西山光照寺 (1)

 

一乗谷朝倉氏遺跡 (25)
朝倉氏の城郭 (33) 補遺
西山光照寺参道脇石仏群
(1)  【参道脇石仏群】
北東覆屋。

西山光照寺の概要

西山光照寺(にしやまこうしょうじ)(福井県福井市安波賀中島町)は、一乗谷朝倉氏遺跡を代表する寺院跡です。
笏谷石(しゃくだにいし)製の大型石仏群や結界石、阿弥陀三尊種子板碑など、一般的な寺院跡にはないような遺物が概ね当時の位置のまま現地に残されています。さらに、これら石造物の多くは銘文をもっていることから、製作年代や由緒を知ることができます。記録のない山中に忘れ去られた山岳寺院にも惹かれますが、光照寺はそれとは真逆で、さまざまな情報をとおして当時の状況を想像することができる貴重な遺跡です。
西山光照寺は、特別史跡の北西端、下城戸から北西約500mの御茸山(みたけやま)の山裾にあります。福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館からだと100mちょっとでしょうか。歩いても行けます。

西山光照寺全体図
(図1)  【西山光照寺全体図】
(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2015年)からの転載、一部加筆。

【西山光照寺】
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館に近接します。西山光照寺にも駐車場があります。無料。

光照寺の所在する阿波賀(安波賀)(あばか)地区は、一乗谷「城戸の内」外ですが、足羽川に川湊を備えた朝倉氏の経済を担う物流拠点として繁栄しました。光照寺南東側隣接地、字名「建之内」(図1)には、朝倉宗滴の屋敷であった方形居館があり、以前は土居(土塁)も残っていたようです。全体の位置関係はこちら
西山光照寺は、平成6~7年度(1994~1995年度)、平成22~23年度(2010~2011年度)、平成25年度に発掘調査が行われ、これを受け平成26・27年度に石垣の復元や遺構の露出展示工事などの史跡整備が実施されました。一方、未整備の南側谷部には、五輪塔が散乱した状態のまま残されています。

西山光照寺の歴史

西山光照寺境内地北区上段外縁石垣
(2)  【境内地北区上段外縁石垣】
正面隅部、名号石碑A。

西山光照寺は、明治33年に作成された由緒によると、桓武天皇の時代に最澄大師最澄によって創建され、その後、越前7代朝倉英林孝景が、孝景の叔父、朝倉(鳥羽)将景(光照公居士)の菩提を弔うために、真盛(しんせい)上人の高弟盛舜(せいしゅん)上人を招いて再興したと伝えられています。鳥羽将景は、長禄3年(1459年)の阿波賀城戸口合戦で反孝景派として堀江利真とともに戦った人物で、後の和田合戦で敗れ討死にしています。
最澄については伝説だと思いますが、西山光照寺の旧本尊とされる阿弥陀知来立像(未確認)が平安末期の作とのことから、西山光照寺の前身となる寺院の創建が朝倉時代以前にさかのぼる可能性があります。報告(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2015年)では、治暦4年(1068年)に勧請された春日社(安波賀春日神社)とともに、荘園(宇坂荘)を鎮護する寺院であった可能性を想定しています。そして、朝倉時代になって、鳥羽将景ら長禄合戦(長禄2年~3年(1458年~1459年))で戦死した一族の菩提を弔う寺院として再興されたとしています。

盛舜上人については、阿弥陀三尊板碑(盛舜・真盛上人碑)(天文24年(1555年))(写真12)など、西山光照寺に現存あるいは出土石造物の銘文に名を残しています。盛源寺(福井市西新町)には、墓塔の可能性のある一石五輪塔(未確認)もあるようです。
盛舜の師、真盛上人は、天台宗真盛派(天台真盛宗)の祖です。天台真盛宗の総本山は、滋賀県大津市の西教寺で、光照寺も同派に属します。
真盛上人は、朝倉氏と深い縁があり、長享2年(1488年)に越前9代朝倉貞景(1512年没)に招かれ、一乗谷の安養寺(福井市東新町)で説法を行っています。この時に朝倉一門が真盛に帰依したとされています。朝倉氏は浄土宗ですが、真盛は天台宗と称しながら、浄土宗の「称名念仏」(阿弥陀仏に対し、来迎引摂、往生浄土を願って、「南無阿弥陀仏」の六字名号を称える行法)説き、念仏宗(浄土宗)の一派と目されていたようです。
安養寺は浄土宗の寺院であることから、この段階では一乗谷に真盛派の拠点となる寺院はなかったと思われ、これ以降に真盛上人やその高弟によって光照寺や盛源寺などの天台宗真盛派の寺院が一乗谷に創建されることになったと考えられます。この時期、真盛は越前国内で積極的な布教活動を行っていたようで、府中引接寺(いんじょうじ)(福井県越前市)の創建年は長享2年(1488年)になっています。他にも吉田郡岡(福井県福井市岡保)の西光寺(現福井県福井市)、放光寺(福井県越前市)、蓮光寺(福井県大野市)などが真盛上とその高弟によって創建されています。

