福井県敦賀市・滋賀県長浜市
織豊系城郭成立期 (2)
賤ヶ岳合戦陣城群 (1)

豊臣秀吉像(大阪城豊國神社)と柴田勝家像(福井市北の庄城址・柴田公園)の合成。
玄蕃尾城の概要
玄蕃尾城(げんばおじょう)は、福井県敦賀市と滋賀県長浜市の県境にある内中尾山(柳ヶ瀬山)(標高469m)山頂北側に位置します。
天正11年(1583年)に、羽柴秀吉と柴田勝家が天下の覇権を賭けて戦った賤ヶ岳合戦の陣城の一つで、柴田勝家の本陣となったのが玄蕃尾城です。当時は「内中尾城(内中尾山城)」と呼ばれていたようです。
玄蕃尾城のある内中尾山は、東側山ろくに北国街道が、南側には北国街道から分岐し敦賀に抜ける刀根(とね)越えの街道があり、両街道を抑えることのできる要衝の地に築かれました(図1)。
賤ヶ岳の戦いでは、技巧的な縄張りの陣城が数多く築かれていますが、玄蕃尾城は技巧的だけではなく土塁規模も圧巻で、「土の城の最高傑作」、「織豊系陣城の到達点」と称されている山城です。国指定史跡で、続日本100名城にも選ばれています。

カシミール3Dから作成しました。
賤ヶ岳の戦いでは、天正11年(1583年) 3月12日に、勝家が佐久間盛政、前田利家らおよそ3万の軍勢を率いて近江柳ヶ瀬に布陣。同年4月21日未明に秀吉軍が佐久間盛政勢を強襲し、両軍は激戦となり、同日中に勝家軍は敗走しました。
玄蕃尾城がこの間に築かれたと考えるには、縄張りの完成度が高く、普請にかかる土木量も大きいことから、天正10年10月の清須会議で割譲を受けた長浜城(滋賀県長浜市)と北ノ庄城(福井県福井市)の繋ぎの城として、清須会議直後に築城を開始していたと考えられているようです。また、そのベースとして、元亀争乱(元亀元年(1570年)~小谷城攻防戦(天正元年(1573年))の間に、朝倉氏が陣城を築いていた可能性もありそうです。
「玄蕃尾城」の城名の由来となる築城者には2説あり、元亀年間から天正元年(1570年~1573年)に朝倉氏一門の朝倉玄蕃景連が築いた説、天正10年に佐久間玄蕃盛政が築城した説があります(福井県 1994年)。ただし、朝倉景連は、永禄9年(1566年)以降消息が途絶えるようで、その頃には亡くなっていたと考えられています。
賤ヶ岳の戦いについては、改めてシリーズ化したいと思っています。
写真は2018年12月上旬で、時折氷雨が降る天候。午前中に登った城でコースを間違えるアクシデントがあり、玄蕃尾城は午後1時半を過ぎてから登城を開始。当然無人。モノートーンの廃城感溢れる写真が撮れましたが.....霊感はまったくないものの、なんとなく背後が気になる山行でした。
【玄蕃尾城 駐車場】
福井県敦賀市刀根側の登山口。
駐車場には仮設トイレもあったようですが、冬の間は撤去されていて、この時はありませんでした。
駐車場までのルートは、福井県道・滋賀県道140号敦賀柳ヶ瀬線を進み、敦賀市側からだと一車線交互通行の柳ヶ瀬トンネル刀根側口前の信号を案内標識に従って左折し、林道を南へ約2kmです。狭いですが舗装路です。一本道なので迷うことはありません。
玄蕃尾城の標高は461m、刀根側の登山口(駐車場)は350m、比高差は110m程度で、片道約20分の行程です。
登山口の駐車場と登山道の様子はこちら。地元の方々によってよくメンテされています。
最新情報は、敦賀市webサイトでご確認ください。

高橋成計氏作図、(高橋 1989年)からの引用。曲輪名などは当方で追記させてもらいました。

高橋成計氏作図、(高橋 1989年)からの引用。撮影位置などを追記させてもらいました。
玄蕃尾城の構造
玄蕃尾城は、平面方形の主郭(曲輪Ⅰ)を中心として、南北に南曲輪(曲輪Ⅵ)と北曲輪(曲輪Ⅶ)を配置し、その間を馬出などで連結しています。

