源敬公廟(徳川義直廟)

 

近世大名墓(儒葬墓)(3)
源敬公廟源敬公墓
(写真1)  【源敬公廟 源敬公墓】

近世大名墓として最初に儒葬を最初に採用したのは、尾張藩主初代徳川義直(1650年没)です。「源敬公廟(げんけいこうびょう)」と称する墓所は愛知県瀬戸市の定光寺の裏山にあります。名古屋城からは、直線距離で約21km離れています。

江戸時代初期の儒葬墓

前回までの投稿の通り、仏教を支配体制の一部とする江戸幕府では、儒葬や神葬は公的に認められていませんでした。
しかし、江戸儒学の祖である藤原惺窩(せいか)門人である林羅山らによって、一部で『家礼』にもとづく葬礼が行われていました。『家礼』は、中国南宋の朱熹(1130~1200年)が著わした儒葬マニュアルです。『家礼』の規定のうち現況で確認が可能な墓碑(圭頭(尖頭・円頭)方柱、俗名表記))を指標としてみると、林羅山が実行した羅山長男の林左門墓(1629年没/東京都新宿区林氏墓地)が最も古く、現在墓碑のみが残されている林羅山次男の林長吉(1620年没/京都市歴史資料館蔵)が埋葬当時のものとすると、さらにさかのぼることになります。林氏墓地には、羅山の弟林永喜(1638年没)の儒葬墓もあります(吾妻重二 2020)。

林氏墓地以外では、藤原惺窩門人の一人で尾張藩主徳川義直に仕えた堀杏庵(きょうあん)墓(1642年没/東京都港区金地院・京都市左京区帰雲院)、やはり惺窩門人の松永尺五(せきご)墓(1657年没/京都市下京区妙恵会総墓所・京都市南区実相寺)、中江藤樹(とうじゅ)(1648年没/滋賀県高島市玉林寺)などがあります(吾妻重二 2021)。
また、慶安4年(1651年)に母を儒葬した土佐藩の野中兼山は、兼山が土佐藩中枢の重臣であったこともあり、当時から儒者の間で話題となったようで、山崎闇斎が葬儀に駆けつけ墓表の撰文を行っています。
ただし、江戸時代の儒葬は制約下で行われており、例外が認められる立場にある林氏一族をのぞくと、堀杏庵、松永尺五、中江藤樹らの墓はいずれも寺院にあります。野中兼山についても、切支丹ではないかとの嫌疑を一時受けていたようです。

儒教を信奉する大名藩主の中にも、儀礼の実践の場である葬礼を儒式で行おうとする人物が現れます。尾張藩主初代徳川義直(1650年没)はその一人であり、源敬公廟は、儒式の大名墓としては最古になります。
その後、万治元年(1659年)には、徳川光圀が正室泰姫(近衛尋子)の葬儀を儒式で行い、その顛末を『藤夫人病中葬礼事略』として残しています。泰姫は、光圀の影響を受け強烈な排仏論者だったようです。ついで、光圀は寛文元年(1661年)に、父頼房の葬儀を儒式で行っています。
寛文7年(1667年)には、備前岡山藩宗家3代藩主池田光政が、和意谷墓所(岡山県備前市)を開設し、京都妙心寺護国院にあった藩祖輝政墓、宗家2代利隆墓を改葬して儒葬墓としました。

1650年前後、儒教を信奉する人たちにとっては、草分けの時代で、儒葬が(原則)禁止されていたということもあって、逆に盛り上がっていた、熱量のある時代であったのかもしれません。ただ、仏教を国是とする江戸幕府のもとで、それが大きく拡大することはありませんでした。

源敬公廟の造営

源敬公廟は、尾張藩主初代徳川義直(1650年没)の廟所です。「源敬」は義直の諡号です。
義直は、家康九男で、幼少期を家康のもと駿府城で過ごしました。家康は晩年、儒教(朱子学)を重んじますが、義直もこれを学び傾倒していったようです。名古屋城二之丸に聖堂「金声玉振閣(きんせいぎょくしんかく)」建立し、儒教の儀式を執り行っています。儒者は、藤原惺窩門人の一人、堀杏庵(きょうあん)を重用しました。

