儒葬墓と祖先祭祀 (2)

 

概要編 (2)
近世大名墓(儒葬墓)(2)

仏教の死生観

仏教と儒教の死生観はまったく違います。

ゴータマ・ブッダ(シャカ)の仏教の死生観では、人間含む「衆生(しゅじょう)」(生命のあるすべての存在)は、その業(ごう/カルマ)(意志・結果を含む行為)の結果として、死後49日間(中有(ちゅうう))を経て、輪廻転生(りんねてんせい)する「六道(ろくどう)」(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)のいずれかに世界に生まれ変わります。解脱(げだつ)して「涅槃(ねはん)」(生死をこえた悟りの世界)に到達しない限り、永遠に続く輪廻のサイクルから解放されることはありません。

ここでの「死」は、魂(生命)の肉体から離脱であり、死体はただの「抜け殻」であって無用なものです。儒教が再生への期待から遺体を保存(土葬)するのに対して、仏教が火葬を容認する根拠はここにあります。
また、かならず生まれ変わることから、先祖供養も意味がありません。日本の仏教で常識となっている先祖供養や墓の存在は、シャカの教えとは矛盾しているのです。

しかし、仏教が、「葬」と「祭」を重視する儒教の浸透していた中国に定着し、そして日本に伝来する中で、仏教も「死」と向き合うようになっていきました。
その一つが「盂蘭盆(うらぼん)経」であり、それは、餓鬼道に堕ちた亡母を救うための説話で、盂蘭盆供養によって救済されるというものです。
また、念仏を唱えれば救われるとする、「浄土信仰」の西方極楽浄土への往生を説く教えは、厳しい修行によってしか輪廻のサイクルから解脱できないとする従来の考え方に対して、仏教をより身近なものにしました。さらに、浄土信仰は、自らの極楽浄土への往生を願うだけではなく、残された者が廻向(先祖供養)をすることで、六道の中でより良いところに転生できるとしています。

このように仏教も、「死」と「儀礼」を取り入れていくようになっていきます。
天皇家を例にすると、平安時代を通じて葬儀・陵墓と寺院の繋がりが強くなっていきました。 醍醐天皇(延長8年(930年)崩御)の陵は御願寺であった醍醐寺の北に造営されましたが、その管理は従来の朝廷内の諸陵寮ではなく醍醐寺に命じられました。葬送に僧侶が関与していることも記録に残っています(水藤真 1991年)。
平安時代末期、院政期になると、院の中に陵墓が営まれるようになります。鳥羽離宮(京都市伏見区)の東殿には、三重塔3基、多宝塔1基が建立され、白河法皇(成菩提院陵)(大治4年(1129年)崩御)、鳥羽法皇(安楽寿院陵)(保元元年(1156年)崩御)、近衛天皇(安楽寿院南陵)(久寿2年(1155年)崩御)の御骨が収められました。近衛天皇陵には、江戸時代の復元ですが、多宝塔が現存しています(写真1)。

近衛天皇陵
(写真1)  【近衛天皇陵多宝塔 安楽寿院南陵】(京都府京都市伏見区)

仁治3年(1242年)に四条天皇が崩御されると、葬儀は泉涌寺(せんにゅうじ)(京都市東山区)で営まれて寺内に土葬され、墓所として新御堂が造営されました。江戸時代の後水尾天皇(延宝8年(1680年)崩御)から幕末の孝明天皇(慶応2年(1867年)崩御)まではすべて泉涌寺に埋葬されていて、天皇家の菩提寺(香華院)となり、「御寺(みてら)」と尊称されています(写真2・3)。

(写真2)  【泉涌寺 仏殿】(京都府京都市東山区)
(写真3)  【泉涌寺 月輪陵・後月輪陵】(京都府京都市東山区)

