長崎台場 (1)
幕末の城 (3)

詳細は次々回の投稿。

詳細は次回の投稿。
長崎警備
長崎警備と魚見岳台場
江戸時代、おもに沿岸警備のために築かれた「台場」は、全国で1,000か所以上確認されています(西ヶ谷恭弘(編) 2002年)。
文化5年(1808年)のフェートン号事件を機に、大坂湾防備、江戸湾防備が開始され、文政8年(1825年)には異国船打払令が発令されますが、長崎をのぞくと、実態が確認できる台場のほとんどは、嘉永6年(1853年)のペリー来航を契機とした安政年間以降の築造です。
今回取り上げる魚見岳台場(うおみだけだいば)(長崎県長崎市)は、文化9年(1812年)竣工で、長崎台場の中ではそれほど古い時期のものではありませんが、それでも全国的に見れば、ここまで古く、そしてここまで遺構が良く残っている台場は他にはないと思います。
そうしたこともあって国史跡に指定されています。
今回は、最初に、長崎台場の概要をまとめておきます。「長崎台場」とは長崎港の警備のために長崎湾とその周辺海域に築かれた台場「群」の総称です。「長崎台場の魚見岳台場」は少々紛らわしい言い方ですが、「長崎台場」は当時から使用されている歴史的な用語・呼称とのことです。
長崎開港
長崎半島と西彼杵半島の接点にあたる長崎湾は、北東方向に深く切り込む湾入地形です。まさに天然の良港ですが、湾周辺は山に囲まれ、山裾は海岸近くまで迫り、平野は限られていました。
こうした閉鎖的な地形環境が、戦国時代以降の長崎の歴史を決定づけることとなりました。
戦国期は、大村純忠の配下長崎純景の知行地で、小規模ながら現市街地東部に城を構えていたようです。ただ、湾周辺は半農半漁の村が点在するような景観だったと推定されます。
転機は永禄13年/元亀元年(1570年)、キリシタン大名の大村純忠が、ポルトガルとの新たな貿易港を長崎とする協定をイエズス会と交わしたことに始まります。これは、長崎湾が天然の良港であったことだけではなく、仏教徒との軋轢を避けることを目的としたようです。ポルトガルは、それ以前、肥前平戸(長崎県平戸市)を拠点としていましたが、永禄4年(1561年)にポルトガル商人と平戸の日本人との間で双方に死者がでる暴動事件が発生しました。これは、平戸領内でのキリシタンと仏教徒の確執が表面化したものともいわれています。
新たな貿易港となった長崎は、元亀2年(1571年)に、ポルトガル居留地を起点とした町割りが開始され、天正8年(1580年)には、大村純忠の寄進によりイエズス会領となりました。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州仕置の後、秀吉は長崎を直轄領として貿易拠点としての整備を進め、家康もこうした施策を継承しました。
禁教・鎖国と長崎警備
江戸時代になり、幕府は禁教の強化と貿易に関しては相手国や入港先の規制を段階的に行っていきました。
寛永11年(1634年)には、カトリックのポルトガル人を管理するために出島の築造が開始され、寛永13年に完成します(写真3)。

