にはバラツキがあるように思いますが、伊庭氏のグラフを見ても、安土城の石垣勾配は全体として観音寺城に対して緩くなっています。
具体的な数値は不明ですが、馬場平北辺の石垣勾配は、観音寺城より新しく見えます。また、馬場平北辺ほどの長さをもつの石垣は観音寺城には存在しません。
なお、安土山には、目加田城以外にも、安土寺・九品寺の伝承があり、大手道や搦手道周辺、立石南曲輪群、西側の逢坂郭群などのひな壇状平坦地は、安土寺・九品寺の坊院群であった可能性が指摘されています(中西 2004年、木戸2009年)。このことについては、こちら でもふれています。
観音寺城、安土城そして八幡山城
観音寺城は六角氏、安土城は信長の意向のもとで総奉行丹羽長秀と津田信澄が、八幡山城は秀吉自らが細かく指示を出していたようで、縄張りに関する考え方は三者三様であったと思います。石垣の高さ、曲輪を多角的に囲むためのシノギ角、枡形虎口の連続的な折れなど、三者間に明らかな違い・変化はありますが、石垣技術については断絶がないと思っています。
安土城は、石垣によっては異なる顔もあり、さまざまなレベル石工が集められた可能性も感じますが、観音寺城 ⇒ 安土城(1576年) ⇒ 八幡山城(1585年) の石垣は、粗割り面で石垣表面を整えた整層乱積みを基本として、隅角の処理、矢穴、隅角石に対する連続矢穴(八幡山城)、石垣の勾配などは、一連の流れの中でとらえることが可能だと思います。観音寺城と安土城、八幡山城は、同じ湖東流紋岩を使用しているということでの類似性もありますが、それだけではないと思います。
安土城の石工集団(衆)については、おそらく湖東三山の金剛輪寺、西明寺、百済寺や、中世前期から石造物製作が盛んであった菩提寺山や岩根山(十二坊)周辺の寺院など、六角氏系城郭と同じ天台宗系寺院付属の石工集団が動員されたのではないかと思います。延暦寺関連の石工集団も可能性はあると思いますが、穴太衆については活動実態が不明です。
安土城の普請作事について、『信長公記』に大工棟梁などの名前が挙がっているに対して、石工集団についての記載がありません。これは、敵対した六角氏・天台宗系の石工集団を動員したことによるのではないかと考えるのが自然です。
ここまで書いてくると、観音寺城と安土城に異なる職能(石工)集団の存在を想定する中井説を完全否定することになってしまいました。
中井氏は、安土城について信長が手がけてきた小牧山城(愛知県小牧市)、岐阜城(岐阜県岐阜市)の石工集団が動員されたとしていますが、根拠としては矢穴が「安土城ではまったく確認できない」(中井 2022年p.93)と述べているだけです。縄張り的に、小牧山城・岐阜城
⇒ 安土城 は当然だとしても、石工集団もそうであるとするならば、小牧山城・岐阜城と安土城の間に石垣技術の類縁性が証明されなければなりません。私見としては、岐阜城の石垣を築いたチャート使いの石工集団に出る幕はなかったと思いますが。どうでしょうか。
石工集団はそもそも大名家に帰属していたわけではありません。中世は寺院がベースで、信長以降寺院の援助を失った石工の中には、急速に領地を拡大していった信長、秀吉に帯同したものもいたかもしれませんが、前回の投稿でもふれたように、自立した近世石工は、泉州堺や大坂、江戸などに拠点を構え、大名の依頼を受けて石垣築造に参画しています。
秀吉の朝鮮の役で、全国の石工が名護屋に集められ、この段階で技術的な格差は解消したと考えられていますが、とくにそれ以前、そもそも別ものの縄張りと石垣技術を一緒にして、一口に大名家の個性としてしまうのは間違いだと思っています。
コラムのはずが、長文になってしまいました。
観音寺城の石垣の編年(変遷)は次回から投稿します。
2024年10月19日投稿