しかし、仏教における葬礼の多くは儒教をベースにしています。

江戸時代の仏教

中世の仏教寺院は、武家や公家と並ぶ政治権力でした。
比叡山延暦寺や興福寺、浄土真宗(一向宗)などは突出した武力をもち武家の対抗勢力でしたが、織田信長、豊臣秀吉に破れ武装解除を受け入れます。さらに、秀吉は、京都に建立した方広寺の千僧供養会に各宗派から僧侶を招集するなど宗教的権威を自らの権力下のもとに統制しようとします。
寺院統制は江戸幕府によってさらに進められました。江戸初期の慶長期から元和期にかけては、個々の大寺ごとに「寺院法度」を定め、さらに寛文5年(1665年)には諸宗派に共通する「諸宗寺院法度」を制定しました。
これには、「新義を立て奇怪の法を説くべからざる事」と、「諸宗の法式」「本末(本字・末寺)の規式(秩序)」を乱さないことなどが定められています。これによって、新説の新しい発展や新たな宗派の出現が抑圧されることとなりました。江戸時代においても、天台宗の霊空(1652年~1739年)、浄土宗の普寂(1707年~1781年)、真言宗の慈雲(1718年~1805年)らによる改革運動はありましたが、現状の体制・秩序の維持は、幕府と既存宗門の利害の一致するところであったと思われます。

そして江戸幕府は、仏教を統制下に置くことで、「檀家制度」「寺請制度」によってキリスト教の排斥を行いました。檀家(だんな)制度とは、すべての人が特定の寺院(檀那寺(だんなでら))に檀家として属すことが義務付けられることで、寺請制度は、寺院(檀那寺)が檀家であること、キリスト教徒でないことを証明する制度です。檀家制度では、その寺院に葬祭供養の一切を任せることが条件となっていたことから、これによって、仏式葬が各階層に広がり、寺院の経済的な基盤となりました。地域によっては、戦国時代に荒廃して減少した寺院が大きく増加したといったこともあったようです。

江戸幕府の支配下では、すべて人が制度上仏教徒となりました。これは神職であっても例外ではありませんでした。仏教は、ある意味「国教」になったわけです。

しかし一方で、仏教寺院が幕府の一機関、僧侶が戸籍役人に成り下がったとする見方もあるわけで、「葬式仏教」と揶揄される、葬式の際にしか必要とされない形骸化した日本仏教の原点がここにあるとも言われています。
明治維新の神仏分離政策は、神と仏を切り離して国家神道にもとづく国民統合を目的としたものですが、廃仏毀釈は、江戸時代の仏教のあり方に対する批判、反感を含んでいたといわれています。

儒教とは

儒葬墓(儒式墓)とは、文字通り儒教の祭祀にもとづく墓です。

儒教といっても、身近に感じる人はほとんどいないと思います。
仏教にしても、「葬式仏教」と揶揄されるように、葬式・法事以外では、宗教法人が運営している保育園に家族が通っているといったことはあるとしても、接点を感じている人は少ないかもしれません。しかし、日常的な関係はなくても、仏教寺院や神社は身近に存在しています。
それに対して儒教の関連施設は、湯島聖堂(東京都文京区)、長崎孔子廟(長崎県長崎市)(写真4)や足利学校(栃木県足利市)(写真5)、閑谷学校(岡山県備前市)(写真6・7)の聖廟など全国を見ても多くはありません。

(写真4)  【長崎孔子廟】(長崎県長崎市)
明治26年(1893年)に中国清朝政府と華僑によって建造
足利学校孔子廟
(写真5)  【足利学校 孔子廟】(栃木県足利市)
寛文8年(1668年)建造。
(写真6)  【閑谷学校 校門】(岡山県備前市)
(写真7)  【閑谷学校 聖廟】(岡山県備前市)
貞享元年(1684年)建造、貞享2年 (1685年)改築。

儒教(儒学)とは、五部の書(五経、易経・詩経・書経・春秋・礼記)学び、孔子を祖と仰いでそのことばを重んじ、五常(仁義礼智信)の徳を養い、五倫の道(父子の親、君臣の義、長幼の序、夫婦の別、朋友の信)あるいは三綱(君臣・父子・夫婦間の恭順)を守るべきことを主たる内容とする道徳的規範です。

ただし、徳目の考え方・見方はいろいろあるようで、正直難解です。

加地伸行氏によると、
「儒教は、
① 一族が亡き祖先を追慕して祭ること、すなわち招魂(復魂)再生儀礼、
② 生きてある親に愛情・敬意を尽くすこと、
③ 祖先以来の生命を伝えるため子孫を残すこと、
この三者を併せて「孝」と称し、儒教理論の根本とした」
「孝とは、祖先という過去、親という現在、子孫という未来にわたって生命が連続することに基づく思想」
「祖霊は招魂儀礼によって、このなつかしい現世に再び帰ってくることができるし、逆に現在のわれわれをして遠い過去にも生きていたことを知らしめる。現在、われわれが存在すること、すなわち逆に言えば、祖先があるということは、われわれが例えば百年前、或いは千年前、万年前に確実にどこかで個体として存在し生きていたことを意味する。このように儒教における孝とは、生命の連続を主張する生命論なのである」(加地 1990年)

