観音寺城 (4)

 

観音正寺と観音寺城 (2)

坊院と曲輪

観音寺城の縄張り図の多くには、曲輪(屋敷地)名として六角氏の家臣名がふられています。現在は、削平地の多くは中世山岳寺院の坊院跡と考えられていますが、家臣名については、一応根拠となる鳥瞰絵図が存在します。

観音寺城絵図石寺A
【佐々木古城跡繖山観音寺山画圖】(石寺本A)
滋賀県立安土城考古博物館『戦国の城 安土城への道』からの引用です。
下図は左が本丸(本城)から観音正寺本堂付近、右が奥之院付近です。なお、この図には表坂道(追手道)は描かれていません。石寺本Bはこれの写しで簡略化されています。
観音寺城絵図

近江八幡市安土町石寺に伝わる「佐々木古城跡繖山観音寺山画図」(石寺本A/木瀬本)(安土城考古博物館 2009年)、「観音寺絵図」(石寺本A/大久保本)(安土城考古博物館 2009年)と、東近江市五個荘川並に伝わる「観音寺佐々木古城跡絵図」(川並本)(安土城考古博物館 1995年)の計3枚で、いずれも南側上空から俯瞰した鳥瞰図です。
確実な成立年代は不明ですが、観音正寺と桑実寺の間で勃発した山内の境界をめぐる争いの際に描かれたのではないかと推定されています。
境界争い(山論)はたびたびあり、元禄5年(1692年)には、当時両寺の墓地になっていた伝平井丸について桑実寺が公儀に訴えています。明和3年(1766年)から安永4年(1775年)にかけては、柴木の刈り取りに関して繖山西尾根を係争地とする山論が起き、こうした争いは安永4年(1805年)あたりまで続いたようです(安土城考古博物館1995年、藤岡 2007年、新谷 2023年)。
境界論争の過程で裁許結果を示した「江州蒲生郡桑実寺与観音正寺境論所内済為取替絵図」(未見)が作られたようで(伊庭 2006年)、鳥瞰絵図は明和3年以降に作成された可能性が高いようです。

観音寺城まぼろし図
観音寺城 曲輪(屋敷地)名】
田中政三『まぼろしの観音寺城』からの引用です。作図は吉田勝氏。現在知られている曲輪(屋敷地)名はこの図をもとにしています。
観音寺城
【観音寺城と観音正寺】
藤岡英礼『図解 近畿の城郭Ⅱ』をもと図として、屋敷名などを記入してみました。

これら鳥瞰図は、地形図としては厳密なものではなく、現在一般に知られている曲輪(屋敷地)名は、郷土史家の田中政三氏、吉田勝氏らが絵図と現地を照合した図(1979年刊行)がもとになっています。

絵図の家臣名については、江戸時代に沢田源内 (1619~1688年)が著した軍記物『江源武鑑』(こうげんぶかん)の影響があるようです。『江源武鑑』は、著者の沢田源内が「六角中務氏郷」などと称し、自らを佐々木源氏の嫡流に位置付けることを意図した日記形式の物語であり、その思惑どおり、現在観音寺城最高所に「沢田邸」があります。『江源武鑑』は、江戸時代から「偽書」とみなされていますが、江戸時代の軍記物は人気が高く、『江源武鑑』も版を重ねたようです。

こうした屋敷地の比定は、これを裏付けるような江戸時代以前の史料がないこと、活動が確認できない沢田氏、没落した伊庭氏や新たに加わった家臣が並存するなど、『五個荘町史』などでも史実として信憑性に疑いがあるとしています。
しかし、屋敷名図は、潜在的にせよ、ご都合的にせよ、「城郭寺院」説以前の「観音寺城像」を形づくっていたことは間違いないと思います。

六角氏と家臣団と観音寺城

「城郭寺院」が提起される以前の観音寺城については、その特異な縄張りについて、今思うとけっこう無理のある解釈が試みされていたように思えます。

村田修三氏の『五個荘町史』を例にすると、以下の(A)(B)が併記(ページは離れています)されています。

(A)「本丸伝承地が西に偏って・・・縄張の中心が定めがたいこと」 「一揆型大名の城郭構造」
(B) 観音寺城の多数の削平地 「家臣団集住政策」

(A)の「一揆」型とは、土豪・国人の自立性が強く、六角氏の権力基盤が不安定なことで、具体的史実としては、永禄6年(1563年)に勃発した「観音寺騒動」があります。これは、六角義弼(義治)が重臣後藤父子を忙殺したことに端を発し、六角氏家臣団のほとんどが主家に敵対。承禎・義弼父子は逃亡し、観音寺城は全山焼失してしまいました。
その後制定された『六角氏式目』は、家臣団により起草され、当主である六角承禎・義治父子は遵守を求められました。
「観音寺騒動」は、六角氏が没落する契機となった事件でした。

一方(B)の具体例は、大永3年(1523年)に、六角定頼が命じた城割で、これは、興福寺大乗院経尋の日記である『経尋記』に以下の記述があります。

「江州の蒲生太郎。昨年七月より立て籠もり、当月八日、六角と甲を散らしおわんぬ。但し三年牢籠すべき通と云々。城を明けるの間、六角もこれを惜しむといえども、惣国に城郭停止(ちょうじ)すべき間、すなわち十日よりこれを破ると云々」『経尋記』

「蒲生秀紀は昨年7月より(音羽城に)籠城し、3月8日六角氏と和睦した。あと3年は籠城するつもりだったという。六角も城の堅固さを惜しんだが、国中に城割を命じていたので、10日より破城を開始した」
(村井祐樹『六角定頼』からの引用)

これは、日本最古の「城割」の記録であるといわれています

六角定頼は、後に実質的な管領職として幕府を差配し、六角氏の全盛期を築きますが、当時の定頼も、被官でありながら対立していた伊庭氏を破り、大永5年(1525年)には京極氏・浅井氏を従えるなど、まさに自らの権力基盤の地ならしを行っていた時期でした。

しかし、「惣国に城郭停止」が、実際にどの程度の規模で行われたのか追認する史料がありません。さらに、これによって家臣団を観音寺城に集住させたことを示す記録はなく、観音寺城集住説は、「城割」と観音寺城の多数の削平地、そして屋敷名図のイメージが生み出した観音寺城の「虚像」にすぎないようにも思えます。

さらに問題なのは、六角氏全盛期(B)と没落期(A)というまったく異なる状況をなぜか一体として(都合良く)観音寺城の解釈が行われていることです。観音寺城の特殊な縄張りに翻弄されているとしか思えないのですが。

以前の投稿で、密教系山岳寺院の特徴を以下の通りまとめましたが、

・聖地である山頂部や尾根筋をさけた谷内にあること。
・谷内には直線道路(参道)があり、
・直線道路に沿って削平地(坊院群)がならんでいること。
・坊院群は、複数の「谷」におよぶことがあること。

繖山南斜面の遺構群は、密教系山岳寺院(観音正寺)そのものであり、観音寺城中心部が山上部を避けて西尾根に築かれたのも、地域信仰の場である観音正寺との共存を前提とし、その権威を利用しようとしたからだと思います。

参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。観音寺城(5)につづきます。

安土城の曲輪(屋敷)名について、コラムとして簡単にまとめました。


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