観音寺城・観音正寺 年表
【寺】聖徳太子建立。 「寺伝」 | |||
11C初 | 源(佐々木)成頼、近江国佐々木荘に土着。 | ||
応保元年 | 1161年 | 【寺】僧覚忠、三十三所観音巡礼 。「寺門高僧記」 | |
元弘3年 | 1333年 | 氏頼 | 【寺】北条仲時、光厳天皇、花園上皇、後伏見上皇を奉じて入寺。 |
建武2年 | 1335年 | 氏頼 | 【城】北畠顕家の西上により、佐々木氏頼「観音寺ノ城郭」に布陣。『太平記』 |
観応2年 | 1352年 | 氏頼 | 【城】観応の擾乱。足利尊氏方、足利直義方双方がそれぞれ陣を敷く。 |
応仁元年 | 1467年 | 高頼 | 応仁・文明の乱。文明9年(1477年)まで。このころから軍事拠点としての整備開始か。 |
応仁2年 | 1468年 | 高頼 | 【城】3月、京極勝秀、観音寺(城)を攻め落とす。留守居役伊庭雪隆討ち死にか。『碧山日録』 |
応仁2年 | 1468年 | 高頼 | 【城】11月、京極持清・六角政堯、観音寺(城)を攻め落とす。重臣戦死「傀首二十三人」。『碧山日録』 |
文明元年 | 1469年 | 高頼 | 【城】8月、京極方多賀高忠、観音寺(城)を攻める。 |
文明元年 | 1469年 | 高頼 | 高頼、京極方に合戦を挑むも敗れ、伊賀に逃亡。守護職解任。翌年京極持清死去により復帰。『大乗院』 |
文明5年 | 1473年 | 高頼 | 【寺】「観音寺という山寺を見やりて・・」。一条兼良『ふぢ河の記』 |
長享元年 | 1487年 | 高頼 | 【城】将軍足利義尚、第一次六角氏征伐。高頼、甲賀に逃亡。 |
延徳3年 | 1491年 | 高頼 | 【城】将軍足利義材(義稙)、第二次六角氏征伐。重臣山内正綱謀殺される。高頼、甲賀に逃亡。 |
文亀2年 | 1502年 | 高頼 | 【城】伊庭貞隆・貞説反乱。伊庭勢が迫る中、高頼は音羽城に退避。 |
永正5年 | 1508年 | 高頼 | 将軍足利義澄、高頼?伊庭氏?を頼り水茎岡山城に逃れる。永正8年義澄、岡山城にて死去。 |
永正13年 | 1516年 | 氏綱 | 【城】再び伊庭貞隆・貞説反乱。観音寺城を攻めるが敗北。 |
永正15年 | 1518年 | 定頼 | 定頼家督相続。このころから山上の守護館として、観音寺城の本格整備開始か。 |
永正17年 | 1520年 | 定頼 | 定頼、水茎岡山城を落し、伊庭氏・久里氏を没落させる。 |
大永3年 | 1523年 | 定頼 | 城割「惣国に城郭停止すべき」。前年から蒲生秀紀の音羽城を攻める。 |
大永3年 | 1523年 | 定頼 | 【城】連歌師宗長、観音寺城で連歌会を催す。「宗長手記」 |
大永5年 | 1525年 | 定頼 | 定頼、小谷城を攻め、京極氏、浅井氏を下す。伊庭・久里氏残党が蜂起するも鎮圧。近江統一へ。 |
天文元年 | 1532年 | 定頼 | 7月、将軍足利義晴を桑実寺に迎える。仮幕府、天文3年(1534年)まで。 |
天文元年 | 1532年 | 将軍義晴、桑実寺に縁起絵巻を奉納。 | |
天文2年 | 1534年 | 定頼 | 【城】観音寺城改修記録 定頼、馬渕村に十禅師社の森の木を供出するよう命じる。「馬渕文書」 |
天文3年 | 1534年 | 定頼 | 6月、将軍足利義晴、再上洛。 |
天文5年 | 1536年 | 定頼 | 天文法華の乱。 |
天文5年 | 1536年 | 定頼 | 【城】京都相国寺僧、天文19年(1550年)までほぼ毎年訪れる。「鹿苑日録」 |
天文8年 | 1539年 | 定頼 | 【城】相国寺録司梅叔法霖、定頼・義賢父子と対面、「屋形二階」にて三献の宴。「鹿苑日録」 |
天文13年 | 1544年 | 定頼 | 【城】連歌師宗牧、観音寺城で歓待。「座敷は二階・・遠くは大和河内伊賀伊勢の山・・」。「東国紀行」 |
天文15年 | 1546年 | 定頼 | 12月、定頼、足利義輝の元服式、将軍宣下式を管領(実質)として仕切る。 |
天文18年 | 1549年 | 定頼 | 石寺新市楽市。「石寺新市の儀は楽市たるの条、是非に及ぶべからず」。「今堀日吉神社文書」 |
天文21年 | 1552年 | 義賢 | 1月、定頼死去。 |
弘治2年 | 1556年 | 義賢 | 【城】観音寺城改修記録 義賢、金剛輪寺西座に石垣普請を依頼。「下倉米銭下用帳」(金剛輪寺文書) |
弘治2年 | 1556年 | 義賢 | 【城】観音寺城改修記録 義賢、馬渕村に石を運ぶための木を供出するよう命じる。「馬渕文書」 |
永禄3年 | 1560年 | 義賢 | 野良田の戦いで浅井長政に敗れ、北近江の覇権を失う。 |
永禄6年 | 1563年 | 義治 | 【城寺】観音寺騒動。六角義治が重臣後藤父子を忙殺。義賢(承禎)・義治観音寺城から逃亡。観音正寺全焼。 |
永禄9年 | 1566年 | 義治 | 浅井長政が六角領内に侵攻。六角氏大敗を喫す。近江国での立場が逆転。 |
永禄10年 | 1567年 | 義治 | 「六角氏式目」制定。 |
永禄11年 | 1568年 | 義治 | 【城】9月、織田信長上洛戦。支城の箕作城を主戦場とする戦いで敗れ、観音寺城を放棄。承禎・義治逃亡。 |
天正元年 | 1573年 | 義治 | 9月、柴田勝家ら織田勢、義治の籠もる鯰江城(滋賀県東近江市)を攻撃。義治降伏。 |
天正2年 | 1574年 | 義治 | 4月、佐久間信盛ら織田勢、承禎・義治の籠もる石部城(滋賀県湖南市)を攻撃。承禎・義治逃亡。抵抗終焉。 |
随時加筆予定です。
参考文献(年表)
・村田修三「観音寺城と中世城郭史」『五個荘町史』第1巻古代・中世 1992年
・村井毅史「近江観音寺城の存在形態」『紀要』第13号 財団法人滋賀県文化財保護協会 2000年
・伊庭功「観音正寺と観音寺城」『滋賀県安土城郭調査研究所 研究紀要』第14号 2010年
・村井祐樹『六角定頼』ミネルヴァ書房 2014年
・新谷和之『図解 六角氏と観音寺城』戎光祥出版 2023年
2024年8月26日投稿