儒教の死生観とは「招魂再生」であり、子孫が祖先崇拝儀式を行えば魂は再生するとされます。死者の再生でもあり、先祖から子孫に至る親子関係の永遠の連鎖でもあります。新たに生まれ変わる仏教の死生観「輪廻転生」とはいわば対極にあります。

儒教は、倫理道徳・社会規範として捉えることが多いように思いますが、「孝」に対するこうした考え方は、儒教のもつ宗教性の本質的な部分かもしれません。

徳目には、「孝」とともに「悌」「忠」があります。
「悌」は兄や年長者によく従うことで、「忠」とは主君に尽くすことです。
「孝」に始まり、「忠」につながり、これを万人にまで拡大していくことによって人類愛としての「仁」に至るという考えで、これが人間に与えられた人間の本性の働きであるとのこと。
しかし、江戸時代の儒教(朱子学など)では、「孝」よりも「忠」の方が重要だと考えられていました。これは、君に忠を尽くさず、家を断絶されることは、孝につながらないという、「家名存続」を絶対的な使命とする大名家の現実にもとづくものともいえます。
いずれにしても、藩そして家名の存続を絶対的な使命する大名家、身分社会秩序の維持を求める幕藩体制下にあって、儒教(儒学)は為政者の政治的要請とまさに合致する倫理道徳・社会規範でした。

江戸時代の儒学

中世における儒教は、公家の清原氏や中原氏が明経道(儒学)を家業としていましたが、それ以外では、京都五山や鎌倉五山などおもに禅宗寺院で僧侶らが学ぶ教養の一つであった程度で、社会的な影響力はありませんでした。
江戸時代は、儒学が全盛の時代であったともいわれますが、少なくとも前半期はそこまで広く浸透したわけではありません。

儒教(儒学)と江戸幕府の関係は、家康が林羅山を重用したことから始まります。
羅山は、近世儒学の祖とされる藤原惺窩の門弟で、儒学の中でも厳格な上下秩序と道徳心を強調する朱子学を学びました。
家康に仕えた羅山は、将軍への進講や和文注釈書の作成などを積極的に行いますが、羅山の身分は五山僧に準じる立場で、出仕にあたっては剃髪し道春(どうしゅん)という僧名を名乗っています。
後に林家は幕府儒官としては大きな権威をもつことになりますが、林家当主が儒官の長として武家官位の大学頭に任じられるのは、元禄4年(1691年)、羅山の孫、林信篤からでした。
5代将軍綱吉は、儒学に通じていて林信篤をしばしば召しては討論を行っていたようで、元禄5年(1692年)に湯島の地に孔子を祀る聖堂を建立しました。しかし、8代将軍吉宗は理念的な羅山以来の朱子学よりも実学を重んじたことや、この時期、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠など朱子学に批判的な儒学派閥も盛んになりました。
幕府内で朱子学が「官学」の地位を確立したのは、寛政2年(1790年)の松平定信による「寛政異学の禁」を契機としているようで、この時期に林家の私塾であった昌平坂学問所は、幕府直轄の昌平坂学問所となりました。「寛政異学の禁」では、昌平坂学問所など幕府教育機関での朱子学以外の講義が禁止されました。

このころを前後して、藩校が各地で設立されており、儒学は広く普及します。
厳格な上下秩序にもとづく倫理道徳・社会規範を学ぶことは、社会の安定を求める為政者の政治的要請に合致するものでした。ただ、思想的に先鋭化していくと、排仏論や陽明学のように反体制的な思考につながりかねない側面をもっていました。
この時期は、復古思想の国学や、儒学に国学が結合した水戸学が勢いを拡大しつつあり、これらは尊王攘夷から明治維新に至る思想的原動力となっていきました。

儒葬墓の造営

儒教とは、社会(身分階級的)秩序維持を目的とする倫理道徳・社会規範ですが、そこには様式化された「儀式」があり、そこでの動作や言行、服装や道具などは「礼」として『儀礼(ぎらい)』などの経書によって規定されています。

