観音寺城前史 (2)
六角定頼像、案内図です。
きぬがさ山トンネル東側にありますが、付属の駐車場はありません。繖公園駐車場から歩きましょう。
(滋賀県東近江市五個荘石馬寺町)
小脇館
小脇館(おわき かん/やかた)(滋賀県東近江市)は、箕作山南麓にある佐々木氏初期の居館推定地です。
『吾妻鏡』によれば、建久元年(1190年)12月14日に源頼朝の一行が京から鎌倉に帰る途中で「小脇宿」に泊まったとされています。また、嘉禎4年(1238年)には、鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経一行が上洛の際、往復とも小脇館で宿泊しています。
小脇町の脇集落周辺には、堀田・惣田・御所・馬場・馬ヤケ・コチャ門(東門)・岡門・蓬莱門(南門)などの地名が残っていることから、古くからここが『吾妻鏡』に記された近江源氏佐々木氏の小脇館跡ではないかと考えられてきました。
1979年には、『八日市市史』編さん事業の一環として発掘調査が行われ、幅5~11mの堀跡とみられる遺構も発見されているようです。
小脇館、案内図です。
googleのポイントは大将宮前です。遺構は確認できません。駐車場はありません。
(滋賀県東近江市小脇町)
金剛寺城(金田館)
金剛寺城(滋賀県近江八幡市金剛寺町)は、小脇館に続く六角氏の居館(守護所)です。別名は「金田館」です。
平城で、実際に現地に立ってみても微地形ははっきりしません。ただ、集落の南東隅にあることから、微高地の端に立地しているのではないかと思われます。
六角氏の祖泰綱の子、佐々木(六角)頼綱(1242~1311年) が居館を「金田」の地に構えました。頼綱は「金田殿」、居館は「金田館」と呼ばれていたようです。
当初は、小脇館の別邸だったとする説もあります。
六角氏4代当主の六角氏頼が、信奉していた夢窓疎石や父母の菩提を弔うために金田館の近くに金剛寺を創建したことから、居館も「金剛寺城」と呼ばれるようになったようです。
金剛寺城は、応仁・文明の乱(1467~1477年)からその後の幕府による六角征伐(長享・延徳の乱)(1487年・1491年)でたびたび戦いの舞台となりました。ここを占領した幕府方は、将軍の陣所や守護所にしています。こうしたことから、当時の江東江南における最も重要な城郭であったことが分かります。
この周辺は、学校整備などで発掘調査が行われており、室町時代の堀跡などが発見されています。全貌は明らかではないものの、数回の拡張を経て、最終段階には、内城と外城が築かれています。最終段階の改修は、16世紀になってからで、その時期六角氏は、戦時になると観音正寺に在陣しています。
16世紀前半期、六角定頼の時代、行政拠点(守護所)としての金剛寺城と同時に、軍事拠点として、観音寺城の整備を進めていたようです。
金剛寺城、案内図です。
googleのポイントは金剛寺城現地説明板位置です。金剛寺城の中心部からは外れた場所にあります。 金田コミュニティーセンターの駐車場が利用できます。
(滋賀県近江八幡市金剛寺)
浄厳院
浄厳院(じょうがんいん)(滋賀県近江八幡市安土町)は、六角氏の菩提寺であった慈恩寺(じおんじ)跡地に、信長が天正5年(1577)年、金勝山(栗東市)の僧応誉明感を(強引に)招き建立した浄土宗の寺院です。
慈恩寺は、正平年間(1346年 ~1370年)に六角氏頼が建立した天台宗の寺院です。
楼門は六角氏時代のもので、仁王像岩座の墨書から天文年間(1532~1555年)の造営であることが確認されています。「慈恩寺」は現在字名として残っています。
浄厳院は、数多くの文化財があり、天正7年(1579年)5月、信長の命で行われた浄土宗と法華宗の公開法論(「安土宗論」)の場でもあります。その割にはあまり知られていないように思います。
浄厳院。案内図です。
JR安土駅、沙沙貴神社の徒歩圏内にあります。楼門右手に駐車場はありますが、周囲の道路がすべて狭く注意が必要です。
境内や墓地は参拝自由。本堂を拝観(有料)するには、事前予約が必要です。
(滋賀県近江八幡市安土町)
観音寺城(3)につづきます。
2024年6月19日投稿