軍都舞鶴の概要

鎮守府と要塞
京都府舞鶴は、明治時代になった新たに開かれた「軍都」です。
「鎮守府(ちんじゅふ)」とは軍港に設置され海軍の拠点機関であり、艦艇の後方支援を主な業務としていました。これに対して、要塞は、陸軍所管の海岸防衛の拠点であり、鎮守府や海峡などの要衝地に置かれました。
鎮守府とは
明治時代、海軍は日本沿岸の海を5区の海軍区に分け、そのうちの神奈川県横須賀(1884年開設)(第一海軍区)、広島県呉(1889年) (第二海軍区)、長崎県佐世保(1889年) (第三海軍区)と京都府舞鶴((1901年))(第四海軍区)に鎮守府を設置しました。舞鶴は、日本海側唯一の鎮守府でした。第五海軍区には、室蘭鎮守府が予定されていましたが取り止めとなり、明治38年(1905年)に鎮守府の格下となる要港部が青森県大湊に置かれました。
各鎮守府は、所轄海域の防備とともに所属艦艇の統率・補給・出撃準備、兵員の徴募・訓練や、艦艇の建造・修理、兵器の製造、海軍病院、軍港水道等の施設の運営・管理を行いました。 鎮守府の組織名を拾ってみると、参謀部・人事部・経理部・造船部・兵器部・建築部・軍需部・艦船部・港務部・軍法会議・監獄署・軍医部・海軍病院・海軍学校・海兵団・水雷団・防備隊などがあります。また、直属の軍事工場には、海軍工廠を始め、火薬廠・空廠・燃料廠・衣糧廠・療品廠がありました。独立した行政組織のようです。
2016年4月に日本国内の鎮守府関連施設は「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜」として日本遺産に認定されました。その構成文化財を見ると、軍事以外の幅広いインフラを含んでいます。軍事施設というよりも、軍港を中心としたまさに「軍都」を形成していました
要塞とは
一方、要塞は、陸軍の機関です。
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾や海峡に要塞(砲台/堡塁)を設置する計画が立てられましたが、対外的な状況は切迫しており、参謀本部長の山縣有朋が自ら臨時砲台建設部長を兼ね、体制整備とともに砲台建設を進めました。
明治13年(1880年)5月に観音崎(北門)第一・二砲台(神奈川県横須賀市)の建設工事が開始され、引き続き、対馬(長崎県)、下関(山口県)、由良(和歌山県和歌山市、兵庫県洲本市など)地区の砲台建設が起工し、これらはその後、東京湾要塞、対馬要塞、下関要塞、由良要塞として集約されました。
要塞築城(建設)は、当初、工兵第一方面(東京)、同第二方面(仙台)、同第三方面(名古屋)、同第四方面(大阪)、同第五方面(広島)、同第六方面(熊本)(改編あり)が担っていましたが、日清戦争後の明治30年(1897年)に陸軍築城部が設置され、この年から翌年にかけて、広島湾要塞、芸予要塞、佐世保要塞、舞鶴要塞、長崎要塞、函館要塞の建設が一気に進められました。これは、対ロシア関係の緊迫化と、清からの賠償金取得によるものです。要塞は、明治30年代までに、本土で10か所、本土外(台湾・朝鮮など)で5か所の計15か所になりました。
その後、明治末期になると、対外的な情勢の変化や、備砲の有効射程距離や射撃精度の向上などから、要塞整理の議論が始まり、大正9年(1919年)と翌年の「要塞整理要領」「要塞整理方針」にもとに、要塞や各要塞の砲台の統廃合や新規建設が行われました。
要塞は、太平洋戦争開始時には臨時要塞を含めて20か所以上になりました。
備砲に関しては、大正11年(1922年)のワシントン海軍軍縮条約により廃艦や建造中止となった海軍主力艦の艦砲(砲塔砲)が、対馬要塞豊砲台(長崎県対馬市)、壱岐要塞黒崎砲台(長崎県壱岐市)、東京湾要塞千代ヶ崎砲台(神奈川県横須賀市)などに配備されました。
しかし、全体としては、備砲の新式への更新は進まず、観測設備も貧弱で、現実的には昭和期に必要となった対空、対潜水艦防衛の役には立ちませんでした。 陸軍は、積極的なテコ入れは行わず、鎮守府の防空対策は海軍が行うようになっていきました。
舞鶴鎮守府
先にも書きましたが、明治19年(1886年)の「海軍条例」により、日本沿岸は五海軍区に分られ、各海軍区の軍港に鎮守府を置くことが定められました。舞鶴は、このころから日本海の第四海軍区の軍港候補として注目されていて、海軍省や陸軍省はじめ内務省など関係機関の視察や調査が相次いで行われました。翌年には鎮守府予定地として内定し、用地買収計画などが進められ、明治22年(1888年)に正式決定となりました。
明治22年勅令第72号「鎮守府条例」は以下の通り。
第四条 第一海軍区鎮守府ヲ相模国三浦郡横須賀ニ置キ第二海軍区鎮守府ヲ安芸国安芸郡呉ニ置キ第三海軍区鎮守府ヲ肥前国東彼杵郡佐世保ニ置キ第四海軍区鎮守府ヲ丹後国加佐郡舞鶴ニ置ク
しかし、清国との緊張関係から、呉と佐世保鎮守府の工事が早急に進められたのに対して、舞鶴鎮守府の工事はすぐには着手されませんでした。舞鶴鎮守府の建設工事が始まったのは、日清戦争の終結後のことです。