光照寺の由緒では、英林孝景(1428年~1481年)の再興となっていますが、盛舜(1516年没)の活動時期の中心とは重なりません。やはり、越前9代貞景の時代に創建(再興)され、その後、越前10代宗淳孝景の時代に整備されたと考えるのが自然です。朝倉氏の全盛期を築いた宗淳孝景は、英林寺・子春寺・天沢寺など先祖の菩提寺など寺院の建立に熱心だったようです。
光照寺に残されていた石造物の紀年銘からみると、1500年以前のものはごく少数で、永正2年(1505年)から増加し、1510年から1545年にピークがあります。これは、宗淳孝景の時代であり、また宿老として軍事面一切を差配した宗滴(1555年没)の時代にもあたります。宗滴が光照寺の隣接地に屋敷を構えていたこともからみても、朝倉氏の庇護が窺えます。
発掘調査でも、16世紀前半に、境内地上段南区で盛土をともなう大規模な造成が行われたことが判明しています。その後、16世紀中ごろに北区が拡張され、これに合わせて、境内地上段外縁に高さ約2m以上になる巨石を使用した石垣が構築されました。石垣の隅部にある名号石碑A(写真2・7・8)には天文24年(1555年)の銘があることから、11代義景の時代にも引き続き寺勢を拡大していったと推定されます。
永禄2年(1559年)には、勅願寺(天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄を祈願する寺院)となっていたことが史料にみえることから、このころには、名実ともにー乗谷で最も権勢を誇る寺院となっていたと考えられます。

ただ、天台宗真盛派の寺院である西山光照寺、盛源寺、極楽寺(福井市東新町)、法蔵寺(福井市西新町)はいずれも「城戸の内」外にあり、これら寺院の石塔・石仏の銘に朝倉氏の当主一族に直接関係するものはありません。当主一族の菩提寺でもありません。朝倉氏内部では、「城戸の内」内の浄土宗寺院より上位に位置づけられることはなかったと思われます。むしろ、一乗谷の住人に強い支持を受けていたと考えられているようです(福井県 1994年)。

天正元年(1573年) 8月、織田勢の侵攻によって朝倉氏は滅亡します。南区の地下式倉庫(写真4)は、壁面に被熱痕があり、炭・焼土とともに多量の遺物が廃棄されていたとのこと。焼失後の火事場整理と推定されています。やはり、光照寺も無事ではなかったのでしょう。
慶長11年(1606年)に、越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主結城秀康から寺領を賜わり、慶長16年に現在地(福井市花月1丁目)へ移転・再建されました。今は福井大仏として親しまれているそうです。一乗谷の光照寺跡にも大正年間の頃まで庵が残っていたようです。

西山光照寺の遺構と石造物

光照寺では、境内地上段についてほぼ全面的な発掘調査が行われています。
しかし、境内地上段は発掘調査時点で広く削平されていたようで、参道正面の石段(写真3)や水路、地下式倉庫(写真4)や一部の建物以外は破壊されていて、残念ながら、当時の伽藍配置は明らかになっていません。

西山光照寺参道石段
(3)  【参道石段】
(A)(B)参道下から、(C)参道上から。
西山光照寺南区遺構
(4)  【境内地上段南区】
(B)地下式倉庫、(C)井戸。

光照寺の遺構の中で最も見応えがあるのは境内地上段外縁に築かれた石垣です(写真1・5)。
北区北西面が約17m、北東面隅部から突出部までが約58mで、参道石段をはさんで左側(南東側)石仏列の背後まで築かれています。全体距離は約100mになります。 北区境内地上・下段の比高差は約2.3mで、石垣の残存高は、下段から約0.6~1.6m。崩落した上半部は史跡整備事業で復元されています。

西山光照寺境内地北区上段外縁石垣
(5)  【境内地上段北区外縁石垣】
西山光照寺北区発掘調査
(6)  【境内地上段北区外縁石垣 発掘調査】
(B)名号石碑A。(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2015年)からの転載。

巨石を立てただけ石垣(石積み)で、発掘調査時の写真を見ると裏込めもありません(写真6)。所々に縦長石を配置しています。これは、一乗谷の石垣分類のA類で、城下の土塀石垣や下城戸の石垣も基本は同じです。ただ、使用する築石の大きさによって差別化しているように見えます。城下でも、武家屋敷と町屋では、武家屋敷側の土塀石垣の方に大石が使用されています。