儒教は宗教なのか、倫理道徳にすぎないのか、これについては、長年にわたる議論があるようです。また、「儒教」と「儒学」の使い分けもはっきりしません。ただ、江戸時代後期の教養としての儒教が「儒学」であるとするならば、江戸時代前半期に一部の先鋭的な藩主が深く傾倒したのは「儒教」であり、自らの信仰のもと、儀礼についても実践的でした。
儀礼、儀式の中でとくに重視されていたのか葬礼であり、これについての教本には、中国南宋の朱熹(1130年~1200年)が著わした『家礼』がありました。

おもな藩主と墓所は以下の通りです。

・尾張藩初代藩主 徳川義直(1601年~1650年)
 尾張徳川家 源敬公廟(徳川義直廟) (愛知県瀬戸市) ※次々回投稿予定

・常陸水戸藩2代藩主 徳川光圀(1628年~1701年)
 水戸徳川家墓所 (茨城県常陸太田市)

・備前岡山藩宗家3代藩主 池田光政(1609年~1682年)
 岡山藩主池田家 和意谷墓所 (岡山県備前市)

・豊後岡藩3代藩主 中川久清(1615年~1681年)
 岡藩主中川家 大船山墓所(入山公廟) (大分県竹田市)

・豊後岡藩8代藩主 中川久貞(1724年~1790年)
 岡藩主中川家 小富士山墓所 (大分県豊後大野市)

・讃岐高松藩2代藩主 松平頼常(1652年~1704年)
 高松藩主松平家 日内山墓所 (香川県さぬき市)

・阿波徳島藩10代藩主 蜂須賀重喜(1738年~1801年)
 徳島藩主蜂須賀家 万年山墓所 (徳島県徳島市)

このうち、高松藩松平頼常は水戸藩徳川光圀の長男であることから、水戸家の葬礼を継承したのだと思います。頼常本人が儒教にどの程度理解があったのかは不明。

他に、上野国前橋藩酒井家が5代忠挙(1648年~1720年)以降儒葬墓営んでいます。他の儒葬墓と違うのは、仏式である先代(初代から4代)までの墓所、龍海院(群馬県前橋市)をそのまま使用していることです。さらに、酒井氏が姫路藩に転封した後も龍海院に埋葬しています。仏儒が一体となった祖先崇拝の一形態なのでしょう。

儒教に傾倒した藩主には、陸奥南部藩4代藩主南部行信(1642年~1702年)がいます。行信は、藩政が混乱する中で現実から逃避し、儒教に盲信していったようです。行信の嫡子で嗣子であった実信(1676年~1700年)が早世した際には、行信は儒式で葬儀を行いました。実信の墓は東京都港区の金地院で確認できますが、ここでは「泰雲院殿従五位下前布護雲嶽宗光大居士」の戒名があるようです。詳細は不明。
 
他に、神儒一致の吉川神道にもとづく墓所もあります。

・陸奥会津藩初代藩主 保科正之(1611年~1673年)
 会津藩主松平家墓所(土津神社) (福島県猪苗代町)
 会津藩主松平家墓所(院内御廟) (福島県会津若松市)

・陸奥津軽藩4代藩主 津軽信政(1646年~1710年)
 津軽藩 高照霊社(高照神社)(津軽信政霊所) (青森県弘前市)

保科正之は2代将軍秀忠の子で、3代将軍徳川家光の異母弟です。家光の遺言によって4代家綱を輔佐し、幕閣に重きを成しました。もともとは儒学の朱子学に傾倒し、これにもとづく政治を行いました。家光時代までは藩主急死による「無嗣断絶」が多発していましたが、正之は家の継続を重視し、「末期養子」を緩和したりしています。
その後、吉川神道の吉川惟足や山崎闇斎(垂加神道)を招き、これらも学びました。
正之の葬礼と墓所造営は、吉川惟足が仕切りました。墓所の土津神社の「土津(はにつ)」は、寛文11年(1671年)に正之が吉川惟足より吉川神道の奥義を授けられた際に送られた霊神号に由来しています。

