浅井三姉妹とその縁者(2)
浅井三姉妹
ご存知、浅井三姉妹は、浅井長政と織田信長の妹、正室市との間に生まれた茶々、初、江です。それぞれ豊臣秀吉、京極高次、徳川秀忠の正室・側室になりました。
浅井初(常高院)
初(常高院)(1570~1633年)は三姉妹の次女です。
天正15年(1587年)、秀吉の命により、浅井家の主筋にあたる京極家当主であり従兄でもあった京極高次の正室となります。
京極家は室町幕府の四職家に名を連ねる名門守護大名家でしたが、北近江の戦国時代後半の50年は浅井氏の時代であり、京極氏にとっては暗黒の時代でした。
京極高次は失地回復を図るため、本能寺の変では義弟武田元明とともに明智光秀に通じますが、これも裏目に。光秀亡き後は柴田勝家のもとに逃れました。
初と結婚した天正15年当時はなんとか赦免され、大溝城(滋賀県高島市)城主となっていましたが、それでも1万石。
高次の復権と初との縁組みには、高次の妹、京極竜子 (松の丸殿)の助力があったと思われます。竜子は、本能寺の変後に謀殺(自刃)された武田元明の妻から秀吉の側室となった人物で、その経緯からみても、京極家復興へ向けての並々ならぬ執念を感じます。
高次は、関ヶ原の戦いに先立つ大津城籠城戦で毛利元康、立花宗茂らの西軍を足止めした功により、若狭一国を与えられて小浜藩主となりました。
高次と初の間に子はなく、高次亡き後、初は常高院を名乗り、大坂の陣の際には豊臣方の使者として仲介に尽力します。
結局、初は、人生で小谷城、北ノ庄城、大津城、大坂城の落城を経験することとなりました。
常高寺墓所
小浜市の後瀬山城山麓にある常高寺(福井県小浜市浅間)に初(常高院)の墓所があります。
常高寺は、寛永7年(1630年)、常高院が京都妙心寺の槐堂和尚を招いて開祖として創建しました。
墓塔は、笏谷石(しゃくだにいし)製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。 塔身には、外輪を小さな連弁で装飾した丸い円相(密教での月輪)とこれを受ける蓮華座が刻まれます。基礎には各辺四区画をつくり、下段に格狭間(こうざま)を刻んでいます。
これは、「越前式宝篋印塔」と呼ばれているもので、塔身に月輪文様をもつことと笏谷石製であることを特徴としています。
正面中央には、法名「常高寺松岩栄昌大姉」、左右に命日の「寛永十暦癸酉年」 「八月廾七日」(寛永10年(1633年)8月27日)とあります。
常高院墓塔の前には、侍女であった桂久院十一世恵林尼(小少将局)・光雲院九世義裕尼(たき)・節心院十一世智栄尼(しん)・昭陽院・法心院・清涼院・盛春院らの墓が残っています。
常高寺(福井県小浜市浅間)。
本堂はJR小浜線と国道27号線の間、墓所は国道27号線の南側にあります。境内北側の山門前に駐車場があります。拝観料は400円。HPは こちら 。