概要編 (1)
近世大名墓(儒葬墓)(1)

儒葬墓(儒式墓)とは
近世大名墓といえば、それぞれの城下ないしは江戸の菩提寺に墓所を構えていることが一般的です。しかし仏教を実質的に国是とする江戸時代に、一部の先鋭的な藩主は、自らの墓を儒教にもとづく儒葬墓(儒式墓)であることを望みました。
これらは、山深い秘境の地あり、現在は人々に忘れ去られ廃墟となっているものもあります。そうした外形的なところから興味をもち、各地の儒葬墓を歩き始めました。
なぜ彼らはそんな場所に墓所を営んだのか。
おもな大名家の儒葬墓は以下の通り。
・尾張徳川家 源敬公廟(徳川義直廟) (愛知県瀬戸市) ※次々回投稿予定
・水戸徳川家墓所 (茨城県常陸太田市)
・岡山藩主池田家 和意谷墓所 (岡山県備前市)
・岡藩主中川家 大船山墓所(入山公廟) (大分県竹田市)
・岡藩主中川家 小富士山墓所 (大分県豊後大野市)
・高松藩主松平家 日内山墓所 (香川県さぬき市)
・徳島藩主蜂須賀家 万年山墓所 (徳島県徳島市)
他に、神儒一致の吉川神道にもとづく墓所もあります。
・会津藩主松平家墓所(土津神社) (福島県猪苗代町)
・会津藩主松平家墓所(院内御廟) (福島県会津若松市)
・津軽藩 高照霊社(高照神社)(津軽信政霊所) (青森県弘前市)
このうち、岡藩主中川家大船山墓所(入山公廟)は、九州本土最高峰の中岳(1791m)を中心とする くじゅう連山(九重山系)の東の盟主、大船山(たいせんさん)(1786m)の山中、標高1400m地点にあります(図1)。夏期は登山バスが池渕登山口まで走っていますが、私の行った4月は、岳麓寺登山口から標高差720m、登り1時間20分の歩きでした。もちろん途中に人家はありません。




岡山藩主池田家和意谷墓所も、岡山城から東に約34km、標高360mの鬱蒼とした和意谷敦土山山上付近に点在します。

【池田家和意谷墓所】
岡山県備前市吉永町和意谷
アイコン位置に駐車場があります。トイレもありますがほぼ廃墟です。そこからは当時のままの参道を歩きます。最深部までは約2km。国指定史跡。
なぜそうした場所に営まれたのか。儒教の儀礼マニュアルの『家礼』では、墓所を「山水の形勢」を考慮し、「土色の光潤、草木の茂盛」なる場所に営むこととしています。
儒教では、祖先から子孫に続く生命の連鎖を説き、祖先崇拝など招魂再生の儀礼を一族として永続的におこなうことを「孝」とし、儒教の重要な徳目としています。また、儒教は儀礼・儀式を重視しており、「孝」を具現化したものが葬送儀礼です。葬礼は祖先祭祀でもありました。
しかし、時代は変わり、被葬者、造営者の思いはいつしか途絶え、墓所は山中に取り残されてしまいました。
歴史の重さ、儚さをリアルに感じることができる場です。

