観音寺城 (8)

 

本谷道(大手ルート)

観音正寺・観音寺城 登山道

観音正寺・観音寺城には数多くの登山道(参道・城道)がありますが、山麓の屋敷群、坊院群、そして城下町のあった「石寺」と山上を直接つなぐ「赤坂道」、「本谷道」、「表坂道」がメインのルートになると思われます。

繖山登山道
(図1) 【観音寺城・観音正寺地形図】
県報告図とカシミール3D地形図を合成しました。
赤坂道

赤坂道は近世近代に参詣道として整備されたルートで、閼伽坂巡礼道とも呼ばれているようです。
現境内は江戸時代になってから東西方向に大きく拡張されたもので、その段階で本堂は南向きから現在の東向きに変更されました。赤坂道はその境内東端に接続しています。
石段や九十九折りになっている部分は近世近代の改修だと思いますが、途中に虎口となる閼伽坂見付があります。この石垣は明らかに中世のものです。このことからルートそのものは中世にさかのぼると思います。

表坂道

表坂道は、本谷西側の尾根道です。伝池田丸下の大石垣に至るルートです。
田中政三著『まぼろしの観音寺城』(田中 1979年)と『五個荘町史』(村田 1992年)では「追手道」の伝承があるとしていて、観音寺城の大手ルートとの説もあります(松下 2016年)。
ただ、「伝承」の出所は不明です。江戸時代の鳥瞰絵図のうち「佐々木古城跡繖山観音寺山画」(石寺本A)「(佐々)木古城跡観音寺絵図」(石寺本B)には表坂道そのものがありません。「観音寺佐々木古城跡絵図」(川並本)には、女?良岩(大石垣)に至るルートが描かれていますが、天満宮(御屋形跡)を南側から迂回しているなど現状と違うところもあり、表坂道そのものかかどうかは不明です。いずれにしても、これらの鳥瞰絵図には「追手道」の書き込みなく、「追手道」伝承が江戸時代にさかのぼるものなのかはっきりしません。
ただ、このルートは観音正寺ではなく観音寺城のルートなので、絵図に描かれていないことがルートそのものの否定にはなりません。
なお、大石垣を正面から時計回りに迂回してから伝池田丸に至る松下説(図3)(松下 2016年)は技巧的なルートですが、ちょっと出来過ぎでしょうか。これだと大石垣上西側に虎口がほしいところです。

本谷道

本谷道は、本谷(見付谷)を通るルートです。本堂など中心伽藍、中心的な坊院群と考えられる坊院群A(伝進藤・後藤邸)に直接接続するルートであることから、中世観音正寺の表参道であったと思われます。

本谷道
(1) 【本谷道】表林道直上
本谷道
(2) 【本谷道】表林道直上
本谷道右折
(3) 【本谷道】本谷を遡行し、「滝ヶ地蔵」と呼ばれている岩壁を右折した先

このルートは、谷筋にあることからメンテは大変だったと思われ、現状でも上部をのぞくと「道」はありません。
鳥瞰絵図「佐々木古城跡繖山観音寺山画」(石寺本A)には、「谷ノ内 橋アリ 不見」という注記があります。「不見」がどこにかかるのかわかりませんが、絵図が描かれた江戸時代後期にはすでに荒れていた可能性もありそうです。
ただし、伝進藤・後藤邸から上部は、下の(4)(6)の写真のように石垣で路肩やスロープ(石段)を整えていたり、ていねいに築かれていることが分かります。

本谷道路肩
(4) 【本谷道】表林道上部路肩
本谷道櫓台
(5) 【本谷道】櫓台状石垣
本谷道スロープ
(6) 【本谷道】表林道上部スロープ(石段)
本谷道】表林道から坊院群A(伝進藤・後藤邸)前まで。
本谷道】坊院群A(伝進藤・後藤邸)から上部。

観音寺城大手道(本谷道)

