観音寺城 (27)

 

観音正寺・観音寺城の変遷 (3)

観音寺城の変遷

前回からの続きです。文献史料と石垣編年から以下のような時期設定をしてみました。

観音正寺 = 石垣Ⅰ段階
・観音寺城前期
築城 2 期 六角定頼の時代 = 石垣Ⅱ段階
・観音寺城後期
築城 3(・4)期 六角義賢(・義治)の時代 = 石垣Ⅲ段階

観音正寺の時代

観音正寺(滋賀県近江八幡市安土町石寺)は、天台宗系単立の寺院です。山号は繖山(きぬがささん)、寺号について、中世史料では「観音寺」が多いようですが、使い分けが難しいのでここでは「観音正寺」に統一しています。

変遷図観音正寺
(図1) 【観音正寺】
石垣Ⅰ段階

現在観音正寺境内がある繖山南斜面には、無数の削平地とこれを結ぶ山内道がありますが、山内道(参道)を中心に、それに沿って削平地がひな壇状に並ぶ状況は山岳寺院の坊院群そのものです。本寺と末寺(子院/坊院)群が一体となった「一山寺院」構造と呼ばれているものです。
密教系大寺院の坊院群は、「谷」と呼ばれる複数のグループから構成されることが一般的で、観音正寺はA~Dの4グループに分けることができます。

寺伝による創建は、推古天皇13年(605年)に聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるとのことですが、伝承はともかく、11世紀代には西国三十三所観音霊場の巡礼記に名前があります。中世観音正寺は、短く見積もっても500年以上の歴史があり、現況はその歴史が蓄積された姿です。したがって、すべての削平地が同時に坊院として機能していたとは思えませんが、中世前半期の観音正寺最盛期は、(図1)のような寺域の広がりをもっていたと考えています。

伝進藤邸後藤邸
(写真1) 【伝進藤邸・後藤邸間 坊院参道】
百済寺他参道石塁
(写真2) 【坊院参道】
(A)百済寺北谷(滋賀県東近江市)、(B)長法寺跡(滋賀県高島市)、(C)白山平泉寺南谷(福井県勝山市)。

本堂との位置関係から、坊院群Aが寺内組織の中で最も有力な「谷」だったと思われます。坊院群A(伝進藤・後藤邸)は、坊院群B・C・Dと比べて谷内の山内道(参道)が直線的で、坊院区画も整っています。藤岡英礼氏によると、整然とした直線道路(参道)と方形区画の坊院群の成立時期は、15世紀以降とのことです(藤岡 2012年)。坊院群B・C・Dについては、改修されることなく、観音寺城築城期には廃絶していた可能性があります。

石塁Aは、坊院群A(伝進藤・後藤邸)と坊院群D(伝松岡邸)だけですが、各坊院群には、石段や県報告書(滋賀県教育委員会 2012年)未記載の石垣Aも確認できます。これらは、観音寺城築城前の石塁・石垣の存在を証明するものと考えています。

観音寺城前期

文献史料にもとづく築城2期、石垣編年のⅡ段階です。
六角定頼の時代で、この時期に六角氏の居館、守護館としての本格的な築城が行われました。築城は、1520年代から1530年代、おもに1520年代に行われたと考えています。
金剛寺城(滋賀県近江八幡市)も、行政拠点として16世紀前半まで機能していたようですが、公家や連歌師などの来訪記録はいずれも観音寺城です。

観音寺城主要部(伝本丸・伝平井丸・伝池田丸/常御殿・主殿・会所)は、繖山頂上部と観音正寺の寺域をさけた繖山西尾根に築かれました。観音正寺との共存を前提とした立地です。

(図2) 【観音寺城前期】
築城 2 期、石垣Ⅱ段階
伝木村邸石塁
(写真3) 【伝木村邸前石塁】

伝本丸・伝平井丸・伝池田丸の周辺斜面部側については、この段階でどの程度の範囲が整備されたのかを明らかにすることはできませんが、大手道・表参道である本谷を望む位置にある伝木村丸が石塁Bを築いていることから、本谷右岸(西斜面)の曲輪群については、この時期に城郭として整備された可能性があります。

■観音寺城前期の観音正寺

以前に紹介しましたが、六角定頼の時代、天文元年(1532年)ごろの観音正寺の様子は、『桑実寺縁起絵巻』上巻第一段に絵図として残されています。これは、将軍足利義晴が桑実寺正覚院に滞在していたときに発願し、絵師土佐光茂に描かせたものです(亀井 2003年)。
ただ、16世紀代の観音正寺は、おそらく中世前半の最盛期に比べると大きく規模を縮小し、坊院群はAのみになっていたと想定します。

なお、坊院群A(伝進藤・後藤邸)の石塁Aには、観音寺城前期の伝平井丸と伝木村丸の石塁に似た「埋門」があります。この石塁が、観音寺城伝平井丸・伝木村丸築城と同じ時期に築かれた可能性も考えられなくはないのですが、「埋門」がはたして年代の決め手になるものかどうか。ここでは、築城以前の観音正寺の遺構と考えておきます。

