御屋形跡
御屋形跡と石寺
大手ルート(表参道)「本谷道」の起点となる「御屋形跡」です。現在は天満宮が祀られています。
繖山(きぬがさやま)南麓の「石寺」には、観音正寺・観音寺城の坊院群(里坊)、屋敷群、町屋が形成されました。石寺では、信長に先駆けて「楽市」が行われていたようで、天文18年(1549年)の文書に「石寺新市の儀は楽市たるの条、是非に及ぶべからず」とあります。観音寺城の城下町は、石寺ともうひとつ、東山道沿い「東老蘇(ひがしおいそ)」(奧石神社付近)にあり、この文書にある「石寺新市」については、東老蘇ではないかといわれていますが、確定はしていないようです。「石寺」と「東老蘇」は、「バンバ道」によってつながっていました。
「御屋形跡」は石寺の上部にあります。「御屋形跡」の名称の通り、六角氏の山麓居館、守護館跡ともいわれています。
御屋形跡の石垣
御屋形跡南側は石垣によって区画されますが、これは、高さ7m以上で城内では最も高い石垣のひとつです。
北垣聰一郎氏は、金剛輪寺文書『下倉米銭下用帳(したくらべいせんげようちょう)』にある「御屋形様石垣打申」を御屋形跡の石垣のこととし、この石垣を文書記載の年代、天文5年(1536年)にさかのぼる観音寺城最古の石垣と考えました(北垣 1987年)。
しかし、その後『下倉米銭下用帳』の再解読作業の結果、記載年代は天文5年ではなく弘治 2年(1556年)であること(愛荘町教育委員会 2010年)、「御屋形様」はあくまでも六角義賢のことで、「御屋形様の御命令で石垣を打った(築いた)」との解釈が妥当であると考えられていて(村田 1992年など)、現状では、御屋形跡の石垣と『下倉米銭下用帳』の記述を直接結びつけることは否定されています。
『下倉米銭下用帳』については、築城時期 をテーマとするなかで改めて取り上げます。
「御屋形跡」とは
「御屋形跡」は守護館を示唆するような伝承名ですが、天満宮の地が「御屋形跡」と呼ばれるようになった根拠、経緯がどうも怪しげです。「伝承」に根拠をもとめても意味がないだろうと言われてしまいそうですが、遺跡の性格を決定づけるような名称でもあるので、「伝承」としてどの時代までさかのぼるものなのか気になり調べてみました。
戦国時代は確認のしようがありませんが、江戸時代については鳥瞰絵図があります。
ただ、「佐々木古城跡繖山観音寺山画」(石寺本A)では「天神社」(図2)、「観音寺佐々木古城跡絵図」(川並本)では「天満宮」とあるだけで、その他の注記はありません。
蒲生郡役場が大正4年(1915年)に測量した「観音寺城趾図」にはそもそも天満宮の場所も図示されていません(図3)。
昭和54年(1979年)刊行の『まぼろしの観音寺城』には面白い記述があります。
最初にこの遺跡を発見したのは筆者の田中政三氏で、昭和44年(1969年)に確認し、翌年六角氏による「山下の本館跡」と断定するにいたったとのこと。
「この豪華壮大な遺跡を地元石寺の人々はいうに及ばず、世上のだれ一人としてその存在を知る者はなく、まして居館跡と推定をくだす人も全然いなかった」、「観音寺城跡の古絵図にも、さらに近江に伝わるあらゆる古文献類にも、これを描写したものは何一つとして残存しない」と述べています。
また、滋賀県教育委員会の『観音寺城跡 埋蔵文化財活用ブックレット11』(2011年)では、天満宮について、「ここは「上御用屋敷」の地名が残り、六角氏の御屋形跡に比定されています」としています。小字名は確認していませんが、この「上御用屋敷」も怪しげです。
鳥瞰絵図には、2か所に「御用屋敷」の注記がありますが、現本堂付近と石寺集落の南端付近の「三千坪(歩)御用屋敷」で、天満宮とは明らかに別地点です。そもそも「御用屋敷」は一般的には江戸時代の幕府公用のために利用される屋敷のことで、「御屋形跡」に結びつくものかどうかも分かりません。
田中氏は天満宮の地主に対して聞き取りを行っていますが、そこでも「御屋形跡」や「御用屋敷」は登場しません。
しかし、『まぼろしの観音寺城』の付図「観音寺城趾図」には、天満宮の位置に「佐々木六角氏 御屋形趾(天満宮)」とあります(図4)。「御屋形跡」名はここからスタートしたのかもしれません(図2)。
田中氏には伝承を創作する意図はなかったと思いますが、「御屋形跡」石垣の規模は守護館に相応しいものであったことから、史実として一人歩きを始めてしまったようです。『まぼろしの観音寺城』刊行後10年もたたない間に、北垣聰一郎氏はこれを取り上げ、
「御屋形跡」 ⇒ 「御屋形様石垣打申」(下倉米銭下用帳) ⇒ 天文5年(1536年) ⇒ 観音寺城最古の石垣
として発表してしまいます。現在も「御屋形跡」名が史実のように語られているものが多々あります。このことで山麓居館説、守護館説が否定されるわけではないですが、前提としてしまうのは誤りで、危ういことだと思います。
「伝承」は、地名など周知されているもの、一子相伝されるような秘伝・奥義をのぞくと、ごくごく新しいが大半なのかもしれません。
「御屋形跡」とは
15世紀代、六角氏は平城の金剛寺城(滋賀県近江八幡市)を拠点としてきましたが、応仁・文明の乱(1467~1477年)のころから、観音正寺を頻繁に軍事拠点として利用するようになりました。軍事利用の頻度が高まる中で、本拠としての本格的な改修が進められたと考えられています。
六角氏による石寺地区の整備がいつどの程度行われたのかは不明ですが、御屋形跡の石垣については、観音寺城の石垣の中でも主要部の伝池田丸・伝平井丸・伝本丸の石塁より新しい段階のものだと思っています。観音正寺・観音寺城の石垣の起源は寺院由来であり、御屋形跡のような高石垣や隅角は、近江の中世寺院にはありません。六角氏が進化させた石垣であり、観音正寺・観音寺城最古の石垣ではありません。
あくまでも石垣に限っての年代観ですが、観音寺城の場合、山麓居館から山上へ移行したということではなく、最初から山上への居住を目的として整備が行われたと思われます。
御屋形跡の区画の一辺は70m程度であり、近江守護の館としては小規模です。中井均氏は「大手玄関」としていますが、そういった性格のものかもしれません (中井 2022年B)。もう一つ、「大手玄関」とも通じますが、六角定頼の時代は、足利義晴の仮御所があったこともあり、京都の要人がたびたび訪れています。要人の迎賓館的な施設であった可能性もありそうです。
石垣については別にまとめる予定です。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(10)に続きます。
2024年8月8日投稿