周囲の玉垣や門は史跡整備事業で復旧・復元されています。



祖先祭祀の歴史
古代
盆(盂蘭盆(うらぼん))や彼岸、月忌法要・年忌法要など、先祖供養(祖先崇拝)の機会は年中行事として生活の中に組み込まれています。葬式を含め、これらが仏式で行われることになんの違和感もありませんが、そもそもの仏教、ゴータマ・ブッダ(シャカ)の仏教には先祖供養なる観念はありませんでした。
現代日本の先祖供養や葬式の形式は、体裁が仏教であっても実態は儒教の影響を強く受けたものといわれています。さらに古来日本の死生観が混在しているようです。
「始祖(先祖)」概念の起源は、古墳時代にまでさかのぼって確認することができます。
「始祖」の設置と「始祖」を起点とした出自系譜の形成は、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の金錯(きんさく)銘鉄剣銘文にみることができます。
「辛亥年(しんがい)(471年)七月中記す」で始まる金象嵌の115字の銘文には、オオヒコを「上祖」とし、ここからヲワケ臣にいたる八代の系譜と、一族が代々「杖刀人」(武官か)として大王に仕えてきたこと、すなわち、大王(天皇)に対する世襲的な服属・奉仕の理念を刻んでいます。それがヲワケ臣と一族のアイデンティティであること、そして杖刀人の首(おさ)として「吾天下を左治(差配)」していることを誇らしげに記しています。
【埼玉県行田市稲荷山古墳辛亥年鉄剣金象嵌銘】
(表) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比危其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居
其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏) 其児名加沙披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支歯大王寺在斯
鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
〔釈文〕
(表) 辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖の名はオホヒコ。其の児タカリのスク
ネ。其の児名はテヨカリワケ。其の児はタカシヒワケ。其の児名はタサキワケ。其の児名はハヒテ。
(裏) 其の児名はカサヒヨ。其の児名はヲワケの臣。世々杖刀人の首と為りて、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾天下を左治し、この百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
※「獲加多支歯大王(ワカタケル大王)」は雄略天皇が有力視されている。
ここに登場する「上祖オオヒコ」は、『日本書紀』にある孝元天皇の皇子で、四道将軍の一人として北陸に出征した「大彦命(おおひこのみこと)」の原型ではないかと考えられています。
『日本書紀』によると「大彦命」は、阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山君、筑紫国造、越国造、伊賀臣七族の始祖とあります。
こうした古代の氏族は、ヲワケ臣一族が「杖刀人」、そして阿部氏が供膳役、大伴氏が軍事を管掌していたように、代々特定の職掌をもって大王(天皇)に仕えていました。これが稲荷山古墳鉄剣銘の最後にある「奉事根原」です。鉄剣銘にある八代の系譜は、あくまでも職掌の継承であり、親子関係の系譜とはかぎりません。
古代の豪族(氏族)は、なんらかの職掌をもち、渡来氏族をのぞくと、神話時代を含む王統譜に連なっています。大王(天皇)と豪族(氏族)の系譜関係は、正史である『日本書紀』や『古事記』に記録されているように、天皇と豪族が一体となって、天皇を頂点とする支配者層の巨大な(擬制的)同祖同族をつくり上げたと考えられています。
『日本書紀』が完成したと伝わる養老4年(720年)の150年前、稲荷山古墳鉄剣銘文にあるヲワケ臣には、地名や職掌にもとづくウヂ(氏)名(蘇我氏、物部氏、大伴氏、葛城氏など)はありませんが、基本的な理念はこの時代には形成されていたと思われます。そして天皇を頂点として系譜上これに連なることが、為政者にとってのアイデンティティとしてその後も長く意識されることとなります。
中世
中世の武家も、天皇家や皇族系譜の「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」に連なることを望みました。
それと同時に、鎌倉時代になると、武家層に「名字の地」「根本私領」「本貫(地)」「本領安堵」「一所懸命」といったことば(観念)が生まれます。
これは、先祖(始祖)が獲得(開発)し、以来相伝(相続)してきた土地(根本私領/本貫地/本領)を、子孫代々命をかけて守り抜く(一所懸命)ということが武家の本分であるとする考えで、その土地(所領)を上位者が保証することが「本領安堵」=主従関係であったわけです。
「名字の地」とは、源平藤(原)橘などとは別に、「根本私領」「本貫(地)」の地名を「名字(苗字)」とすることで、例えば、
・新田氏:上野国新田郡新田荘(群馬県太田市新田)
・足利氏:下野国足利郡足利荘(栃木県足利市)
などです。
子孫に代々伝えていく経済的基盤として土地(所領)が強く意識されるようになったわけです。
この時期、足利氏は、氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)(栃木県足利市)の奧之院である樺崎寺(かばさきでら)に一族墓を設け、当初は「墳堂墓」、後には石塔(五輪塔)を造立しました。五輪塔は、現在近くの光得寺に移設されています。
しかし、中世の武家は、長子相続などの相続法がいまだ定まっていなかったこともあり、家の内紛・分裂がたびたび勃発しました。南北朝期の内乱以降は、先祖や本貫地との関係は崩れ、一族・一門も不明瞭になり、地縁的な関係が優先されるようになりました。さらに、戦国時代には、伝統的武家の多くが没落し、従前の地域権力がリセットされてしまいます。
中世の石塔(墓塔)は、中世後期に向かって小型化、粗略化が進み、銘文をもつことも少なくなります。中世後期は、有力者であっても墓所が分かっていないことが大半で、被葬者の階層差も失われてしまいます。これは、先祖・祖先に対する意識が大きく低下したこと、同時に権威の象徴としての役割も失ってしまったことによると思われます。
江戸時代
始祖や諸家の系譜が改めて意識されるようになったのは社会が安定した江戸時代になってからで、幕府は、寛永18~20年(1641年~1643年)に、諸大名と旗本以上諸士の系譜集である『寛永諸家系図伝』を編さんしています。しかし、現実的には、島津家など一部をのぞけば自身の出自を証明できる大名家はわずかで、『寛永諸家系図伝』は既存体制による権威の再構築を意図した政治的なものであったと思います。
例えば、池田氏は、信長の重臣で清洲会議にも出席した池田恒興の子、現在の姫路城を築いた輝政を藩祖とします。その出自は、清和源氏嫡流、摂津源氏源頼政の血を継ぐ摂津池田氏と同族であると称しているようですが、この時代、権威付けのために系図を脚色する(偽る)ことはごく一般的に行われていました。
『寛永諸家系図伝』の編さんにあたり、編者の林羅山は、池田光政から池田家の遠祖を源頼光流とするよう依頼されたとの記録が残っているそうです。しかし、新井白石は、恒興の父恒利以前の系譜は不明と断じています。
清滝寺京極家墓所・本光寺深溝松平家墓所
しかし、江戸時代でも「名字の地」「本領」に対する意識は残っていて、現香川県の丸亀藩主京極家は滋賀県米原市に清滝寺京極家墓所(写真10)を、現長崎県の島原藩主深溝松平家は愛知県幸田町の本光寺に墓所(写真11)を構えました。