聖堂・藩校・墓碑

墓所以外では、尾張徳川家は、寛永10年(1633年)に名古屋城二の丸内に、「金声玉振閣(きんせいぎょくしんかく)」と称する孔子を祀る聖堂が建立しています。
岡藩中川家では、岡城内に、藩祖中川清秀、初代藩主秀成、その兄秀政を祀る「荘嶽社(そうがくしゃ)」と、歴代藩主の位牌を祀る「御廟所(ごびょうしょ)」を建立しましたが、御廟所は儒教の教えにもとづいたものだったそうです。

(写真8)  【岡城 御廟所】(大分県竹田市)

岡山藩池田家でも、岡山城本丸西側の石山(宇喜多直家時代本丸)に儒式の「祖廟(宗廟)」を建立して藩祖輝政、正室中川氏夫人、宗家2代利隆を祀り、池田光政が奉主となって祖先祭祀が行われました。
さらに光政は、儒教にもとづく藩士子弟庶民のための教育施設として「岡山藩藩学」(岡山市北区)や「閑谷(しずたに)学校」(岡山県備前市)を創建しました。閑谷学校には光政を祀る閑谷神社とともに聖廟(孔子廟)も建立されています(写真6・7)。

これらの藩主は、墓所に亀趺(きふ)碑や墓表(墓碑)などを造立し、出自や理念、業績を刻んでいます。
(写真9・10)は、岡山藩主池田家和意谷墓所宗家2代藩主池田利隆夫妻墓の笠付墓表です。藩祖輝政と利隆墓は、光政が和意谷墓所に改葬造営しました。

(写真9)  【岡山藩主池田家和意谷墓所 池田利隆夫妻墓(二の御山)】(岡山県備前市)
(写真10)  【岡山藩主池田家和意谷墓所 池田利隆夫妻墓(二の御山) 笠付墓表】(岡山県備前市)


(写真11~13)は、保科正之の亀趺碑「土津霊神之碑」です。全体高7.6m、石柱部分の高さが5.45mある巨大なものです。「土津者 東照大権現之孫源中将之霊号也 霊神諱正之小字幸松・・・」から始まる碑文は、山崎闇斎(あんさい)の撰文で、四面全部に1943字が刻まれています。

(写真11)  【会津藩主松平家墓所(土津神社) 土津霊神之碑】(福島県猪苗代町)
(写真12)  【会津藩主松平家墓所(土津神社) 土津霊神之碑】(福島県猪苗代町)
(写真13)  【会津藩主松平家墓所(土津神社) 土津霊神之碑亀趺】(福島県猪苗代町)

(写真14・15)は、徳島藩主蜂須賀家万年山墓所の最上部、眉山中腹の標高170m地点にある「阿淡州太守族例墓域碑」(万年山墓域碑)です。
高さ約3mの自然石に、蜂須賀重喜と家臣らの万年山設立対する思いが刻まれています。故人の業績を記した顕彰碑ではなく、まさに理念が刻まれています。

【阿淡州太守族例墓域碑】(碑文要旨)

この墓域は第十世蜂須賀重喜が造ったもので、東西南北の四囲には盛土をし、木炭を埋めた。今までの仏教礼法によらず、儒教の礼法によって墓を建てた。
もともと私たちの身体は父母が残してくれたものである。これを軽んじてはならない。その意味でこの墓域の碑を建て、後の世の子供や藩民に私の志を知らしめたい。

明和三年冬十一月
 

忠義と孝行は人間の基本で、葬儀を疎かにせず先祖を追慕し、祭祀を丁寧に行うことは最も大切である。藩主は生まれて富貴に育ち、夏は涼しく、冬は暖かに、美衣に包まれて一生を過ごした。しかし死歿すれば土葬にして、地下水が骨身を浸し、土塊が皮膚を浸しても、誰一人として哀しまない。それはどうしたことであろうか。今ここに新しく万年山に墓域を建造し、諸民たちに死後の供養を尽さしめようとする。諸民は長らく国恩を受けて生活してきたが、過ぎし日を顧みると汗顔の至りである。私たちはいつまでも重喜公の厚徳を守らなければならない。謹んで碑面の陰に記して永く世に伝えたい。

国相 臣 林貞興
従相 臣 寺澤利知
司計 臣 西尾由則
執法 臣 青山嘉信 謹記

現地解説板より。

これは、儒葬墓を造営した藩主たちの思いを集約していると思います。

(写真14)  【徳島藩主蜂須賀家万年山墓所 阿淡州太守族例墓域碑】(徳島県徳島市)
(写真15)  【徳島藩主蜂須賀家万年山墓所 阿淡州太守族例墓域碑】(徳島県徳島市)