■稜線上の出曲輪 伝淡路丸など

東西主稜線(東尾根)上本堂エリア裏から、中世奧之院を想定される繖山頂上付近は、おそらく宗教的禁忌から結界( ≒ 堀切)を設けることができない場所ですが、これを避けて築かれた、出曲輪や見張り台(櫓台)などの城郭遺構があります。
伝淡路丸などの石塁Bと、伝三国間などの間詰め石の少ない横長大型石横積みの石垣Aが特徴になります。

主稜線赤色立体図
(図3) 【東西主稜線付近赤色立体図】
「東近江市森林クラウドシステム」から。
伝淡路丸(伝布施淡路守邸)

裏林道(五個荘林道)終点駐車場の上部にあります(動画)(写真4)(写真5)。観音寺城東端の出曲輪です。
三方を石塁、東側は掘り残しの土塁、土塁東側には浅い堀切があります。堀切についてはYouTube動画に画像があります。
石塁Bは伝本丸・伝池田丸と共通しますが、伝淡路丸はより直線的に築かれています。

【伝淡路丸動画】
伝淡路丸
(写真4) 【伝淡路丸】
(A)(B)南辺石塁、(C)東側土塁(曲輪内から)。
伝淡路丸
(写真5) 【伝淡路丸】
(A)(B)北辺石塁、(C)北西虎口。
伝目賀田邸

伝淡路丸南下にある土塁囲みの曲輪です(写真6)。
この地点は、川並口道、源三谷筋道などの山内道が集まる地点です。伝淡路丸と連携した観音寺城東端の出曲輪の可能性があります。

伝目賀田邸
(写真6) 【伝目賀田邸】
(A)(B)土塁、(C)林道からの入口付近。
伝大見付

方形の曲輪で、西側をのぞく三方を土塁で囲み、内壁の一部を石垣にしています(写真7)。
伝大見付と伝淡路丸の間は吹越峠と呼ばれる鞍部で、そこから大目付側には段状に曲輪群が築かれています。
大目付西側の伝伊庭邸も城郭遺構の可能性があります。

伝大見付
(写真7) 【伝大目付】
伝三国間(伝三国丸/伝国領邸)

ここは石塁ではなく、土壇状の切岸に石垣を築いています(写真8)。
伝三国間の北東側尾根先には石垣をともなう櫓台、東斜面下には高さ5.5m、長さ31mの「伝三国間東側下石垣」と無名見付があり、防衛拠点のひとつではないかと思います。

伝三国間
(写真8) 【伝三国間】
伝沢田邸

伝沢田邸は城内最高所にあります(写真9)。
「沢田氏」は、江戸時代の軍記物である『江源武鑑』の作者、「沢田」源内氏郷の創作です。頂部にありながらも、稜線を残して南斜面側に曲輪を築いています。
伝蒲生邸もこの時期の可能性があります。

観音寺城後半期になってからだと思いますが、巨石止めの伝楢崎邸石垣(写真9C)は、伝蒲生邸・伝沢田邸から伝三国間を連結する目的で築かれたのではないかと考えています。

伝沢田邸他
(写真9) 【伝沢田邸前石塁】(A)稜線(右側伝沢田邸)、(B)稜線伝沢田邸側石垣、(C)伝楢崎邸石垣。

この他に、観音寺城前期の可能性のある出曲輪や見張り台(櫓台)としては、閼伽坂見付西側櫓台状石垣があります。やはり、巨石止めの横長大型石横積みです。

■坊院群と家臣屋敷

天文8年(1539年)2月9日に観音寺城に登城した相国寺鹿苑院主梅叔法霖は、定頼・義賢父子と対面したあと、「大原殿」などの家臣邸に赴き、神崎邸で一泊しています。
天文元年(1532年)に訪れた連歌師谷宗牧も、家臣邸で連歌会を催しています

では、家臣団屋敷はどこにあったのかということになりますが、私見では坊院群Aと重なると考えています。坊院群A(伝進藤・後藤邸およびその上部)も、観音寺城前期の段階では、区画全部が坊院として利用されていたとは考えられないので、廃絶した坊院を屋敷に改築したり、あるいは特定の坊院を定宿にしていたパターンも考えられます。

将軍足利義晴は、桑実寺正覚院を仮御所(幕府)に、信長は本能寺を定宿としていましたが、こうした寺院利用は一般的であったと思います。それだけ寺院は居住性に優れていたと考えられ、逆に言えば、京都滞在も長かった六角氏重臣が、削りっぱなしの段曲輪に屋敷を構え、そこに連歌師を招待したとは到底考えることができないのですが、いかがでしょうか。
坊院群B・C・Dは、非常時に兵站地として利用されることはあっても、少なくとも重臣クラスが屋敷として利用したとは考えられないと思っています。

写真位置図
(図4) 【掲載写真位置図】

「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。

参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。

次回は、観音寺城後期です。

2024年11月21日投稿


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