京極氏の出自は佐々木源氏で、鎌倉時代中期に、始祖(佐々木)氏信(1220~1295年)が佐々木氏の所領の一部、近江江北六郡を継ぎ京極氏を称しました。
清滝寺周辺は、始祖氏信の本拠本宅の地で、弘安9年(1286年)ごろに清滝寺を創建しました。その後荒廃したようですが、中興の祖19世高次(1593~1637年)が大津藩主だった慶長元年(1695年)ころから改修を進め、自らの墓所としました。
大規模に整備したのは讃岐丸亀藩2代藩主22世高豊で、自藩領の一部を幕府に返上し、その替地として京極氏の本貫地であるこの地を取り戻しました。
そして、三重塔などの堂宇の建設と、周辺のあった歴代の菩提寺跡などから当主墓をここに集めました(写真10)。その後、支藩の多度津藩主を含め、幕末まで藩主の埋葬が行われ、今現在も京極家による供養が行われているそうです。
清滝寺京極家墓所は、京極氏にとってのアイデンティティそのものなのでしょう。
京極家墓所は仏式ですが、深溝松平家は、本光寺にあり仏式を基本としつつ、墓塔には神道、埋葬方法や亀趺碑などに儒式の影響も認められます。
島津家と毛利家
鎌倉時代までさかのぼる江戸時代の大名家は、島津家や対馬の宗家、京極家などごく少数ですが、島津氏は、藩祖島津忠久(1179年~1227年)を頼朝の庶子とする考えから、江戸時代には頼朝と忠久の命日に藩主ないし名代が毎年のように頼朝の鎌倉の墳墓堂(法華堂)と墓に詣でていました。
安永8年(1779年)には、島津家25代(薩摩藩8代)重豪が、頼朝墓の近くに忠久墓を建墓するとともに頼朝墓を改修しました。
忠久墓に隣接して、毛利家が藩祖とする毛利季光(1202年~1247年)とその親である大江広元の墓があります。
長州藩では、宝暦の藩政改革(宝暦9年(1759年))を行うにあたって、改革を正当化するために藩祖顕彰が政治運営の不可欠な事項と考えたようで、遠祖大江広元と藩祖毛利季光の墳墓の探索が行われました。結果、確証となるものはなかったようですが、文政6年(1823年)に頼朝墓の隣接地に大江広元と毛利季光の墓を造営しました。
中川清秀と岡藩中川家
豊後岡藩中川家は、戦国時代の中川清秀を藩祖としますが、清秀は天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方の佐久間盛政の急襲によって破れ自害します。墓所は賤ヶ岳の大岩山砦跡(滋賀県長浜市)にありますが、中川家では、4代藩主久恒が百回忌に新たな石塔を再建。宝暦12年(1762年)には8代藩主久貞が江戸からの帰路、賤ヶ岳古戦場にある藩祖清秀の墓所に参拝し、明和2年(1765年)には「追遠碑」を建立しています。