(A)復元表門橋、(B)南側護岸石垣、(C)復元建物群、(D)カピタン部屋(商館長館)。(A)の護岸は、セットバックしているため、当時のものではありません。
しかし、その間、寛永14年(1637年)に島原の乱(寛永15年まで)が勃発します。幕府は乱の後、さらなる禁教の強化のため、寛永16年にポルトガル船の来航を禁止します(第5次鎖国令)。鎖国体制は段階的に強化されてきましたが、ポルトガル船の来航禁止をもって鎖国体制は完成します。完成した出島には、寛永18年(1641年)に、平戸からオランダ東インド会社の商館が移されますが、この時をもって鎖国の完成とする見方もあります。
ポルトガルは通商の存続を望み、再三にわたって長崎に来航するものの、幕府は寛永17年(1640年)に、マカオからのポルトガル人使節61名を処刑します。幕府は報復を恐れ、玄界灘沿岸を中心に、福岡藩や小倉藩、柳川藩、唐津藩、中津藩などに異国船監視のための遠見番所を設置させました(九州歴史資料館 2018年)。
寛永18年(1641年)には、平時の長崎警備を福岡藩と佐賀藩が隔年交代制で担当することや、非常時の九州諸藩出兵など「長崎御番」が制度的に確立され、これは幕末まで継続します。
福岡藩と佐賀藩は、警備の拠点となる番所(陣屋)を西泊と戸町に設置し(図1)、西泊に中老1人を総帥(番頭)として、戸町には次席の番頭を在任させ、両番所に士卒500余人ずつを交替で駐屯させました。両番所合わせて1,000人程の陣容が駐留したことから、千人番所とも呼ばれていたようです。
台場築造
正保4年(1647年)、ポルトガルの国王使節を乗せた2隻の軍艦が長崎に来航し通商の再開を要求したことから、九州諸藩が出兵する事態となりました。この事件は「正保四年黒船来航」と呼ばれています。
承応2年(1653年)、幕府は長崎警備強化の必要から、平戸藩松浦氏に命じ長崎湾口7か所に石火矢台(台場)を築造させました。竣工は承応4年ごろで、警備は佐賀藩と福岡藩が引き継ぎました。
この時期の台場は「古台場(在来台場)」と呼ばれています。
その後、対外関係の緊張は緩和しますが、寛政年間(1789年~1801年)になると各地で外国船の発見例が増加し始めます。
そうした中発生したのが文化5年(1808年)8月のフェートン号事件です。イギリス海軍のフェートン号は、当時敵対関係にあったオランダ船拿捕のため、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り長崎へ入港しました。
この時の長崎警備は佐賀藩でしたが、この時期は守備兵を無断で減らすなど警備体制は形骸化していました。このため、食料や飲料水などフェートン号の一方的な要求に屈し、そのまま出航を許してしまいます。長崎奉行松平康英は自刃、佐賀藩は両番所の番頭が切腹、藩主鍋島斉直も100日の閉門が命じられる事態になりました。
これを契機として、改めて長崎警備の強化が図られ、福岡藩と佐賀藩によって文化5年から6年に5か所の「新台場」が、続いて文化7年から9年に4か所の「増台場(ましだいば)」が築かれました。
さらに、天保13年(1842年)、アヘン戦争での清国の敗戦は日本に大きな衝撃を与えました。
長崎警備について、福岡藩と佐賀藩で台場の増強が話し合われましたが、意見の相違がありまとまりませんでした。福岡藩は既存台場に「矢止め土居」などを築きましたが、長崎港外(外目)の強化を主張した佐賀藩は、嘉永3年(1850年)から嘉永6年にかけて、長崎港外の佐賀藩領神ノ島や伊王島などに自費で台場を築きました(図1、表)。
古台場から増台場まで幕府の命令によって築造された台場は「公儀御台場」、これは「佐賀台場」と呼ばれています。
まとめると以下の通りになります。
■島原の乱、ポルトガル船の来航禁止、正保4年黒船来航
⇒ 「古台場」 築造 承応4年(1655年)~
■フェートン号事件
⇒ 「新台場」 築造(増築) 文化5年(1808年)~
⇒ 「増台場」 築造(増築) 文化7年(1810年)~
■アヘン戦争、清国敗戦
⇒ 「佐賀台場」 築造 嘉永3年(1850年)~
その後、西泊と戸町の両番所は、元治元年(1864年)に平戸小屋番所(図1)に統合後廃止、慶応2年(1866年)には、一部をのぞき台場から大砲・玉薬が撤去され、事実上台場は廃止されます。
長崎台場の概要
「長崎台場」は、長崎警備のためにおもに福岡(黒田)藩、佐賀(鍋島)藩が警衛を担当した台場群の総称です。史料と遺跡から、長崎港を含む長崎湾とその周辺海域で、現在23か所が確認(推定)されています(図1、表)。
台場は、長崎湾から南側の長崎半島先端野母崎周辺や北側の西彼杵半島西岸の東シナ海(五島灘)沿岸にも大村藩などによる計12か所の台場が築かれていますが、(図1、表)では今回省略しています。
長崎台場23か所のうち、遺構の存在が確認できるものはわずか6か所で、このうち、魚見岳台場、四郎ヶ島台場、女神台場が国史跡に指定されています。
近年の発掘調査によって遺構が確認された女神台場(長崎市教育委員会 2017年)は、魚見岳台場の隣接地ですが、市のWebサイトに案内がなく、現地を見たところ進入路と推定される道が封鎖されていたことから、現状見学はできないと思われます。