義直は、自らを仏式葬とすることを嫌い、生前に選定した定光寺(愛知県瀬戸市)の裏山を墓所とし、儒式での埋葬を遺命としました。
義直は、慶安3年(1650年)5月7日に江戸市ヶ谷藩邸で死去。その亡骸は27日に定光寺に到着しました。廟所は陳元贇(ちんげんぴん)の設計によるといわれていて、慶安4年(1651年)に墳墓と墓碑を造立、その翌年には焼香殿、宝蔵、唐門、竜の門、築地塀が完成しました。元禄12年(1699年)には獅子の門が建立されています。

陳元贇は、中国明朝末の混乱を避けて来日した人物で、書道や作陶などに才のある文人で、尾張藩に仕えていました。
義直が生前、どこまで準備をしていたのかは不明で、陳元贇による設計が、義直の遺命によるものか、2代藩主光友の命によるものかは確認できません。堀杏庵も寛永19年(1643年)に死去しています。

儒教には、儒葬墓の教本である『家礼(けれい)』の他、葬儀は『儀礼(ぎらい)』『礼記(らいき)』『周礼(しゅらい)』の三礼によって行われますが、陳元贇がどこまで儒教に精通していたかは不明で、源敬公廟はいくつかの点でその後の大名家の儒葬墓と異なります。
埋葬施設については不明。墳丘(封土)については、備前岡山藩主池田家和意谷墓所(岡山県備前市)、豊後岡藩主中川家大船山墓所(入山公廟)(大分県竹田市)、阿波徳島藩主蜂須賀家万年山墓所(徳島県徳島市)などで、「馬鬣封(ばりょうほう)」と呼ばれる平面長台形で断面かまぼこ形を採用していますが、源敬公墓は円墳です。墓碑も他が墳丘前にあるのに対して、源敬公墓は墳丘上にあります。ただし、「馬鬣封」は『礼記』の規定にもとづくもので、『家礼』に明確な規定はありません。

源敬公廟全体図
(図1)  【源敬公廟全体図】
(愛知県 2006年)から。一部加除。

源敬公廟には、義直の業績などを記した亀趺碑などの顕彰碑がなく、墓碑にも刻まれていません。ただし、2代光友以降が埋葬された建中寺(愛知県名古屋市東区)の藩主墓所では、墓誌石が埋葬施設上に埋納されていたようなので、源敬公廟もその可能性があるかもしれません(安藤香織 2021年)。

とくによく分からないのが源敬公廟と定光寺の関係です。源敬公廟は、現在徳川家の私有地で、定光寺の境内ではありません。ただし、参道ルートなどは明らかに源敬公廟と定光寺は一体的です。

水戸藩の徳川光圀は、義直が生前に「塋域」(えいいき/墓地)を定め、「神主」(儒式の位牌)を自ら題したことを賞賛しているので(吾妻重二 2008年)、場所については義直の選定であることは間違いないと思うのですが、定光寺との関係は義直の思い描いた通りなのでしょうか。
どうも、多くは2代藩主光友の仕切りで行われたのではないかと思うのですが。

徳川光圀は、仏式が混在した義直の葬儀について、「国俗の流弊」(国俗の悪い習わし)にとらわれ、「仏氏の遺教」(仏の教え)を用い僧侶数百人を集めて経典を轉讀(一部を略読すること)させた、これは「痴(愚かなこと)の至り、罪の大なる者」であって、「疾視(憎しみをもって見ること)すべく、憫笑(あわれみさげすんで笑うこと)すべき」ものと、光友の家臣団に対し、強い憤りをみせています(吾妻重二 2008年)。

源敬公廟は、慶安4年(1651年)に着工し翌年にほぼ完成しますが、光友は、同時期に、義直の菩提を仏式で弔うために、尾張徳川家の菩提寺となる建中寺(愛知県)を造営しています。
儒教の根幹である永続的な祖先祭祀の継承は、義直にとって残念なことに、光友には受け継がれませんでした。光友は、ある意味常識人であったのかもしれません。

源敬公廟の概要

応夢山定光寺は、臨済宗妙心寺派の寺院です。建武3年(1336年)の開山であり、尾張徳川家の菩提寺ではありません。ただ、参道入口両脇には、「常光禅刹」とともに「尾藩祖廟」の石碑があり、その奥の石橋「直入橋(ちょくにゅうばし)」も、2代藩主光友の命により承応2年(1653年)に架設されたものです(写真2)。
光友は、明らかに源敬公廟と定光寺を一体として整備しています。「直入橋」は瀬戸市の指定文化財です。