ただ、こうした事例は一部の大名家のみで、祖先崇拝、祖先祭祀は、仏事として形式的に行われていたとしても、江戸時代に広く浸透していたわけではありません。幕府も『寛永諸家系図伝』など大規模な武家系図編さん事業を2度行っていますが、多くが清和源氏出自とする系譜に、各大名家がどこまで現実感をもっていたかは疑問で、権威付け以上のものではなかったと思います。
血族と養子縁組
中国では「血族」に対する意識が強く、「同姓不婚」であるとともに養子制度についても「異姓不養」が強い規制として存在します。しかし、日本ではどうも「血」は絶対視されていません。
江戸時代の大名家は、血統の継続よりも「藩」の存続が強く意識されていて、とくに幕末に近づくと養子縁組が政略的に行われています。
岡山藩主宗家10代池田慶政は、文久3年(1863年)、実子がいるのにもかかわらず、水戸藩主徳川斉昭の九男茂政を婿養子に迎え藩主の座を譲ります。こうしたことは各地の大名家で行われていました。徳島藩13代藩主蜂須賀斉裕も、11代将軍徳川家斉の二十二男です。
池田茂政は、水戸藩出身ということで、光政以来途絶えていた儒葬墓を復活させましたが、これは、理念というよりも形式上の問題なのでしょう。
ただ、日本の血族に対する考え方は、大名家の事情にもとづくものだけではありません。
中国の「同姓不婚」「異姓不養」の父系外婚制社会と違って、日本は古代からインセストタブー(近親相姦の禁忌)の範囲が狭く、双系的な社会であることが定説となっているようです(吉田孝 1983年など)。
古代・中世の日本は、天皇(大王)に仕える職掌や獲得した土地を基盤として一族を形成していきましたが、そもそもの基層文化が双系(方)的で、このことから血族による系譜的な秩序が発達しなかったのかもしれません(義江明子 2011年など)。
続く。
古代については、おもに吉田孝氏(吉田 1983など)、義江明子氏(義江 2011年など)の著作を参考にさせてもらいました。
参考文献は、「儒葬墓投稿一覧」にまとめてあります。
岡山藩主池田家和意谷墓所2020年11月、2021年11月、岡藩主中川家大船山墓所・小富士山墓2022年4月、徳島藩主蜂須賀家万年山墓所2020年10月、会津藩主松平家墓所2019年10月、讃岐藩主京極家清滝寺墓所2022年12月、島原藩主深溝松平家本光寺墓所2024年12月、賤ヶ岳大岩山砦跡中川清秀墓所2024年12月現地、2025年12月3日投稿。
このうち、清滝寺京極家墓所については、ご住職に特別の配慮を頂き拝観させていただきました。
