浅井三姉妹とその縁者(7)
豊臣家の人々(1)
豊臣秀勝と江(崇徳院)
豊臣秀吉の甥で養子の豊臣小吉秀勝(1569~1592年)です。
墓所は京都市左京区岡崎の善正寺にあるようです。
秀勝は、浅井長政の三女、江(崇源院)の二番目の再婚相手になります。最初が織田家家臣の佐治一成(婚約のみとの説あり)で、再々婚が徳川秀忠です。
秀勝と江の間には完子(さだこ)(1592~1658年)が生まれますが、秀勝の死後、江が秀忠と再婚したことから、完子は叔母淀殿に引き取られ、慶長9年(1604年)に藤原摂関家の九条家の当主、後の関白・左大臣九条忠栄(幸家)に嫁ぎました。
三人の秀勝
秀吉のもとには三人の秀勝がいました。
最初の秀勝(不明~1576年)は、秀吉が近江長浜城時代のもうけた実子で、幼名は石松丸。便宜的に石松秀勝と呼ばれています。6~7歳で亡くなったようです。実子説には異論もあるようですが、秀吉が「秀勝」名に愛着をもっていたのは間違いないと思います。
墓所は、滋賀県長浜市の妙法寺にあるようですが、未見。
二人目の秀勝(1569~1586年)は、織田信長の四男です。幼名は於次丸(おつぎまる)。於次秀勝と呼ばれています。
石松丸を亡くした秀吉が信長から於次丸を貰いうけ、嫡養子としました。
天正13年(1585年) 12月に丹波亀山城で病死。享年18。
大徳寺総見院
信長の一周忌にあたる天正11年に、秀吉が追善供養のために建立しました。通常非公開ですが、しばしば特別公開されています。
於次秀勝の墓所は、大徳寺総見院(京都市北区)の他に、知恩寺瑞林院(京都市左京区)にもあるようです。
そして、三人目の小吉秀勝が江の相手になります。
豊臣小吉秀勝
小吉秀勝は、秀吉の実姉智(とも)(日秀(にっしょう))と三好吉房の次男です。小吉は幼名です。
三好吉房は細川氏守護代の三好氏とは無関係で、下層の農民の出だと考えられています。長男秀次が阿波国の三好笑巌の養子となって名跡を継いだことから三好姓を名乗ったようです。
三男は秀保で、秀次と秀勝は秀吉の、秀保は秀吉の弟秀長の養子となりました。
小吉秀勝が秀吉の養子になったのは、於次秀勝が亡くなった天正13年(1586年)12月前後と推定されています。
江と秀勝の婚儀は、『たかつき歴史web』によると、天正13年(1585年)10月18日に淀城(京都市伏見区)で行われたとの説が有力のようで、秀勝はその時期摂津高槻城主になっていた可能性があるようです。
その後、丹波亀山城、越前敦賀城主を経て、小田原の役での山中城攻めの論功行賞で甲斐国を与えられました。しかし、どうも実母の智に溺愛されていたようで、智が甲斐は僻地で遠すぎると秀吉に嘆願したため、美濃岐阜城13万石へと転封になりました。
秀勝は、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)にも従軍しましたが、在陣中の文禄元年(1592年)9月に朝鮮巨済島で病死します。享年24。秀保も早世しており、秀吉に振り回された、なんとも残念な三兄弟です。とくに智からみれば悲劇的だったことでしょう。
未亡人となった江は、文禄4年(1595年)9月に、秀吉の養女となった上で徳川秀忠と再々婚しました。
善正寺と瑞龍寺
小吉秀勝の墓所は善正寺にあるようです。善正寺は日蓮宗の寺院で、山号は妙慧山です。金戒光明寺の西北隣にあります。墓所は非公開で、webサイトもないため詳細は不明です。
善正寺
寺地西側に入口があり、東側に向かう参道があります。境内の拝観は可能だと思います。駐車場はあったと記憶していますが、参拝者用かどうかは不明のため、金戒光明寺から歩いた方が無難だと思います。
巨済島で病死した秀勝の遺体は京都嵯峨亀山村雲(右京区、二尊院付近)に運ばれ、智によって葬られました。法名は光徳院陽巖。これが善正寺の前身になります。
文禄4年(1595年)4月に三男秀保が急死。同年7月には秀次が一族もろとも粛正されてしまいます。住まいにしていた聚楽第を追われた智は、嵯峨亀山村雲の庵に移り、本圀寺の空竟院日禎のもとで出家得度、瑞龍院妙慧日秀尼(ずいりゅういんみょうえにっしょうに)となります。
これを不憫に思った後陽成天皇から村雲の寺地と寺領1000石を与えられ、本圀寺の日禎を招いて開山しました。
ただ、ここからが難解で、この寺伝をもつ寺院には、「善正寺」ともうひとつ「瑞龍寺」があります。「瑞龍寺」は現在八幡山城(滋賀県近江八幡市)本丸ある瑞龍寺です。
そのあたりの経緯がまったく分からず、しばらく悩んでいたのですが。『日蓮聖人のご霊跡めぐり』さんのwebサイトによると、善正寺住職の話として、善正寺と瑞龍寺は現在でも親密な関係にあるとのこと。とすると、もともとは同じ寺院であった可能性が考えられます。
実際に、善正寺の門柱には「妙慧山善正寺」とともに「豊臣秀次公 村雲瑞龍寺 御墓所」札が掛かっています(写真4)。さらに、瑞龍寺歴代門跡の墓も善正寺にあります。
一方、瑞龍寺は、後陽成天皇の寄進が契機となったようで、皇女や公家の娘が門跡となる比丘尼御所(俗にいう尼門跡)となり、「村雲御所」と呼ばれるようになりました。
善正寺は、慶長5年(1600年)に現在地(京都市左京区岡崎)に移転します。善正寺の「善正」は秀次の戒名「善正寺殿高岸道意大居士」からきていることから、多分「善正寺」を名乗ったのはこの段階以降ではないかと推測します。
大正時代の文献ですが、渡邊世祐氏は善正寺の秀次墓は秀勝墓の誤伝であるとしています(渡邊 1919年)。おそらくですが、秀吉の時代も終わった慶長5年以降、供養の主な対象を非業の死をとげた秀次一族にシフトしていったことによるのではないかと思うのですが。。ただ、智が秀勝を溺愛していたと思われることから、スタートはあくまでも秀勝の菩提寺だったと思います。
善正寺と瑞龍寺が分離した時期は不明ですが、瑞龍寺も、江戸時代初期に嵯峨から西陣の堀川今出川付近の地(上京区村雲町、西陣織会館付近)に移転します。三代将軍家光から、二条城内の殿舎の寄進を受けていることから、少なくとも家光の時代までには移転、ないしは善正寺から独立したのではないかと思われます。
分離した経緯については、まったくの推測ですが、江戸時代に至っても「怨霊」は信じられており・・・秀次事件が江戸時代初期にどうみられていたのかは不明ですが・・・門跡寺院から「闇」を取りのぞくことが適当だと考えられたのでは思ったのですが、はたしてどうでしょうか。
瑞龍寺が秀次ゆかりの八幡山城の跡地に寺地を移したのは1961年になってからのことです。
秀次の首塚のある京都市中京区木屋町の慈舟山瑞泉寺についても、いずれ投稿します。
浅井三姉妹とその縁者、新シリーズ豊臣家の人々、続きます。