儒教と幕府

仏教を支配体制の一部とする江戸幕府では、儒葬や神葬は公的に認められていませんでした。神官や儒官であっても、僧侶によって仏式の葬儀が行われ寺院に埋葬されていました。
例外が認められたのは、水戸藩の徳川光圀や、林家墓地(東京都新宿区)に葬られている林羅山一族や大塚先儒墓所(東京都文京区)の幕府任用の儒者などごく一部でした。

大名墓で儒葬墓を最初に採用したのは尾張藩徳川義直です。義直は、自らを仏式葬とすることを嫌い、生前に選定した定光寺(愛知県瀬戸市)の裏山に儒式で埋葬されました。幕府に対して儒葬の願いを出していましたが、遺体が出棺されるにあたっては、僧侶が経を詠む諷経(ふぎん)は行われたようで、このことについて、当時徳川光圀は、「憫笑すべき」ものと激しく批判しています。
2代藩主光友は、義直の源敬公廟(徳川義直廟墓)の造営と同時に、義直の菩提を弔うために、尾張徳川家の菩提寺となる建中寺(愛知県)を建立しており、義直の遺志は継承しませんでした。

保科正之は、「土津(はにつ)霊神」として見禰山(土津神社)(福島県猪苗代町)に葬られますが、正之の葬礼でも、諷経を行うよう幕府老中稲葉正則からの意見があったようです。
2代正経は、藩内の仏教寺院側からの強い反発があり、仏式で葬られました。

岡藩主中川家では、3代久清が儒式葬を希望しますが、藩では儒式葬の後に形式的に仏式葬を行っています。また、戒名がないことについて、家中で議論あったとの記録も残されています。

このように、故人の強い信念があったとしても、仏教を国是とする幕府体制下で儒式を藩の方針として貫くことは困難でした。とくに岡藩のような地方の中小大名とって、幕府からのクレームは死活問題であり、本人はともかく、残された一族、家臣団にとって、儒式は大きな決断だったと思われます。

そのような状況下にもかかわらず、岡山藩の池田光政は大胆で、家臣から領民に至るまで儒教への信奉を求めました。そして神儒一致思想から、切支丹ではないことを僧侶ではなく神職が証明する「神職請」を始め、仏教を排除しようとします。この政策は行き詰まりをみせ、貞享4年(1687年)には「寺請」にもどしますが、幕府が推奨する朱子学に批判的であった陽明学者の熊沢蕃山を招聘するなどやりたい放題。水戸藩でも光圀が排仏施策を行ってはいますが、親藩と外様では立場が違います。こうした施政は幕府に睨まれる結果となり、一時は光政謀反の噂が江戸に広まったこともあったようです。
光政の子宗家3代綱政は、幕府に対する迎合からか儒式葬を止め、岡山市曹源寺の裏山に仏式の藩主墓所を新たに造営します。

個人的には、儒教(宗教全般)に思い入れはないのですが、江戸時代の藩主の多くの「顔」が見えない中、あえて儒式を採用した藩主には熱意や信念を感じます。一方で、彼らの願いだった「永続」「永劫」とその後、そして現状墓所に見る大きな落差。それが「歴史」なのでしょう。

次回以降、不定期になると思いますが、個々の儒葬墓を紹介したいと思います。

概要編のうち、儒教と仏教に関する部分については、おもに森和也氏の『神道・儒教・仏教 江戸思想史のなかの三教』ちくま新書1325 2018年刊 を参考にさせてもらいました。

参考文献は、「儒葬墓投稿一覧にまとめてあります。

なお、水戸徳川家墓所についてはいまだ拝観していません。継続的に儒葬墓を営んだ数少ないの大名家で、興味はあるのですが。
公益財団法人徳川ミュージアムのwebサイトにJTB水戸支店宛ての見学予約案内があるのですが、連絡してみたところ、1名から20名まで一律一口11,000円だそうです(2025年4月確認)。1名でも20名でも警備費用は同じ、といったことらしいです。かつては一般公開していたこともあるようなので、直接webサイトの「お問い合わせ」画面からこちらの個人情報を晒して連絡を入れてみましたが、完無視・・・でした。

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