源敬公廟定光寺参道入口
(写真2)  【源敬公廟・定光寺 参道入口・直入橋】
定光寺本堂
(写真3)  【定光寺 本堂(仏殿)】

【源敬公廟(定光寺)山上駐車場】
愛知県瀬戸市定光寺町
本堂西側の駐車場です。山下の参道入口にもあります。駐車場、定光寺は無料。源敬公廟は大人100円。

参道の石段を登ると本堂(仏殿)(写真3)です。暦応3年(1340年)建立され、火災の後明応2年(1493年) に再建されました。外壁の桟唐戸や花頭窓などは典型的な禅宗様です。国重要文化財に指定されています。
源敬公廟参道入口は、本堂正面右手奥にあります。

参道途中に「獅子の門」(写真4)があります。本体は覆屋の中です。獅子の門の屋根は檜皮葺きです。

源敬公廟獅子の門
(写真4)  【源敬公廟 獅子の門】
源敬公廟竜の門
(写真5)  【源敬公廟 竜の門】
源敬公廟竜の門部分
(写真6)  【源敬公廟 竜の門】
銅板葺瓦、魚形の正吻・蕨手。
源敬公廟築地塀
(写真7)  【源敬公廟 築地塀】

廟所は、築地塀で区画され、正面に「竜の門」があります(写真5)。築地塀は、瀬戸焼の板を漆喰で挟みながら積み上げています(写真7)。

廟所は上下2段になっていて、下段には正面に「焼香殿(祭文殿)」(写真8)、右に「宝蔵(祭器蔵)」があります。
門、殿舎、築地塀の屋根は銅板葺瓦で、魚形の正吻(せいふん)や蕨手をのせています(写真6)。中国風の意匠です。

源敬公廟焼香殿
(写真8)  【源敬公廟 焼香殿】
源敬公廟焼香殿内神主
(写真9)  【源敬公廟 焼香殿内 神主】
床は鉄釉敷瓦。

焼香殿の床は鉄釉敷瓦、宝蔵の床には志野敷瓦が敷かれているとのことですが、ほとんど見えません。焼香殿中央には、仏教の位牌にあたる「神主(しんしゅ)」が置かれています。先に書いたように、徳川光圀によると、神主は義直の直筆とのことですが、このことでしょうか。

源敬公廟源敬公墓前唐門
(写真10)  【源敬公廟 源敬公墓前】
源敬唐門唐門
(写真11)  【源敬公廟 唐門】

正面に「唐門」(写真11)のある上段には、径8.5m、高さ2.9mの円形の墳丘があり(写真13)、その頂部には台石の上に高さ3.3m円頭板碑形の石造墓碑(墓標)が造立されています。墓碑の正面には「二品前亜相尾陽侯源敬公」と刻まれています(写真12)。この下に義直の埋葬施設がありますが未調査です。

源敬公廟源敬公墓墓碑
(写真12)  【源敬公廟 源敬公墓 墓碑】
源敬公廟源敬公墓
(写真13)  【源敬公廟 源敬公墓】

廟所下段右手には、9基の殉死者墓があります。前列が家臣、後列が陪臣です(写真14~16)。

・寺尾土佐守直政(8000石、年寄) (図14(B))
・鈴木主殿助重之(2000石、同心頭) (図15(A))
・志水八郎左衛門尉正昭(700石、用人) (図15(B))
・土屋善之丞元高(400石、御膳番・御薬込頭) (図15(C))
・鈴木太兵衛尉重吉(鷹匠) (図15(D))
・新武屋門左衛門保信(寺尾直政陪臣)
・馬場太郎左衛門永吉(鈴木重之陪臣)
・井上彌五兵衛(鈴木重之陪臣)
・岡田市郎左衛門(志水正昭陪臣)

なお、四代将軍徳川家綱の補佐役で儒者でもあった会津藩初代藩主保科正之は、「武家諸法度」の改定に際し、殉死を厳禁しています。

源敬公廟殉死者墓
(写真14)  【源敬公廟 殉死者墓】
源敬公廟殉死者墓
(写真15)  【源敬公廟 殉死者墓】
源敬公廟殉死者墓
(写真16)  【源敬公廟 殉死者墓】

