観音寺城 築城期
観音寺城のある繖山は、六角氏の本領である佐々木荘 内で最も標高が高く、東山道をのぞむ要衝の地です。繖山の古刹観音正寺は、数多くの坊院を抱えていたことから、兵の駐屯も可能で、戦乱時には臨戦用の陣所として利用されました。
六角氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて、小脇館 (滋賀県東近江市)そして金剛寺城 (金田館)(滋賀県近江八幡市)を拠点とし、金剛寺城は、行政拠点である「守護所」として16世紀前半まで機能していたようです。しかし、小脇館も金剛寺城も平城であったことから、応仁・文明の乱を経て、六角氏は繖山を観音寺城として整備し拠点を移します。
ここでは、文献史料から見た観音寺城築城過程を、4段階に分けてみました。
なお、年表が前回投稿の 観音寺城(13) にありますので、合わせてご覧ください。
観音寺城築城前史
観音寺城は、建武2年(1335年)に、佐々木氏頼が「観音寺ノ城郭」に拠って西上する南朝北畠顕家勢と戦ったとする『太平記』の記載が初見のようです。このときは北畠方の大館幸氏に攻め落とされています。
観応2年(1351年)の「観応の擾乱」では、足利尊氏方、足利直義方双方がそれぞれ陣を敷いています。佐々木(京極)道誉は、観音寺(城)を「究竟(くきょう)の用(要)害」と称しています(新谷 2023年)。
観音寺城築城1期
築城1期は、応仁元年(1467年)から永正15年(1518年)まで、応仁・文明の乱から六角高頼・氏綱まで、時間的には広めにみておきたいと思います。
観音寺城は当初、あくまでも臨戦用の陣所として観音正寺を利用していたと思われ、その軍事利用の頻度が高まる中で、城郭としての改修が進められたと推定されています。
応仁・文明の乱
繖山(観音正寺)は、応仁・文明の乱(応仁元年(1467年)~文明9年(1477年))のころ、たびたび攻防の場となりました。
佐々木一門は、西軍の六角高頼(行高)と東軍の京極持清・勝秀、六角政堯とに分裂し戦いました。乱以前の守護大名の多くは京都を本拠としており、乱勃発の当初は京都を戦場としていましたが、戦場は次第にそれぞれの大名の地盤、ここでは近江に移り、京極勢は、応仁2年3月・11月、文明元年(1469年)8月とたびたび佐々木荘に侵攻し、観音寺(城)を攻め落としています。とくに応仁2年11月5日には、守山城(野洲郡)を政堯が、観音寺(城)を持清が立て続けに落とし、六角方は馬淵・下笠・奈良崎などの重臣が戦死、「傀首二十三人」が京極方の軍門に下っています。その兵火は琵琶湖対岸からも見えたとのことで、観音正寺は全焼したと思われます。
高頼は終始劣勢で、守護職も京極持清に奪われてしまいますが、持清の子勝秀が応仁2年6月、持清が文明2年8月に相次いで亡くなり、家督相続をめぐる「京極騒乱」が勃発したことで高頼は復権します。
六角征伐(長享・延徳の乱)
応仁・文明の乱では、各地で守護や国人による寺社領や公家の荘園の押領が行われました。六角高頼に対して幕府奉公衆からの訴えがあり、さらに高頼による荘園や延暦寺などの寺社領の押領も発覚したため、幕府は応仁・文明の乱で揺らいでいた威信回復のために六角氏討伐を宣言し近江に遠征しました。
長享元年(1487年)9月12日、将軍足利義尚は、管領細川政元などとともに出陣します(第一次征伐)。高頼は観音寺(城)に陣を敷きますが、9月14日には観音寺(城)を放棄して甲賀に逃亡してしまいます。幕府軍は甲賀を難所とみていたことから戦線は膠着。長享3年(1489年)3月、第一次征伐は将軍義尚の病死によって中断します。
新将軍足利義材は高頼を赦免しますが、その後も押領した所領の返還を拒絶し幕府に従わないため、延徳2年(1490年)8月に、義材は討伐の兵を挙げました(第二次征伐)。この時は、六角氏と懇意であった管領細川政元をあえて近江守護職に任じ、高頼を「朝敵」とするなど万全な体制で臨みますが、高頼は早々に逃亡、またもや膠着してしまいます。
幕府軍は金剛寺城を拠点とし、おもに細川政元の家宰(筆頭重臣)安富元家が指揮を執っていました。延徳4年(1492年)、高頼が蜂起すると元家は金剛寺城から観音寺(城)に移っています。六角氏の守護所であり居館であった金剛寺城と、詰城(陣所)であった観音寺(城)の関係をそのまま踏襲しています。
延徳4年(1492年)12月、将軍義材は細川政元に替えて六角虎千代(政堯の養子)を守護に任命して兵を引き、第二次征伐は完了しますが、結局、高頼を捕らえることもできず、明応4年(1495年)に、高頼は赦免を勝ち取ります。
築城1期は、応仁・文明の乱を契機として、臨戦用の陣所から恒久的な城郭としての整備が開始され、進められた可能性のある時代だと考えますが、実際の所どの程度整備が行われたかは不明です。