(長崎市教育委員会 2011年a)を参考に作成。背景図はカシミール3Dで作成。
| No. | 台場名 | 古台場 | 新台場 | 増台場 | 佐賀 | 他 | 現状 |
| 1 | 白崎 | ○ | 消滅 | ||||
| 2 | 太田尾 | ○ | 消滅 | ||||
| 3 | 陰尾 | ○ | ○ | 消滅 | |||
| 4 | 女神 | ○ | ○ | 国指定史跡 | |||
| 5 | 高鉾島 | ○ | ○ | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||
| 6 | 神崎 | ○ | ○ | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||
| 7 | 長刀岩 | ○ | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | |||
| 8 | 沙崩 | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 9 | 魚見岳 | ○ | 国指定史跡 | ||||
| 10 | 神ノ島 | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 11 | 四郎ヶ島 | ○ | 国指定史跡 | ||||
| 12 | 出鼻 | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 13 | 中ノ田 | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 14 | 千場 | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 15 | 円通庵 | ○ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 16 | 観音崎 | △ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 17 | 佐賀藩屋敷内 | △ | 未確認 | ||||
| 18 | 小ヶ倉 | △ | 未確認 | ||||
| 19 | 深堀 | △ | 未確認 | ||||
| 20 | 稲佐 | △ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 21 | 岩瀬道 | △ | 埋蔵文化財包蔵地 | ||||
| 22 | 大波戸 | △ | 未確認 | ||||
| 23 | 梅ヶ崎 | △ | 未確認 |
No.は図1と同じ。△は伝承などももとづくもの。
「埋蔵文化財包蔵地」:遺構は確認できないものの、推定地が遺跡として登録されているもの。
「未確認」:場所が特定されていないもの。
(長崎市教育委員会 2011年a・2011年b・2016年)を参考に作成。
23か所の台場は、前に書いたように築造時期と築造主体から「古台場」「新台場」「増台場」「佐賀台場」に区別されますが、それぞれの台場数は「古台場」7か所(1~7)、「新台場」5か所(3~6・8)、「増台場」4か所(5~7・9)、「佐賀台場」10か所(10~19)で、他に長崎町役人(長崎地役人)主管の台場4か所(20~23)があります。
長崎町役人は長崎会所に所属する「商」の身分ですが、高島秋帆(しゅうはん)のような砲術家を輩出しています。長崎奉行所に代わって、実質的に長崎を管理していたようです。台場の詳細は不明ですが、「新台場」「増台場」と同時期に築造されたようです。
総数は30か所なりますが、これは延べ数で、「新台場」「増台場」多くは、「古台場」の増築です。
長崎台場の変遷
沿岸台場は、文化5年(1808年)のフェートン号事件を機に各地で築かれますが、現在実態として見ることができるものは、ほとんどが嘉永6年(1853年)のペリー来航後の安政年間以降の築造です。
長崎台場の成立はこれよりも明らかに古く、江戸時代を通した台場の変遷を追うことができます。最新の「佐賀台場」も完成年はペリー来航の嘉永6年ですが、築造開始は嘉永3年(1850年)です。
長崎台場は、遺構の確認例はそれほど多くはありませんが、絵図が多数残されているようです。
遺構と絵図から推定される長崎台場の変遷は、(図2)(長崎市教育委員会 2016年)にまとめられています。
「古台場」は単郭の長方形のプランを基本としていて、「新台場」「増台場」は「古台場」の上部に増築することによって、全体として複郭となります。
また、「新台場」「増台場」の平面形は多角形になることが多かったようで、これは大砲を複数の位置・方向から発射するためと推定されています。
大砲前の土塁と砲眼の設置は「佐賀台場」の時期になります。

