石垣 (7) 編年(石垣の変遷) (3)
観音正寺・観音寺城の変遷 (1)
観音寺城の石垣
前回(24)、前々回(23)の投稿で、観音寺城(観音正寺)の石垣を分類してみましたが、近世城郭と比べると石垣のひとつひとつが個性的で、雑多な石垣が混在する状況があります。
そうした個性が築造年代差によるものなのか、石工衆の違いなのか、用途、たとえば客人を威圧する「表」の石垣なのか、ただの土留め石垣なのか、はたまた、緊急性、要求された工期がどうだったのか。さまざまな可能性があるなかで、どういった特徴が年代差を反映しているのかを捉えなければならないのですが、なかなか難しい。
近世城郭では、それが天下普請であっても、蓄積されたノウハウに裏打ちされた仕様があったはずですが、観音寺城は、ベースとしての寺院の石垣から城郭の石垣への転換を模索した「さきがけ」となる城郭であり、その過程でさまざまな試行錯誤があったと思われます。その過程を何とかひも解いて、観音寺城全体の築城過程に少しでも迫ってみたいと考えています。
観音寺城の石垣の年代
以前の投稿(14)で、文献史料から観音寺城の築城(改修)時期を考えてみたことがあります。要約すると以下の通りです。
これをベースに、観音寺城の石垣の年代について考えてみたいと思います。
石垣の築造年代について最初に検討を加えたのは北垣聰一郎氏です。北垣氏は算木積みの完成度と、金剛輪寺文書『下倉米銭下用帳』にある「御屋形様石垣打申」に注目しました。そして、「御屋形様石垣打申」を観音寺城山麓の御屋形跡(現天満宮)の石垣のことであるとして、この石垣を文書の記載の年代である天文5年(1536年)にさかのぼる、観音寺城最古の石垣と考えました(北垣 1987年)。
しかし、『下倉米銭下用帳』については、その後再解読作業の結果、記載年代が天文5年ではなく弘治 2年(1556年)であることが判明しており(愛荘町教育委員会 2010年)、「御屋形様」についても、これは場所ではなく当主六角義賢のことで、「御屋形様の御命令で石垣を打った(築いた)」との解釈が妥当であること考えられています(村田 1992年など)。また、以前の投稿(9)で指摘しましたが、「御屋形跡」の呼称自体が比較的最近のものである疑いもあります。
観音寺城の石垣の築造年代について、踏み込んだ発言をしている研究者は意外なほど少なく、『下倉米銭下用帳』の引用にとどめていることがほとんどです。
中井均氏は、北垣氏の「御屋形様」=御屋形跡説 を否定しつつも、御屋形跡の石垣を最古としていますが(中井 1997年)、その根拠は確認できませんでした。年代についてはやはり『下倉米銭下用帳』を根拠とし、以前は講演会資料などで「安土城より40年も古い」をキャッチフレーズのように使っていましたが、現在では、「安土築城の実に20年も前のことでした」(中井 2016年)と。
正直なところ、考古学者が文献史料に振り回されてどうするの、と思ってしまいますが、問題は、『下倉米銭下用帳』の記載年代がはたして観音寺城の石垣年代の「上限」を証明するものなのか。そこに大きな疑問を感じます。
中世城館関係の石垣で時期が判明している遺跡は、8代将軍足利義政が文明14年(1482年)に造営した東山殿石垣(銀閣寺旧境内)ぐらいですが、寺院関係はこれを確実にさかのぼります。
白山平泉寺(福井県勝山市)南谷坊院群の石畳道・石塁の構築は、永享12年(1440年)ごろには開始されたと考えられており、最近発掘調査が行われている阿弥陀寺跡(滋賀県近江八幡市)の石垣も15世紀代にさかのぼる可能性があるようです。長法寺跡(滋賀県高島市)は、文明3年(1471年)の売券を最後に消息不明となっており、石垣はそれ以前に構築されたと考えられます。
一般論として、畿内周辺の寺社の盛期は応仁・文明の乱以前であり、乱以降に大規模な普請が行われた可能性は低いと思われます。
また、応永8年(1401年)に死去した湖北の守護京極高詮の菩提寺、能仁寺でも、発掘調査で高さ約3mの石垣が発見されているようです。
滋賀県湖東・湖南の寺院跡の石垣は、福永清治氏がまとめられていますが(福永 2007年)、中世石垣の可能性のある遺跡はかなりの数あります。
白山平泉寺や長法寺跡のような「総石垣」はともかくとしても、寺社では、石段や基壇、礎石などの石造りは古代から行われているわけで、「寺院の石垣」側からみると、中世前期の石垣は、けっして突飛なものではないと思います。
観音正寺と共存する観音寺城の石垣が、はたして「安土築城のわずか20年前のこと」なのでしょうか。
中世寺院城館の石垣については こちら 。
観音寺城の石垣の分類
観音寺城の石垣の分類は、前回(24)、前々回(23)の投稿で行いました。
このなかで、細かい年代差を反映していそうなのはやはり隅角です。伊庭功氏も、算木積みの完成度に注目して隅角をⅠ~Ⅴ類に分類しています(伊庭 2014年)。ただ、そもそも観音寺城では隅角をもつ石垣が少なく、石垣の編年(変遷)から観音正寺・観音寺城全体の変遷の解明につなげていくことは不可能で、もう少し一般的な基準が必要です。
そこで問題となるのが、以前の投稿でも指摘した下記の(1)(2)です。
観音寺城では、石塁と石垣Bは関係性が乏しく共存しません。また、石塁や石垣Aが中世寺院石垣に出自をもつのに対して、石垣Bの高石垣は中世寺院にはありません。
