観音寺城 (1)

 

観音寺城前史 (1)
観音寺城伝後藤邸
【観音寺城 伝後藤邸】滋賀県近江八幡市
2022年12月撮影。

観音寺城

佐々木六角氏

六角氏の出自は、宇多天皇(867~931年)皇子敦実親王の流れをくむ宇多源氏(近江源氏)源成頼(976~1003年)が近江国に下向し、佐々木荘を拠点(名字の地)として佐々木氏を名乗ったことから始まると考えられています。
沙沙貴(ささき)神社(滋賀県近江八幡市)は、近江源氏佐々木氏の氏神です。

沙沙貴神社楼門
沙沙貴神社 楼門】
延享4年(1747年)再建県指定有形文化財です。

沙沙貴神社、案内図です。
境内は自由拝観です。JR安土駅の徒歩圏内で、駐車場もあります。
(滋賀県近江八幡市安土町常楽寺)

ただ、話が少々複雑になりますが、古代からの地方豪族で、沙沙貴(ささき)神社の神官を代々務めていた沙沙貴山君(佐々貴山君)こそ中世佐々木氏の祖ではないかとの説もあるようです。『吾妻鑑』にみえる「本佐々木氏」は沙沙貴山君一族のことではないかとも考えられています。
沙沙貴山君は、孝元天皇の皇子である大彦命を始祖とする阿倍臣一族とされ、平安時代初期の弘仁6年(815年)に編さんされた『新撰姓氏録』にも氏名(うじな)を残す古代からの有力な豪族です。
沙沙貴神社の歴史も古く、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式神名帳』(えんぎしき じんみょうちょう)に記載のある「式内社」です。佐々木氏の祖、源成頼が近江国佐々木荘に拠点を置く以前からある神社で、佐々木氏の出自を沙沙貴山君に求める根拠となっています。
もともと二派があり、沙沙貴山君系譜の一族を近江源氏佐々木氏が滅ぼしたとの説もあるようです。

沙沙貴神社本堂
沙沙貴神社 弊殿・本殿】
弊殿・本殿は、弘化5年(1848年)に丸亀藩主京極高朗により再建されました。県指定有形文化財です。
平四つ目結佐々木源氏
佐々木源氏発祥之地碑】
六角氏が信長によって放逐されたあとも、破却を免れました。
平四つ目結
平四つ目結】
天保年間(1831年~1845年)の火災によって社殿の多くを焼失しますが、弘化5年(1848年)に丸亀藩主京極高朗により再建されました。その経緯からか、神紋は京極氏の平四つ目結です。
主祭神は、少彦名命、大彦命(大毘古神)、仁徳天皇(大鷦鷯尊)、宇多天皇・敦実親王。「佐佐木大明神」はこれらの神の総称です。

古代から有力な豪族である沙沙貴山君と源平の時代に近江国佐々木荘を「名字の地」として成立した佐々木氏が、実際のところどう交錯していたのかは不明です。
ただ、中近世社会は、実際の血筋以上に「氏」の名、「家」の名とその始祖を重んじる傾向があり、また、権力者の系譜は装飾されるのが常です。
武家(御家人)としての佐々木氏にとっては、清和源氏に対して傍流とはいえ、「源氏」に連なることがステータスであったのではないかと思います。

なお、「名字の地」とは、新田氏の上野国新田荘、足利氏の下野国足利荘のような、中世武士層における先祖伝来の根本私領、本貫地であり、存在の根源であると考えられた所領です。「本領安堵」、「本宅安堵」といった用語は、屋敷地を核とした所領の維持が武士層においていかに重要であったかを物語っています。

佐々木荘
佐々木荘推定範囲】
カシミール3Dで作成しました。

六角氏の成立

鎌倉時代初期、佐々木信綱(1181~1242年)は、承久の乱の宇治川での戦功により佐々木氏の本貫地である近江国佐々木荘をはじめ、近江国内各地の地頭職を得ました。寛喜4年(1232年)には近江守に任ぜられ、「近江入道虛假」などと呼ばれて近江を統轄しました。

近江は信綱の4人の息子に分割され、長男重綱が坂田郡大原荘を、次男高信が高島郡田中郷を、三男泰綱が「宗家」と江南にある神崎郡、蒲生郡、野洲郡、栗太郡、甲賀郡、滋賀郡の6郡を、四男氏信が江北にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡の「地頭職」を分けて継ぎ、彼らの子孫はそれぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となりました。

「六角」氏、「京極」氏の家名は、六角氏が京都六角東洞院に、京極氏が京都京極高に邸宅を得たことによるようです。とくに惣領家である六角氏は、鎌倉政権下において六波羅評定衆などを務めるなど、京都六波羅を中心に活動しました。

彼らの権力・財政的な基盤となった「地頭職」とは、荘園や国衙領(公領)を管理・支配するために置かれた鎌倉時代の役職です。鎌倉時代以前、荘園・公領は、現地で管理し領主へ年貢を納める職(荘官、下司など)を領主が任命していましたが、鎌倉時代になり、源頼朝はその職の任命権を奪取しました。それが地頭職です。

地頭は御家人から任命され、荘園・公領において武力にもとづく軍事・警察・徴税権を行使し、御家人の実質的な所領としていきました。ただし、これはあくまでも幕府(武家)側からの見方です。一方で鎌倉幕府は、鎌倉幕府は国司や荘園領主との対立を避けるために、国司や荘園領主が守護による干渉を受けない検断不入権を認めています。

この治外法権的な場(朝廷・幕府側から見て)が「無縁所」です。武家中心的な歴史観の裏側にある中世社会の大きな特徴です。
有力寺院が僧兵など武力を強化していった要因もここにあります。

とくに近江は、比叡山延暦寺の強い影響下にあり、一時期は近江国の50%が寺社領であったようです。
そもそも、佐々木荘も延暦寺の荘園であり、年貢の未進をめぐって六角氏と延暦寺の間にはたびたび争いがおきています。

ただし、六角氏は、世俗的な対立を抱えながらも、延暦寺など天台宗系寺院とは良好な関係を築き、その宗教的権威を利用することを基本的なスタンスにしていたと思われます。
天文5年(1536年)に勃発し、京都が焦土と化した延暦寺と法華宗(日蓮宗)の戦い「天文法華の乱」でも、六角氏は比叡山とともに出兵しています。この乱を経て、六角定頼は幕府内の権勢をゆるぎないものにしており、この戦いが単純な宗教戦争ではなく武家を含む政治抗争だったことは明らかですが、そこを差し引いても、六角氏と比叡山が敵対することはありませんでした。

近江国の権力秩序は多元的であり、六角氏の地域支配、そして観音寺城についても、比叡山延暦寺天台宗勢力との関係を抜きには成立しなかったと思われます。

天文法華の乱碑
【天文法華の乱 戦士供養塔】百済寺(滋賀県東近江市)
百済寺の僧兵も出兵しています。碑は、赤門(総門)(C)から表参道を進み、極楽橋(D)の手前にあります。梵字が刻まれています。

観音寺城前史(2)につづきます。


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