背景図はGoogle Earth Proから作成しました。
明治 29 年(1896年)に、海軍省臨時海軍建築部、舞鶴臨時海軍建築支部が設置され、翌年から舞鶴軍港の建設が始まりました。明治32年には、土地の造成工事と並行して施設関係の建設も急ピッチで進められました。
舞鶴鎮守府の開庁は、日露戦争(1904年~1905年)が迫る明治34年(1901年)。初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎です。
舞鶴鎮守府司令部庁舎は、現在東郷邸と呼ばれている鎮守府長官官舎(現海上自衛隊舞鶴地方総監部会議所)の南側隣接地にありましたが、残念ながら1964年に老朽化のため解体されてしまいました。
なお、大正12年(1923年)に、ワシントン海軍軍縮条約の関係で、舞鶴鎮守府は舞鶴要港部に、舞鶴海軍工廠は工作部に格下げとなりましたが、昭和14年(1939年)に鎮守府にもどりました。
海軍工廠
海軍工廠(こうしょう)とは、鎮守府の基幹部門である直轄の軍需工場です。
当初は造船廠と兵器廠に分かれていましたが、明治36年(1903年)に海軍工廠となり、舞鶴では、艦艇の修復、駆逐艦、水雷艇など小型艦艇の建造、水中兵器の開発・製造が行われていました。戦後は、民間会社となり、現在はジャパン・マリンユナイテッド株式会社の舞鶴事業所として操業しています。所内には海軍工廠当時の近代遺産が数多くあり、現在も工場や倉庫として使用されています。所内北側にある2基のドック(船渠/せんきょ)も改修はされていますが、明治37年(1904年)、大正3年(1914年)に完成した海軍工廠時代のものです(舞鶴市 2001年)。 これらは、残念ながら見学できません。
第三火薬廠
火薬廠は、火薬製造・充填などを行う工場(工廠)です。昭和2年(1927年)に東京都豊島区滝野川から舞鶴に海軍爆薬部が移設されたのが始まりで、当初は舞鶴市内の長浜地区(図1)にありました。
日中戦争勃発により、爆薬・炸薬の製造が激増し、滞薬量も安全量をはるかに超過して保安上危険な状態となったことから、中心部と離れた舞鶴市朝来地区(旧加佐郡朝来村)へ移転することとなり、昭和16年から施設完成後順次操業を開始しました。 昭和14年に、舞鶴要港部が再度鎮守府に昇格したことで、爆薬部は「第三海軍火薬廠(第三火薬廠)」となました。第三とは、平塚(神奈川県平塚市)、柴田(宮城県柴田町)と舞鶴の三か所の火薬廠の第三です。

舞鶴赤レンガパーク
舞鶴東港北吸地区には、現在12棟の赤煉瓦建物が残っています。これらは、舞鶴鎮守府の兵器廠(海軍工廠の前身)、軍需部、経理部所管の倉庫として、明治34年(1901年)から明治36年にかけて9棟が、大正6年(1918年)から大正9年に3棟が建てられました。保管された軍需品は、水雷や銃器から衣料まで多様でした。基本2層構造で、9棟は倉庫内まで軍港引込線の線路を引き入れていました。
現在、4棟が海上自衛隊の現役倉庫として使用されていますが。これをのぞく8棟(内大正期の1棟は附指定)が国の重要文化財に指定されています。指定名称は「舞鶴旧鎮守府倉庫施設」です。
2012年に、「舞鶴赤レンガパーク」として5棟が公開されています。