(長崎市教育委員会 2016年)からの転載。
魚見岳台場
魚見岳台場の築かれた長崎湾女神水道は、長崎港の入口にあたり、湾の両岸が最も接近する戦略上の要衝地です(写真2)。女神水道の幅は約450mで、正保4年(1647年)のポルトガルの軍艦来航時には、封鎖のために「船橋」を掛けた長崎港の最終防衛ラインです。
当時は、女神水道から外洋を「外目」、港内を「内目」と呼んでいたようです。現在は、2005年12月に開通した女神大橋(ヴィーナスウィング)が架かっています。

Google Earthから。(A)北から、(B)南から、(C)上から。

(長崎市教育委員会 2011年a)からの転載、一部加筆。
女神水道には、台場最初期の「古台場」の段階から、西岸に神崎台場が、東岸には女神台場が築かれていました。魚見岳台場は「増台場」で、文化7年(1810年)に築造を開始し、文化9年(1812年)に竣工しました。女神台場の南側隣接地にあり、女神水道の防衛強化を目的に築かれたと考えられます。
遺跡の敷地は長崎市上下水道局の管轄のようで、見学には事前連絡による許可が必要です。こちらをご確認ください。
私が連絡した際は、登山道の一部が崩れていることなどの注意点の説明だけで、日程や氏名も聞かれていません。形式的なものだと思います。実際に歩いた感じでは、登山道崩落などの危険か所はありませんでした。
文化財部局によって、一部柵などの整備が行われていますが、観光地ではないだけに、ほぼ生の状態の遺跡を見ることができます。

(B)奥の建物は長崎市南部下水処理場。


石段は当時のものか。(C)奥の平場は三ノ増台場。
【魚見岳台場】
長崎県長崎市戸町5丁目
登山口は、長崎市南部下水処理場南側隣接地です。
駐車場は、下水処理場斜め前の女神大橋直下の女神大橋道路公園駐車場が利用できます。ただし、私が行った2024年4月は封鎖されていたため、女神大橋第二駐車場を利用しました。
【補遺】女神検疫所
(写真8)は、魚見岳台場二ノ増台場最下段石段Aの下にある標柱です。「女神検疫所境界」とあります。気になったので調べてみました。
明治時代になると、伝染病の流入を想定しての組織的な海港検疫が行われるようになりました。きっかけはコロナの蔓延だったようです。

(図3)石段A下にあります
長崎港では、明治12年(1879年)、現長崎市南部下水処理場を中心に、現在の女神大橋橋脚付近から魚見岳台場跡地周辺を敷地に長崎消毒所として発足し、明治29年(1896年)に女神検疫所と改称されたそうです。
こちらが参考になります。
今回は、おもに
・長崎市教育委員会『国指定史跡長崎台場群魚見岳台場跡保存管理計画書』2011年a
・長崎市教育委員会『史跡長崎台場群四郎ヶ島台場跡保存活用計画書』2016年
を参考にさせてもらいました。
参考文献は「幕末の城投稿一覧」にまとめてあります。
魚見岳台場・四郎ヶ島台場2024年4月現地、2026年8月29日投稿。