唐門をのぞく建物の側面には保護のために「鞘」と呼ばれている外壁が取り付けられています。「文化遺産オンライン」に鞘のない写真があるのでリンクしておきます。

 獅子の門
 竜の門 
 焼香殿
 宝蔵
 唐門
 源敬公墓
 築地塀

源敬公廟の、獅子の門、竜の門、築地塀、焼香殿、宝蔵、唐門と源敬公墓、そして附(つけたり)として参道、殉死者墓9基、石柵4所が国重要文化財に指定されています。

(動画)  【源敬公廟を歩く】

附編 建中寺尾張藩主徳川家の墓所

2025年現在、建中寺には行っていないので写真はありません。儒葬墓ではないので本シリーズとも関係ありませんが、安藤香織氏のレポートをもとに備忘録として簡単にまとめておきます(安藤 2021年)。

2代藩主光友は、義直の源敬公廟の造営と同時に、尾張徳川家の菩提寺となる建中寺(愛知県)を建立しています。尾張藩主徳川家では、2代藩主光友から幕末の13代慶臧まで、建中寺を墓所としていました。いずれも仏式です。江戸では西光庵(東京都新宿区)を菩提寺としていて、最後の藩主14・17代慶勝、15代義宜はここに葬られました。16代茂徳は、谷中霊園(東京都台東区)です。

尾張徳川家では明治末期から昭和初期にかけて、東京などに点在していた類縁の墓所を整理し、建中寺に改葬しています。
しかし、19代当主義親は、昭和13年(1938年)から14年にかけて、定光寺に鉄筋コンクリート造の納骨堂を新造し、歴代当主などを中心とする墓所以外の78霊をここに改葬します。
第二次大戦後は、名古屋市の戦災復興都市計画にもとづく区画整理にともない、歴代当主とその家族38霊も改葬されることとなり、昭和27年(1952年)から発掘調査が行われ、遺体遺骨は順次火葬され定光寺の納骨堂に納められました。
増上寺(東京都港区)の徳川将軍家墓所では、昭和33年(1958年)に専門家による学術調査が行われましたが、建中寺では、徳川美術館職員が立ち会い、その記録を残しているものの、あくまでも改葬を目的としたものであったため、棺内の遺体の状態や着衣、副葬品に主眼が置かれていたようです。副葬品も、状態が悪いものは処分されているようです。

建中寺の藩主埋葬施設は石槨で、内部に何重かの木槨(木棺)を埋納し、その間に炭や石灰、赤土、漆、松脂などが充填されていました。石棺上部には墓誌が置かれました。遺体の保存を目的とするような厳重な埋葬施設と墓誌は、明らかに儒式の影響によるものです。

昭和28年には、西光庵の慶勝、義宜を含む7霊も発掘され、定光寺の納骨堂に改葬されました。その結果、源敬公廟の初代義直、相応寺(名古屋市千種区)の義直母於亀の方、性高院(名古屋市千種区)の家康四男松平忠吉などをのぞくほぼすべてが納骨堂に納められました。

【徳興山 建中寺】
愛知県名古屋市東区筒井一丁目
まだ行ったことがないので、詳細不明。

改葬後の建中寺徳川家墓所跡は、東海中学校・高等学校、名古屋市立あずま中学校、市営住宅などの敷地となりました。
建中寺には、2代光友の墓所(源正公廟)が復元され、他に、7代宗春の墓碑・墓誌・灯籠50基が平和公園(名古屋市千種区)へ、9代宗睦の墓碑・墓誌・灯籠30基が小牧山史跡公園(愛知県小牧市小牧城跡)へ移設されましたが、これらに遺体・遺骨はありません。西光庵の慶勝、義宜墓も、墓碑は現地に残されています。

定光寺の徳川家納骨堂は、おそらく(写真4上)の右側が入口になりますが、立ち入りはできません。尾張徳川家の私有地だそうです。

参考文献は、「儒葬墓投稿一覧にまとめてあります。

2024年12月、2025年5月現地。紅葉写真は2024年です。この時は史跡整備工事が完了しておらず、翌年5月に再訪しました。2025年12月10日投稿。