舞鶴要塞・舞鶴鎮守府 (10)
製造工程と覆土式火薬庫・隧道式火薬庫

火薬廠・兵器廠・軍需部
第三海軍火薬廠跡の廃墟の前に立つと、何とも言えない・・・漠とした・・・歴史の重みを感じます。それだけでも現地に行く価値はあるのですが。ただ、そこで何が行われていたのか、正直なところ具体的な作業内容は想像することもできません。
化学的な知識はなく、機械的な情報も限られているため、具体的な作業内容を復元することはできませんが、とりあえず手元にある資料(千藤三千造 1967年)(関本長三郎 2005年)(毛利聡・牧野雅司・番場豊 2022年)などを参考に、爆薬から爆薬火工兵器(爆弾・弾丸(砲弾)・魚雷・機雷など)に至る製造過程について、担当部局(工場)の役割を中心にまとめてみました。一部前回の投稿と重複する部分があります。
第三海軍火薬廠朝来工場で行われていたことは、「爆薬」と「炸薬(さくやく)」の製造です。「炸薬」とは、爆弾・弾丸(砲弾)・魚雷・機雷などの兵器に装填するために成形した爆薬です。
弾丸を発射するための「火薬」(装薬)はここでは製造していません。火薬製造を行っていた神奈川県平塚の第二海軍火薬工廠がアメリカ軍の大規模な空襲にさらされ、その移転先のひとつとして朝来工場第二製造部の南側、現舞鶴市安岡に黒色火薬の製造工場が計画されましたが、終戦までは完成しませんでした。
また、弾体(弾丸の側)・缶体(対潜艦機雷の側)は、海軍工廠の兵器廠(造兵廠)で製造していました。舞鶴は造船廠が基幹事業ですが、兵器廠もあります。
平時の場合、完成した弾体・缶体と炸薬は、海軍工廠の軍需部が貯蔵し、必要時に海軍工廠兵器廠の火工工場で弾体・缶体に炸薬を装填して出荷します。
明治期の陸軍砲台では、弾丸の組み立ては、各砲台の炸薬填実所、装薬調整所などで行っていたと思います。

