観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域(1)
観音正寺と観音寺城の範囲
観音寺城という不思議な城を知る上で、観音正寺との関係がおそらく一番重要な部分だと思います。さまざまな説が提起されており、諸説を自己満的に読み解いてみたいと思います。
(10)~(12)の3回シリーズです。
観音寺城は、中心部を繖山山頂部と観音正寺の立地する谷内をさけた西尾根上に築いていて、この点から明らかなように、観音寺城は観音正寺を否定していません。 しかし、谷内の削平地群のすべてが観音正寺の坊院群なのか、観音寺城の屋敷地(曲輪)を含むのか、その範囲については諸説あります。
現境内上部削平地群
とくに問題になるのは、現境内上部の削平地群で、ここには伝三井邸(東西)・馬渕邸など現境内地をのぞくと最大規模の削平地があります。
当然の話ですが、本堂は寺院の中心です。
中世本堂を現境内地のままだとすると、その上部に僧侶の居宅となる坊院の存在はありえないことで、削平地を埋めるように諸堂が本堂上部に並ぶということも考えられません。
観音寺城の屋敷地(曲輪)だとすると、本堂上部に対する普請は観音正寺の宗教的権威の否定です。六角氏と観音正寺、比叡山延暦寺の関係を考えるとそれはあり得ないので、もし、観音寺城の施設だとすると、六角氏の普請以前に観音正寺本堂は移転したことになります。実際に移転伝承もあります。
中世本堂を現境内付近ではなく伝三井邸(西)とする説もあります。これによっても、現境内上部削平地の見え方が変わってきます。
このように、中世の本堂位置と本堂移転の有無といった、中世観音正寺の実態解明は、共存する観音寺城の範囲や性格を考える上で避けて通ることができない論点となっています。
観音正寺現境内
現観音正寺境内は、山中でもっとも巨大な平坦地です。寺伝によると、慶長2年(1597年)になって現在地に復興したとのことです。江戸時代の観音正寺境内地は『近江名所図会』(文化12年(1815年))の絵図で見ることができます。
湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)など近隣寺院を見ても、中世の中心伽藍地(百済寺は旧本堂)はこれほど広くはなく、庫裏・本坊やさまざまな堂宇の多くは、それぞれ独立した平坦地(削平地)にあります。諸堂と庫裏・本坊といった僧侶の居住生活空間が同じエリアにまとまるのは近世的景観です。
近世観音正寺境内地の拡張は慶長2年(1597年)以降に行われたと考えられ、境内地を支える石垣は西13mのみが中世で、東60mは近世から近代です。現状の東側石垣は明治10年(1877年)に築かれたもので Cタイプの矢穴 があります。ただ、文化12年(1815年)刊行の『近江名所図会』を見る限り、境内地の規模は現在とほぼ同じなので、石垣は明治期になってから新たに築かれたということではなさそうです。
なお、『近江名所図会』に描かれた本堂は南向きで、現在の庫裏付近にあります
明治13年(1880年)に江戸時代の本堂(観音堂)が建て替えられることになり、旧本堂は滋賀県犬上郡甲良町にある念称寺に本堂として移築され、明治15年、彦根城の欅御殿を本堂として移築しました。念称寺本堂は現存しているそうで、室町時代の様式を残しているとのことです。慶長期の観音正寺再建本堂の可能性が高いようです。
欅御殿の本堂は、残念ながら1993年に失火で焼失してしまいました。このときに、戦国時代を生き抜き、国重要文化財に指定されていた明応6年(1497年)銘の本尊千手観音立像も焼失してしまいました。
現在の本堂は2004年に再建されたものです。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(11)に続きます。次回は中世本堂「根元観音堂」説です。
2024年8月18日投稿