名号石碑

この石垣の北区北隅に、「名号石碑」(A)が組み込まれています(写真7)。「名号(みょうごう)」とは仏・菩薩の名のことで、これは、自然石の巨石に「南無阿弥陀仏」の六字名号が彫られています。境内の北東鬼門にあることから、「結界石」ではないかと考えられています。

西山光照寺名号石碑A
(7)  【境内地上段北区外縁石垣北隅 名号石碑A】
西山光照寺名号石碑A
(8)  【境内地上段北区外縁石垣北隅 名号石碑A三次元レーザー計測】
(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 2018年)からの転載。

名号石碑Aは、高さは約2.3m、石種は安山岩質の凝灰角礫岩です。発掘調査時(写真6(B))地中にあった「弥陀仏」の3字には漆膜が残存していたことから、造立時には文字に漆を接着剤として金箔が施されていたと推定されています。
(写真8)は、大手前大学が行った三次元レーザー計測によって図化されたもので、福井県報告書(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 2018年)から転載させてもらいました。
銘文は以下の通り。

 名号施主宇野三郎五郎名乗職近

 南無阿弥陀仏

 戒名真玄 永禄三庚申十二月吉日

「南無阿弥陀仏」の下には蓮華座が刻まれています。
銘文から、宇野職近(戒名真玄)が施主となって永禄3年(1560年)に造立されたもので、紀年銘は石垣築造年代の手掛かりになると思います。

宇野職近と光照寺の関係は不明ですが、参道脇の石仏群などを含め、法要や堂塔の新築・修築に合わせて勧進活動が行われ、施主を募っていたのではないかと推定されます。

「名号石碑」は他2か所にあります。名号石碑Bは、南側の谷奥の未整備地区にあります(写真9)。周辺は一部が近世近代の墓地になっていましたが、ほぼ全体が藪で、朝倉時代の五輪塔など石塔が散乱していました(写真10)。名号石碑Bは下部が埋没していますが「南無阿弥陀」の五字が確認できます。

西山光照寺名号石碑B
(9)  【南側谷部 名号石碑B】
西山光照寺南側谷部墓地と石塔群
(10)  【南側谷部 墓地と石塔群】

名号石碑Cは、参道正面左手の石仏列の間にあります(写真11)。背後の石垣に組み込まれているようにも見えますが、覆屋のためにはっきりしません。「南無阿弥」の四字が確認できます。右側にも文字列がありますが、判読できません。

西山光照寺名号石碑C
(11)  【参道正面左手  名号石碑C】
阿弥陀三尊種子板碑(盛舜・真盛上人碑)

「阿弥陀三尊種子板碑」は、境内上段参道石段近くにあります。これも自然石を使用しています(写真12)。
表面には、月輪内に薬研彫りした、阿弥陀如来の種子「キリーク」(上段)、観音菩薩の種子「サ」(下段右)と勢至菩薩の種子「サク」(下段左)を配置しています。周縁に小蓮弁を配置した月輪は、「越前荘厳」様式の文様要素の一つで、多宝塔、五輪塔、宝篋印塔などにも認められます。
銘文は、表面に「真盛上人」(右)、「盛舜上人」(左)、裏面に「開眼供養導師当寺五代真重上人」「天文廿四乙卯年四月□盛□」です。光照寺五代住職の真重上人が、盛舜・真盛両上人の供養のため造立したことが記されています。表面右の「真盛上人」は、表面が剥落していて「人」しか確認できません。 総高は100cmです。

西山光照寺阿弥陀三尊板碑
(12)  【阿弥陀三尊種子板碑(盛舜・真盛上人碑)】
(B)勢至菩薩種子「サク」と盛舜上人銘。

なお、南側の谷奥の名号石碑Bの手前に、「盛舜上人碑」があることになっているのですが、見当たりませんでした(図1)。「阿弥陀三尊種子板碑」(盛舜・真盛上人碑)のことで、移築したのかと現地では考えたのですが、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館Webサイト『石造物検索システム』によると、どうも「盛舜上人碑」とは「盛舜上人七回忌供養塔」(大永2年(1522年))のことで、総高226cmの四角柱とのこと。周辺は藪とはいえ、高さ2mの石塔を見逃すとは思えないのですが。また宿題をつくってしまいました。

(動画)  【西山光照寺】

今回は、おもに、福井県教育庁埋蔵文化財調査センター『特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告11』 2015年 と、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館『一乗谷の宗教と信仰』第10回企画展図録 1999年、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館Webサイト『石造物検索システム』を参考にさせてもらいました。

参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。
一乗谷朝倉氏遺跡の報告書は、こちらからダウンロードが可能です。

2023年11月、2024年3月、2025年11月現地、2025年12月30日投稿。

“西山光照寺 (1)” への1件のコメント

コメント

  1. […] 笏谷石 朝倉氏城郭 33 朝倉氏城郭 35 […]

「名前」はニックネームでけっこうです。

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