現舞鶴赤レンガパーク。
軍需部は、砲弾などの兵器類から軍艦で使う燃料、食糧、被服までいっさいの軍需物資を工場などから集めて保管し、軍艦や前線に送り出すことを役割とする部署です。
現在、舞鶴東港の港湾エリアにある舞鶴赤レンガパーク(写真2)は、舞鶴鎮守府の倉庫群で、隣接地の海上自衛隊所管の4棟(9~12)を含め12棟の赤レンガ造の倉庫が残っています。
現海上自衛隊舞鶴補給所倉庫の履歴は確認できませんでしたが、他はすべて軍需部所管の倉庫です。下の表では「兵器廠」となっているものもありますが、これは建設時の名称で、大正12年(1923年)にはすべて軍需部へ管理が移っています。用途(名称)について、例えば1号棟は、「魚形水雷庫」から「装備庫」「掃海庫」と変更されていきますが、保管物資は、軍需部の所管となっても大きく変わっていないようです。
| 1 | 旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫 | 明治36年 | 赤れんが博物館 |
| 2 | 旧舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫 | 明治35年 | 舞鶴市政記念館 |
| 3 | 旧舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫 | 明治35年 | まいづる智恵蔵 |
| 4 | 旧舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫 | 明治35年 | 赤れんが工房 |
| 5 | 旧舞鶴海軍軍需部第三水雷庫 | 大正7年 | 赤れんがイベントホール |
| 6 | 旧舞鶴海軍機関部需品庫(第二水雷庫) | 明治35年 | 文化庁所管倉庫 |
| 7 | 旧舞鶴海軍機関部需品庫(第一水雷庫) | 明治35年 | 文化庁所管倉庫 |
| 8 | 旧舞鶴海軍機関部需品庫(電機庫) | 明治35年 | 文化庁所管倉庫 |
| 9 | 旧舞鶴海軍軍需部第一需品庫 | 大正8年 | 海上自衛隊舞鶴補給所No.17倉庫 |
| 10 | 旧舞鶴海軍経理部衣糧科被服庫 | 明治34年 | 海上自衛隊舞鶴補給所No.3倉庫 |
| 11 | 旧舞鶴海軍経理部衣糧科被服庫 | 明治34年 | 海上自衛隊舞鶴補給所No.2倉庫 |
| 12 | 旧舞鶴海軍軍需部第三被服庫 | 大正10年 | 海上自衛隊舞鶴補給所No.4倉庫 |
他に保管場所として火薬庫があります。海軍工廠、海軍火薬廠長浜工場周辺では、当初、軍需部所管は雁又火薬庫(場所詳細不明)だけでしたが、日中戦争勃発後、火薬廠長浜工場の朝来への移転とともに、「白浜」「佐波賀」「高浜」火薬庫の増設が計画されました。分散化も意図していたと思われます。
白浜火薬庫は、舞鶴海上保安学校(舞鶴市長浜)の正門西側奥で、現在も海上自衛隊白浜火薬庫として利用されているようです。佐波賀は、東舞鶴湾の長浜対岸に地名があり、高浜は、おそらく舞鶴市の東隣の現高浜町でしょうか。場所は確認できていません。
佐波賀については、終戦時の第三海軍火薬廠の引渡目録(※1)に名称が出てくるので火薬廠所轄の可能性がありますが、他は軍需部でしょうか。
これら火薬庫で、火薬廠で製造された炸薬、炸薬装填済みの火工兵器が保管・管理されていたのでしょう。
ただし、戦時、とくに昭和18年ごろ以降戦局が悪化していく中で、第三海軍火薬廠や海軍工廠の役割、作業内容も変化していったと思われます。
第三海軍火薬廠朝来工場の作業区分
第三海軍火薬廠は、舞鶴湾側(西側)大波地区の「第一製造部」と谷奥の「第二製造部」に分かれていました。全体図はこちら。
第一製造部
第一製造部は「爆薬」を製造する製薬工場です。施設配置図(千藤三千造 1967年)(前回投稿参照)(関本長三郎 2005年)からは、下瀬爆薬・ヘキシル・テトリルの製造場が確認できます。
製薬関係以外では、金物工場、木型製造場があります。第二製造部の炸薬成形で使用する鋳型の製造でしょうか。ただし、炸薬の規格は兵器の種類ごとに異なっていて、鋳型にも厳格な規格が必要であったことから、民間の東京岡田製作所や東京三條工機などが製造を行っていたようです。
第二製造部
第二製造場では、第一製造部で製造した爆薬をもとに、弾丸・爆弾・魚雷・機雷などの兵器に装填するための「炸薬」を製造(炸薬成形)していました。
第二製造場は、(図1)のように本谷と支谷に分散しています。これは、不慮の爆発による被害の拡大(誘爆)を防ぐためで、谷部の工場は、さらに土塁によって区切られています。
なお、工場番号と通称とみられる谷名は(関本長三郎 2005年)によりますが、終戦時の引渡目録添付の図面(前回投稿、図2)には書いてなさそうです。ただ、「第22工場」といった記載は引渡目録(※2)にあります。「圧炸谷」といった名称は、当時使用されていた通称でしょうか。
なお、(関本長三郎 2005年)添付図では、「22工場」が2か所あります。一方が誤植なのかとも思いましたが、確認のしようがないので(図1)ではそのまま表記しています。
(図1)は、今回作成した図です、背景図は、左側が舞鶴市都市計画図、右側が国土地理院図(カシミール3D)です。1/2,500レベルの都市計画図だと土塁まで表現されているのですが、右側が公開されていません。
建物基礎は他にもあるようですが、(図1)は実際に確認したもののみ図化しました。規模・位置など正確なものではありません。