本谷道について、表坂道の「追手道」に対して「大手道」とする図が一部にありますが、本谷道「大手道」は、『まぼろしの観音寺城』にも『五個荘町史』にも記載はなく、伝承のたぐいではありません。
ただし、江戸時代の鳥瞰絵図には本谷道をまたぐ石垣が描かれていて、川並本には「大門」の注記があります(図2)。本谷は「見付谷」とも呼ばれていたようで、「大門」が見付(城門)であった可能性がありそうです。
なお、『五個荘町史』によると、「大門」周辺は、昭和初期の林業開発でリフトの基地になってしまい、現状それらしい遺構は残っていません。

本谷道大門
(図2) 【本谷道と大門】
下図は「観音寺佐々木古城跡絵図」(川並本)の一部。『五個荘町史』第1巻(村田 1992年)からの引用です。

本谷道は、中世観音正寺表参道であると同時に、観音寺城大手道であったと考えています。
坊院群A(伝進藤・後藤邸)下部の鋭角・直角の折れや伝進藤・後藤邸前面の切岸と石垣も城郭的です。
的場の南側には、「観音寺城(6)」で紹介した伝進藤・後藤邸間道から谷側に下るスロープ(石段)と石垣があることから、もともとの参道としての本谷道は、図3の「緑」線のようなルートであった可能性も考えられます。
現在、本谷道の最初の右折れ部正面は「滝ヶ地蔵」と呼ばれている5m程度の岩壁になっていますが、中世にさかのぼる山寺の参道を歩いていると、折れが少なくけっこうな斜度も直登することが多いと思います。
坊院群A下部の折れをもつ本谷道は、城郭として改修された部分ではないでしょうか。
本谷道上部にある石垣(5)も櫓台的で、城郭として改修された部分ではないか考えました。

観音寺城城道推定図
(図3) 【観音寺城 城道案】

本谷道が観音正寺表参道であると同時に、観音寺城大手道であることについて、客人や重臣は、坊院群A(伝進藤・後藤邸)の坊院を宿坊としていたか、あるいはこのエリアの坊院を屋敷としていたのではないかと思っています。信長の本能寺のように、寺院を定宿にすることはこの時代一般的なことでした。

伝本丸 大石段

本谷道から観音寺城主要部へのルートについて、『五個荘町史』では、伝本丸へのルートとして、お花井戸曲輪⇒竪堀状通路⇒伝三の丸(枡形)⇒大石段⇒伝本丸を想定しています。
しかし、2008~2010年度に行われた発掘調査によって、大石段直下に石段を遮る石塁が確認され、伝三の丸とお花井戸曲輪をつなぐ竪堀状2条のうち、少なくとも北側については、やはり通路を遮る等高線に平行する石垣が発見されていています。その結果をうけ、竪堀を通路とみること、そして大石段を城郭遺構としてみることについて、滋賀県教育委員会では疑問があるとしています(滋賀県教育委員会2011年)。

お花井戸
(7) 【お花井戸】
湧水です。
大石段
(8) 【大石段】
(A)大石段、(B)大石段下部、(C)伝三の丸全景、(D)竪堀状(南)

『五個荘町史』では、伝三の丸を、上下からの通路を受ける「枡形」と捉えています。

守護大名クラスの居館の空間構成については、一乗谷朝倉館をとおした小野正敏氏の詳細な分析があります(小野 1997年)。ここでは、観音寺城の主要部について、

・城主の私的居住空間「常御殿」=伝本丸(本城)
・公的な対面所「主殿」=伝平井丸
・客人を接待する「会所」=伝池田丸

と推定します。

現状の遺構から見ても、伝平井丸こそが正面玄関であり、城内道は、まずは伝平井丸に集まると考えるのが自然だと思います。

ずいぶん前の話ですが、安土城の大手道が注目されていたころ、この大石段も話題になっていた記憶があります。ただ、この大石段は中途半端な場所にあり、伝本丸虎口はそのすぐ北側にもあります(図3)。
仰々しいつくりから、観音正寺が再建された江戸時代当初の一時期、「奧之院」のような堂宇が伝本丸に置かれたのではないかと想像していますが、どうでしょうか。

写真位置図
(図4) 【掲載写真位置図】

なお、「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。

今回の写真は、(8)B~D以外は2022年3月のものを使用しています。(8)B~Dは2024年3月です。

参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。

観音寺城(9)に続きます。


投稿日 :

カテゴリー :

, , ,

投稿者 :