この時期に長期的な「籠城」戦が行われていないこと、「落城」してもすぐに六角氏が復帰していることから、六角・京極方双方からみて、恒常的な軍事拠点(=城郭)ではなかったと思われます。
文明5年(1473年)に一条兼良の書いた紀行文『ふぢ河の記』では、「観音寺という山寺を見やりて」とあり、この段階の観音寺は「寺」として認識されていた可能性が高いと考えられています(新谷 2023年)。
六角征伐(1487年~1492年)の時期も、六角氏の拠点は甲賀にあり、幕府方の安富元家も、金剛寺城の改修は行っているものの、観音寺城は不明。
高頼が復権した明応4年(1495年)以降、この時期に、観音寺城が恒常的な「城郭」として整備された可能性はあると考えますが、おそらく「詰城」レベルだと思います。「築城1期」はとりあえず可能性としての築城期で、陣城から詰城への移行期と考えておきます。
なお、金剛寺城は、16世紀中ごろまでは機能していたようです。
観音寺城築城2期
六角氏の全盛期を築いた六角定頼の時代です。この段階に、観音寺城は山上の守護館(所)として整備されました。
築城期としては、定頼が当主となった永正15年(1518年)から、下限を一応将軍足利義晴の御成のあった天文2年(1533年)までにしておきます。おそらく、この1520年代に、観音寺城中心部は完成したと思われます。
定頼は、京都相国寺鹿苑院の僧でしたが病弱であった兄氏綱に代わり、永正11年(1514年)ごろから政務を行っていたようです。
永正17年(1520年)、被官でありながら長らく対立していた伊庭氏と久里(くのり)氏を水茎岡山城(滋賀県近江八幡市)に攻め没落させます。
同年8月に高頼が死去し、名実ともに当主となりました。
大永3年(1523年)には、蒲生秀紀を下し領内を統一。
大永5年(1523年)には小谷城(滋賀県長浜市)を攻め、浅井氏は降伏、京極高延らは尾張(出雲)に逃亡しました。翌年には、高島郡の朽木氏に所領を安堵するなど、守護として名実ともに近江国を治め、幕府重鎮として歩み始めました。
ちょうどその時期、大永3年(1523年)に、連歌師宗長が観音寺城で連歌会を催しており、このころには、城郭としての体裁は整い、本拠も観音寺城に移していたと考えられています。
天文元年(1532年)には、足利将軍の庇護者として足利義晴を迎え、桑実寺(滋賀県近江八幡市安土町)を仮御所(仮幕府)としました。
桑実寺駐車場です。ただし、ここの駐車場を利用したことはありません。拝観時間は9:00~12:00(冬季は16:00まで)。入山料は300円。観音寺城から下山時に通過するだけでも必要です。センサーあり。
義晴は、天文3年6月まで桑実寺に滞在しましたが、天文2年4月21日には、義賢の元服式にあわせ、観音寺城の定頼屋形への「御成」がありました。守護大名家にとって、将軍御成は非常に晴れやで大きなイベントで、永禄11年(1568年)5月17日に行われた足利義昭の一乗谷朝倉館(福井県福井市)への御成は、具体的なプログラムから食事内容、献上品など細かな内容まで記録が残されているそうです(小野 1997年)。
おそらく、六角氏も御殿の改修など、それ相当の準備を行ったのではないかと思います。
ここまでを、「築城2期」としておきます。
この時期の改修記録が馬淵村『馬淵文書』に残っています。
天文2年(1533年)3月、馬淵村で、「御屋かた様(六角定頼)の命令で「石寺のくきぬき(釘貫=木戸)之御用」に十禅師社の森の木を供出させられた、というものです(村田 1992年)。
あくまでも山麓の石寺の木戸ですが、時期的に義晴御成の直前にあたることから、さまざまな改修修理のひとつであったと思われます。
観音寺城築城3期
天文21年(1552年)、六角の全盛期を築いた定頼が死去し、義賢(承禎)の代となります。弘治 2年(1556年)に改修記録が集中します。代替わりから弘治 2年までを築城3期としておきます。
『下倉米銭下用帳』
記録のひとつは金剛輪寺『下倉米銭下用帳』です。
これは、長享元年(1487年)から弘治2年(1556年)までの金剛輪寺の支出項目の残欠を継いだもので、下記は、観音寺城の石垣に関わる部分です。
年代について、以前は天文5年(1536年)と考えられていましたが、その後再調査が行われ、現状では弘治2年(1556年)とされています。報告書が刊行されていますが未見のため(愛荘町教育委員会 2010年)。以下は中井均氏(2022年)を参考にしました。
冒頭の番号は説明用の仮番です。次は支出した米銭の量を記しています。
「御屋形様」とは六角義賢、「石垣打」とは石垣普請のことです。