背景図は、左側が舞鶴市都市計画図、右側が国土地理院図を使用。
【気缶場・倉庫群 (本谷)】
現在、舞鶴高専と残土置場になっている場所は、高煙突の気缶場(3棟か)と倉庫群が並んでいました。気缶場とはボイラー室のことで、炸薬成形工場は蒸気を動力としていたようです。気缶場は、舞鶴高専によって発掘調査が行われています(毛利聡・牧野雅司・今村友里子 2019年)。
他には、紙筒工場や会食場、更衣洗身場などが確認できます。火薬がもとで皮膚がかぶれる人が多かったようで、洗身場は各所に点在しています。
【第25工場 (乾燥谷)】
本谷上部の通称乾燥谷です。ここは第一製造部で製造した爆薬の乾燥場です。乾燥爆薬置場は周囲が土塁によって区画されています。
【第24工場 (圧炸谷(あっさくだに))】
未確認エリア。炸薬を確実に爆轟させるために用いる「伝爆薬」の圧炸薬成形。
【第22工場 (空水谷(くすだに))】
現在の青葉山ろく公園エリア。爆弾・魚雷炸薬の鋳造成形、直填。
【第22工場 (砲熕谷(ほこだに))】
砲炸薬の鋳造成形。
【第23工場 (向砲熕谷(むかいほこだに))】
砲炸薬の鋳造成形。ただし、第22工場と第23工場は、個々の施設名称をみると、異なる作業が行われていた可能性があります。
火薬・爆薬というと粒状のイメージがあるかもしれませんが、粉末は一式爆薬などごく一部で、下瀬火薬や九二爆薬(TNT)など多くは常温で樹脂の塊になっています。これを溶融器で一度溶かして型類(鋳型・張型・薬筒込型)に流し込んだり、高い圧力をかけて凝固させたりして炸薬とします。
炸薬は紙筒や包装紙に梱包され、火薬廠での作業は基本ここまでで完了です。弾体・缶体への炸薬の装填は、海軍工廠兵器廠火工工場で行います。
【検査場】
完成品の検査場でしょうか。
(関本長三郎2005年)では、地区名称が「検査場(鋳造成形工場)」になっていて、(千藤三千造 1967年)でも、谷奥が鋳造成形場になっています。ただし、この地区の個々の施設名称は、資料によって異なります。
【火薬庫】
各谷(工場)にも爆薬庫と半作品(製品)一時置場がありますが、各谷(工場)から独立した長大な火薬庫が2か所あります。覆土式火薬庫と隧道式火薬庫です。
引渡目録(※2)によると、覆土式火薬庫には爆薬が、隧道式火薬庫にはおもに完成品が納められていました。
製造工程
以上をまとめると、
【爆薬素材】⇒ 軍用引込線 ⇒
(第一製造部)【爆薬製造】⇒
(第二製造部)[乾燥谷第25工場]【爆薬乾燥】⇒ [覆土式火薬庫] ⇒
(第二製造部)[圧炸谷第24工場][空水谷第22工場][砲熕谷第22工場][向砲熕谷第23工場]【炸薬製造】⇒ [隧道式火薬庫] ⇒ 軍用引込線 ⇒
(海軍工廠兵器廠)【弾丸・爆弾・魚雷・機雷、炸薬装填】⇒
(海軍工廠軍需部)⇒ [火薬庫(倉庫)] ⇒ 戦地
でしょうか。
製造工程の見直し
昭和18年以降、戦局の悪化にともない、高角砲弾の需要が極端に増加しました。弾丸加工法の能率化が求められるようになり、弾体へ炸薬を直接装填する直填法が開発されました。これは、一部魚雷などでも採用されたようです。
終戦後に残置されていた兵器は、引渡目録(※2)によると、十二糎七高角砲、十二糎高角砲の炸填済み弾丸とともに、空の弾体が多量に残されています。このことから、昭和20年ごろには、高角砲弾は火薬廠で炸薬の装填まで行っていたと考えられます。
なお、(関本長三郎 2005年)にもとづく各工場の上記内容では、昭和17・18年に全体の過半数の製造量を占めていた爆弾(前回、表2)ではなく、砲(弾丸)炸薬成形が主体となっているように見えます。(関本長三郎 2005年)図は終戦近くの製造区分(名称)でしょうか。引渡目録(※2)による終戦後に残置されていた兵器は、高角砲弾が大半です。
覆土式火薬庫・隧道式火薬庫
これ以降は、遺構の紹介です。
各谷(工場)にも爆薬庫と半作品(製品)一時置場がありますが、各谷(工場)から独立した長大な火薬庫が2か所あります。
「覆土(ふくど)式火薬庫」と「隧道(ずいどう)式火薬庫」です。引渡目録(※2)では、「覆土式爆薬庫」と「トンネル式爆薬庫」になっていますが、一般的に使用されている前者のままとします。
覆土式火薬庫
舞鶴高専南東側にある公誠動物霊園と残土置場の間を残土置場に沿って東側に歩いて行くと、右手に廃車があります。覆土式火薬庫はその奥の谷部にあります。
朝来工場は、施設の多くが谷部にあり、現在は排水施設が機能していないので、いたるところが泥田状態です。ここもそんな状態です。行かれる場合はご注意ください。