赤破線は導線。

(A)(C)土塁、(B)堀切。
(写真1)は虎口Eです。現地案内板(2018年当時)では「大手虎口」になっています。
城外から見ると正面に堀切・土塁があり、そのやや左側面から右に折れて入るようになっています。
南曲輪(曲輪Ⅵ)は西側を一段低く城内道としていて(写真1(C))、導線を限定しています。曲輪Ⅵから横矢が掛かるようになっていたと思われます。これによって虎口Eは「2折れ」の食違い状になっています。
(写真2)は南曲輪(曲輪Ⅵ)です。周囲には分厚い土塁を巡らしています。平坦部の普請はやや甘めです。西側は横堀、東側は急峻な切岸(写真2(C))、尾根筋となる南東部と虎口E前は堀切(写真2(B))で遮断しています。

(A)虎口前堀切、(B)南側から、(C)北側から。

北側から。

(A)北側から虎口D、(B)南側から曲輪Ⅰ(主郭)方面。
(写真3・4)は虎口Dです。城内道を進むと前面に堀切と土塁があり(写真3(A))、長方形の突出部の側面に虎口開口部をもちます(写真3(C))。そこを左に折れて入ります。
(写真5)の曲輪Ⅴは、南馬出(曲輪Ⅱ)の前方にある細長い曲輪で、南馬出とともに馬出を重ねたようにも見えます。

(A)南馬出から曲輪Ⅰ(主郭)側、(B)土橋西側横堀、(C)土橋東側横堀。

曲輪Ⅰ(主郭)土塁上から。
(写真6・7)は、主郭(曲輪Ⅰ)虎口A前の南馬出(曲輪Ⅱ)です。土塁囲みになっています。
(写真6(A))は、馬出から主郭側虎口Aを撮ったもので、奥に主郭反対側の虎口Bが見えます。
(写真6(B)(C))は、虎口A前土橋左右の横堀です。(写真6(C))は、遠方に曲輪Ⅳと腰曲輪(曲輪Ⅷ)が見えます。
(写真7)は、主郭土塁から撮った南馬出(曲輪Ⅱ)の全景です。


(A)虎口Bから、(B)櫓台から。
(写真8・9・10・13)は主郭(曲輪Ⅰ)です。主郭は南北約45m、東西約40mの方形プランで、周囲には分厚い土塁と横堀ないし腰曲輪が巡っています。
北東隅には櫓台があります(写真9・10(A))。櫓台には礎石があるとのことですが、現地では気付きませんでした。確かに(写真9)を見るとそれらしいものがいくつか。瓦は出土していないようです。

(A)虎口C、(B)東側横堀、(C)南側土塁から南東隅。

曲輪Ⅰ(主郭)東側土塁から。

(A)先端部側、(B)虎口C方面、(C)南土塁と曲輪Ⅷ(腰曲輪)。
主郭には、虎口Aを含め三か所の出入り口があり、それぞれに虎口前曲輪(馬出)があります。
ただ、(写真11・12)の虎口C前曲輪Ⅳには外への出入り口となる開口部や土橋がありません。現地案内板では「張出郭(見張台)」になっています。おそらく防御陣地の「堡塁」「橋頭堡」なのでしょう。
この曲輪Ⅳの周囲に横堀はなく、南側には比較的広い平坦地(曲輪Ⅷ)が広がっています(写真12(C)右側)。曲輪Ⅷは外周に土塁もなく、どういった役割をもった場所なのか不明。未完成の部分ではないかと考えています。


(A)曲輪Ⅰ(主郭) 土塁北西隅から、(B)虎口Bと土橋、(C)土橋南側堀切。

(A)曲輪Ⅲ(北馬出)から曲輪Ⅰ(主郭)側、(B)曲輪Ⅲ(北馬出)と堀切、(C)曲輪Ⅲ(北馬出)土橋。
(写真14・15)は、主郭虎口B前の北馬出(曲輪Ⅲ)です。
虎口Bは、両側の土塁を若干食違いにしています(写真14(A))。
北馬出(曲輪Ⅲ)は、周囲に土塁を築いていますが、横堀は北側と西側だけで、東側は切岸のみです。主郭北側土塁外周の腰曲輪に対しては土塁もなく開放されています(写真13右端)。(写真14(A))土塁奥側の写真はこちら。守備的には不可解な部分です。この先が未完成なのかもしれません。