(1)の「惣人所」は不明。(4)~(7)の「西座」についても他に史料がないようで不明ですが、金剛輪寺にも「北谷」「南谷」といった坊院グループがあることから、「西谷」に所属する寺普請を担当していたグループかもしれません。
観音寺城の石垣普請について六角氏家臣三上宗右衛門の使者谷十介がたびたび金剛輪寺を訪れ、金剛輪寺の西座衆との間で、御屋形様(義賢)の命による「石垣打」「石垣賄事」について会議(談合)が行われていたことがわかります。
(1)の「上下一宿飯酒」は谷十介のための宿泊費・飲食代。
(7)の「上之石垣」については、山上の石垣のように思えますが、文書上の「上記の」かもしれないとのこと。
難しいのは、(4)~(7)の「賄之事」「賄事」ですが、中井氏によるとこれは出費のことで、義賢が「石垣打」について費用負担を金剛輪寺に押しつけようとし、負担に耐えられない金剛輪寺側が、義賢に対して「御訴訟申上之由」(4)ということのようです。
いずれにせよ、『下倉米銭下用帳』は、石垣築造の技術のない六角氏が、金剛輪寺に対して技術提供を求めたとする一部の解釈はまったくの誤りです。
『馬淵文書』
もうひとつの記録が『馬淵文書』です。
これは『五個荘町史』からの引用で、村田修三氏によると、御馬場の下の「石を運ぶか積むために十禅師社の森の木を切るように命ぜられた」となるようです(村田 1992年)。下は、「御屋かた様之御たて」(御屋形様の御館)のために森の木を切る、といった内容でしょうか。
いずれにしても、『下倉米銭下用帳』と『馬淵文書』の「弘治2年」という年号と「三上殿」の符合は、この時期に「三上殿」を普請奉行として観音寺城の改修が行われたことを示しています。
守護大名は、当主の代替わりごとに居館を新造することが多かったようです。伝本丸など主要部に対する昭和の発掘調査(1969~1970年)では、建物礎石や庭園遺構、排水路、溜枡などの遺構が発見されましたが、出土遺物は16 世紀後半が中心だったようです。くわしいことは分かりませんが、現状主要部に残る建物跡は、義賢時代に新造された可能性がありそうです。
ただ、『下倉米銭下用帳』にある石垣普請が御殿新造にともなうものなのか、外郭などにかかわる別ものなのか。そのあたりは不明です。
観音寺城築城4期
永禄3年(1560年)の野良田の戦い(滋賀県彦根市)で、浅井長政に敗れてから、永禄11年(1568年)の信長上洛戦で観音寺城を放棄し逃亡するまでの間を一応築城4期としておきます。
永禄6年(1563年)に勃発した「観音寺騒動」では、六角義弼(義治)が重臣後藤父子を忙殺したことに端を発し、家臣団のほとんどが主家に敵対。顛末を記した『長享年後畿内兵乱記』には、「観音寺乱妨、一宇不残焼失、観音寺本堂迄回禄、麓石場寺三千家屋一時焼却」とあります。観音正寺本堂と山麓石寺の焼失が別々に書かれているので、この段階で山上の観音正寺が「一宇不残焼失」であった可能性があります。となると、観音寺城も無事ではなかったと思われます。
永禄年間はまさに六角氏が没落・滅亡へ向け坂道を転げ落ちていった時期です。浅井そして織田勢による北方からの圧力もありも、観音寺城の防備についても何らかの対策を行った可能性もあります。この時期、七尾城(石川県七尾市)など、戦国末期の大規模山城では要塞化が進められますが、観音寺騒動以降の六角氏に、大規模な改修を行うだけの国力と権力があったのかは疑問です。
いまのところそれにともなう記録はなく、遺構も不明確。「築城4期」は仮定です。もしかしたら、守護館から脱皮しなかった(できなかった)のかもしれません。
まとめ
観音寺城が一般的な城郭(山城)と異なる点は、観音正寺と共生しその一部を取り込んだ「城郭寺院 」であることで、これはとくに遺構群の成り立ちを考える上で重要な留意点だと思います。
もう一点、観音寺城の性格を考える上で重要なのは、築城2期が、軍事的な拠点であると同時に守護館として整備された点です。
千田嘉博氏は、天文年間(1532~1555年)に観音寺城のような山上の「戦国期拠点城郭」が各地で出現したことを述べています(千田 2009年)。これらは、軍事的拠点でもあると同時に政治的な拠点でもありましたが、たとえば七尾城(石川県七尾市)のように、戦国末期に向けて、軍事的な要塞化にシフトしていきます。観音寺城の築城3・4期、とくに4期はそういった時期であってもよいはずなのですが、どうもそのあたりがはっきりしません。
これは、近江の特殊事情、観音正寺と山門勢力(延暦寺)との共生関係が背景にあるような気がします。。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(15)に続きます。
2024年8月26日投稿