こうしたことから、石塁と石垣Bは機能差といった問題ではなく、年代差である可能性が高いと考えます。
「寺院の石垣」から「城郭の石垣」
前回も引用しましたが、藤岡英礼氏は、「観音寺城のような5~6メートルを越す高石垣は、近江の山寺では認められず、その点では寺院技術の転用ではなく、六角氏による遮断指向 - 城郭らしさを認めることができよう」(藤岡 2015年)と述べています。
観音寺城の石垣普請には、金剛輪寺の西座衆など寺院の関与がはっきりしており、ベースとなる中世寺院側からの視点も必要だと思います。
石塁Aは寺院の坊院区間などで一般的にあるもので、「寺院の石垣」そのものです。これを曲輪の区画に転用(応用)したものが石塁Bです。そして、石垣B(石塁Cを含む)こそが「城郭の石垣」への転換、進化だと思います。
石塁Bの伝本丸・伝池田丸などは、曲輪の外郭ライン(塁線)が曲線を描いており、曲線に対する石垣築造は、石塁Cや石垣Bよりも石塁Bの方が容易であったと思われます。伝本丸・伝池田丸の石塁の隅角ははっきりとした折れをもっていません。
平面的に曲線を描く石垣Bは、沖縄のグスクや赤穂城(兵庫県赤穂市)などに例があり、観音寺城御屋形跡のように、ゆるい凹面状の石垣もありますが、連続的な曲線や円形は、やはり強度を確保することが難しいと思います。
石塁Cや石垣Bは、基本的に直線と折れで構成されます。ということは、斜面地の切岸普請が必要になるというこということになります。
観音寺城は、曲輪平坦地の普請が中心で、斜面地に築かれた石垣Bは山中に点在するだけで、山全体の造成は行われていません。
・観音寺城 石塁B 曲線
・織豊系城郭 石垣B(石塁C) 直線+多角(シノギ角)
・近世城郭 石垣B(石塁C) 直線+直角
これは、山全体をいじるような、普請規模(掘削量)が時代とともに増大していく過程であるとともに、近世城郭では、平城への移行にともない、地形に対する造形が容易なったということだと思います。
観音寺城石垣の変遷
石塁A、石塁B、石垣Bを指標にして、以下の段階設定が可能ではないかと考えます。
観音正寺は、観音寺城築城後も維持され並存していたと考えられるので、Ⅰ段階の石垣が観音寺城の段階に築かれた可能性はないとはいえませんが、基本的には石垣Ⅰ段階からⅢ段階は時期差年代差として捉えられると思っています。
なお、隅角については前回の投稿で、A1 ⇒ A2 ・B1 ⇒ B2 の変遷を想定しましたが、この点から石垣Ⅲ段階については、下記の通り細分できる可能性があります
後半の石垣は、割面によって石垣面を平滑に整えており、これは安土城につながる大きな特徴だと考えています。
観音寺城の石垣はいつ築かれたのか
観音寺城が「観音寺城築城2期」、六角定頼の時代に山上の居城(守護館)として築かれたのはおそらく確実で、大永3年(1523年)以降に、連歌師宗長や宗牧などの登城記録、足利将軍義晴の御成記録などが残っています。
しかし、観音寺城の石垣について、この時期まで古くみる研究者の方はいないようです。考古学的な裏付けのない現状で、「城郭の石垣」を定頼の時代まで古くみることには躊躇があるのかもしれません。実際、これが事実だとすると、安土城より約半世紀古くなってしまいます。ただ、「そんなに古いはずがない」は、何を根拠としているのか。。
伝平井丸や伝落合丸の門跡(虎口)は、(写真2)(写真3)(写真4)を見比べれば明らかなように中世寺院の門跡そのものです。伝平井丸の門跡は、守護館の表玄関としての風格と規模をもっていますが、基本的な造りは寺院です。
1520年代には「観音寺城」があり、同時期の周辺寺院にはすでに石垣が築かれている。両者は酷似している。これをあえて『下倉米銭下用帳』の弘治 2年(1556年)まで下げて考えることについては疑問しかありません。
観音寺城の石垣については、「城郭の石垣」と同時に「寺院の石垣」としての視点も必要ではないでしょうか。
『下倉米銭下用帳』について、石垣築造の技術のない六角氏が、金剛輪寺に対して技術提供を求めたとする方もいますが、これはただの拡大解釈です。実際は石垣普請と費用負担に対する談合の記録です。
観音正寺や桑実寺がどの程度の工人集団をかかえていたかは不明ですが、観音寺城の石垣築造には、湖東三山の金剛輪寺、西明寺や百済寺や、中世前期から石造物製作が盛んであった菩提寺山や岩根山(十二坊)周辺などの天台宗系寺院付属の石工集団が継続的に動員されていたのではないかと考えています。
ここでは、以下のように考えてみました。A案だと、観音寺城が本格的に整備された段階(1520年代)から石塁は存在したことになります。
その証明は、伝本丸など主要部の石塁の発掘調査が必要になりますが、私はA案推しです。
「寺院の石垣」側の視点からみると、観音寺城主要部の「石塁」を16世紀後半まで下げて考えることの方に違和感を感じます。
いろいろ探してはみたのですが、中世寺院の石垣に関する研究はまったくというほど見当たりませんでした。ここでは長法寺跡の石垣を15世紀代と考えていますが、これも証明されているわけではありません。
「寺院の石垣」の研究なくして「城郭の石垣」の起源をさぐることはできないと思うのですがどうでしょう。
次回は、石垣編年にもとづく観音正寺・観音寺城の変遷図です。
参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(25)に続きます。
2024年11月15日投稿