(A)曲輪Ⅶ(北曲輪)全景、(B)曲輪Ⅲ(北馬出)・曲輪Ⅶ(北曲輪)間横堀、(C)虎口F(搦手虎口)。
(写真16(A))は、北馬出(曲輪Ⅲ)土塁上から見た北曲輪(曲輪Ⅶ)の全景です。
北曲輪(曲輪Ⅶ)の平面形はほぼ方形ですが、北西側の塁線は弧状を描いています。曲輪内部の削平はやや甘めです。
(写真16(C))は、北曲輪(曲輪Ⅶ)北東隅付近にある虎口Fです。現地案内板では「搦手虎口」になっています。平虎口で馬出はありません。
(写真17・18)は、北曲輪(曲輪Ⅶ)外周の土塁と横堀です。横堀の外側にも土塁を築いています。横堀を塹壕として使用することも想定していたのでしょうか。


玄蕃尾城の特徴
以前の投稿で、元亀年間前後の朝倉氏の城郭(陣城)の特徴について、高田徹氏の分類案(高田 2013年)を参考に、以下のようにまとめたことがあります。
(a) 土塁囲みであること。
(b) 曲輪周囲全体を削り出して(一部は盛って)築き、切岸前面に腰曲輪状の平場ないし横堀をもつこと。
(c) 塁線は横矢掛けによる側射が意識され、これを妨げる畝状空堀群(畝状竪堀)を採用していないこと。
(d) 多様な虎口をもつこと。
これは、玄蕃尾城など賤ヶ岳合戦の陣城に共通する特徴であり、朝倉氏の陣城から習得したと考えています。田上山城(滋賀県長浜市)など、朝倉氏の陣城を改修・再利用したと考えられるものもあり、玄蕃尾城もその可能性があるかもしれません(高橋成計 2018年)。ただし、玄蕃尾城については、同じ場所に朝倉氏の陣城があったにしてもほぼ完全に更新されていると思われます。
朝倉氏の陣城に対して、賤ヶ岳合戦の陣城は、平面形の直線・方形化、外枡形・馬出の定型化などの違いがみられ、玄蕃尾城のような主郭を中心とした「求心的」な曲輪配置も織豊系城郭の特徴です。
ただ、賤ヶ岳合戦の陣城も多種多様です。臨時的あるいは切迫した状況下で普請したり、配置された武将に任されていた城もあったと思います。
主郭に至る導線は、城道を限定するとともに折れを多用しています。
虎口は、平虎口の搦手虎口F、外部と通じていない虎口Cをのぞくと、(図4)のように模式化できます。
千田嘉博氏の分類法によると(千田 2000年他)、虎口E・Dが「2折れ0空間」。馬出をともなう虎口A・Bが「2折れ1空間」です。
虎口Dと虎口A・Bは、虎口空間(馬出)が独立しているか、していないかの違いはありますが、長方形の突出部の側面に開口部をもち、導線を「2折れ」にしている点は共通しています。

馬出と堡塁
玄蕃尾城は、塁線に明確な折れがありません。ただ、曲輪の組合せで横矢が掛かる構造になっています。とくに虎口前の馬出曲輪には、出撃曲輪として以上に、防御陣地である「堡塁」としての役割があった考えています。平虎口の虎口Fには、北馬出(曲輪Ⅲ)からの横矢(側射)が掛かる構造になっています。主郭東側の虎口C前の曲輪Ⅳは、外部への出入り口がなく、「堡塁」として特化されています。見張り台や主郭東壁に対する側射(横矢)を役割として構築されたのでしょう。
馬出が出撃曲輪であるとともに堡塁としての役割をもつことは、丸馬出にも認められます。静岡県静岡市の丸子城や静岡県下田市の下田城には、堡塁に特化された馬出があります。
虎口形態の模式化は、改めてまとめてみたいと思っています。
次回は、中井均氏が、玄蕃尾城との類似性から織豊系の陣城としている埼玉県嵐山町の杉山城です(中井 2009年)。ただ、今回、玄蕃尾城の特徴まとめてみても、両者の違いは大きいと思っています。
今回は、おもに(高橋成計 2018年)、(中井均 2017年・2019年)を参考にさせてもらいました。
参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧」にまとめてあります。
玄蕃尾城2018年12月現地、2026年3月13日投稿。