(B)覆土側面、(C)覆土上。
覆土式火薬庫は、谷部にカマボコ形の掩体を築き、その上部にカモフラージュと保護のために土をかぶせていて、全体が土塁状になっています(写真3(B)(C))。
南端部には通気用のコンクリート管がありました(写真4)。周囲の支点(写真4(C))は、通気口にかぶせてあったはずの鉄笠の支えでしょうか。
内部は、前室と火薬庫(内庫)に分かれていて、全長は69mとのこと。内庫は二重壁になっています(写真5(B)(C))。結露を避けるためでしょうか。この規模の火薬庫だと基本どこも二重壁だと思います。
ちょっと勇気がなくて奥まで行っていませんが、写真をよく見ると、奥壁には四角の通気窓2か所が並んでいます(写真7)。

(A)南端部、(B)(C)覆土上通気口。

(B)前室から内庫入口、(C)内庫二重壁の隙間(側面・上部)。

内庫から外室。

奥壁に通気窓が左右2か所。
内壁は、陸軍の場合、銅板が貼られることが多かったようで、小笠原父島の清瀬弾丸本庫(東京都小笠原村)では、銅板が現存しています。

(写真8)の名古屋陸軍兵器補給廠関ケ原分廠、玉の火薬庫の格子金具は、銅板の貼り跡です。覆土式火薬庫ではそうした痕跡は認められませんが、(写真7)の側壁の縦の鉄板は壁材の抑え金具かもしれません。
なお、入口扉は、金庫のような厚みをもっていますが、(動画2)を見てもらうと分かるように合板のハリボテです。これは、映画「日本のいちばん長い日」(1967年公開)の撮影がここで行われ、その時に製作されたものとのことです。
隧道式火薬庫
隧道式火薬庫は、台地を貫いたトンネル式の火薬庫です。全長130~140mぐらいありそうです。坑口が西と東にあり西側坑口には軍用引込線が接続していました。
現状、西側がJA京都にのくに の敷地、東側が舞鶴高専の職員駐車場になっています。見学にはご注意ください。
火薬庫は、現在JAが倉庫として使用しているとのことでした。




(※1)『施設ノ部』第三海軍火薬廠引渡目録 昭和20年9月1日 (防衛省防衛研究所)(Ref. C08011034100 アジア歴史資料センター)
(※2)『現場還納目録(兵器及爆薬)』第三海軍火薬廠引渡目録 明治20年9月1日 (防衛省防衛研究所)(Ref. C08011034200 アジア歴史資料センター)
第三海軍火薬廠、続きます。
参考文献・webサイトは、「舞鶴要塞・舞鶴鎮守府投稿一覧」にまとめてあります。
2023年3月、2023年11月、2024年3月(第三海軍火薬廠)、2025年11月(関ヶ原)現地、2026年1月19日投稿。