赤レンガパークの国道27号線反対側にはこんなものが。
【赤レンガパーク駐車場】
京都府舞鶴市北吸
無料駐車場です。海軍記念館は駐車場がないので、ここから歩くことになります。
海軍機関学校
現在の海上自衛隊舞鶴地方隊総監部は、海軍機関学校が置かれていた場所です。敷地内には旧海軍時代の建造物があり、大講堂の一部が海軍記念館となっています。
海軍機関学校は、江田島(広島県江田島市)の「海軍兵学校」が将校の養成を目的としたのに対して、機関科に属する士官を養成するために設立された教育機関です。
当初は横須賀に設置されましたが、関東大震災によって横須賀校舎が全焼してしまったため、大正14年(1925年)に舞鶴に移転しました。昭和2年(1927年)から現在の海上自衛隊舞鶴地方隊総監部を校地として校舎の建設が始まりました。現存建物の多くはこの時のものです。
海軍機関学校大講堂(現海軍記念館)と東郷邸(鎮守府司令長官官邸)(現舞鶴地方総監部会議所)は、特定日のみの公開です。東郷邸の方は、原則月一回の公開のため、まだ行けていません。公開スケジュールはこちら。

現海上自衛隊舞鶴地方隊総監部大講堂(海軍記念館)。昭和8年築。

(A)機関学校生徒館(現海上自衛隊第四術科学校庁舎)、(B)機関学校庁舎(現海上自衛隊舞鶴地方隊総監部第一庁舎)。ともに昭和5年築。
【舞鶴鎮守府・舞鶴要塞関係略史】
明治19年 | 1886年 | 舞鶴港を第四区海軍区鎮守府の予定地とする。 | 海軍 |
明治22年 | 1889年 | 第四区海軍区鎮守府を舞鶴に決定。 | 海軍 |
明治27年 | 1894年 | 日清戦争(1894年7月25日 ~ 1895年4月17日)。 | |
明治30年 | 1897年 | 舞鶴港(東港)建設工事着手。 | 海軍 |
明治30年 | 1897年 | 舞鶴要塞砲兵大隊業務開始。砲台建設に着手 | 陸軍 |
明治33年 | 1900年 | 舞鶴要塞司令部開庁。 | 陸軍 |
明治34年 | 1901年 | 舞鶴鎮守府司令部開庁。 | 海軍 |
明治34年 | 1901年 | 海軍工廠前身の兵器廠、造船廠発足。 | 海軍 |
明治35年 | 1902年 | 舞鶴要塞砲台・堡塁群概ね完成。 | 陸軍 |
明治37年 | 1904年 | 日露戦争(1904年2月6日 ~ 1905年9月5日)。 | |
大正3年 | 1914年 | 第一次世界大戦(1914年7月28日 ~ 1918年11月11日)。 | |
大正12年 | 1923年 | ワシントン軍縮会議により、舞鶴鎮守府は舞鶴要港部に格下げ。 | 海軍 |
大正12年 | 1923年 | 関東大震災(9月1日)。 | |
昭和4年 | 1929年 | 海軍火薬廠爆薬部、舞鶴長浜地区に移転開始。 | 海軍 |
昭和5年 | 1930年 | 満州事変勃発。 | |
昭和12年 | 1937年 | 日中戦争始まる。 | |
昭和14年 | 1939年 | 舞鶴要港部、舞鶴鎮守府に格上げ。 | 海軍 |
昭和16年 | 1941年 | 海軍火薬廠爆薬部、第三海軍火薬廠に改名、朝来地区に移転開始。 | 海軍 |
その他の施設
舞鶴は、江戸時代に田辺藩(舞鶴藩)の城下町でしたが、これは西舞鶴のことで、鎮守府が置かれた東舞鶴の浜・北吸・余部下・長浜の4か村は、半農半漁の寒村でした。
そこに、新たな軍都建設が一からスタートしました。軍港や海軍施設だけではなく、それを維持するためのインフラの整備や市街地の大規模な整備も行われました。東舞鶴の方格状に直交する道路はその時のもので、区画整理にあたっては河川の付け替えなども行われたようです。
現在も、当時の水道関係や鉄道関係の施設が残っています。
・軍港引込線北吸隧道(北吸トンネル) (図1)
・北吸浄水場施設(図1)
・桂取水堰堤(図2)
・岸谷川下流取水堰堤(図2)
いずれも見学が可能ですが、堰堤(貯水池)は現役の浄水道施設のため、見学範囲が制限されています。
これ以外にも、さまざまな遺構が残っています(舞鶴市 2001年)。
舞鶴要塞と砲台群
舞鶴要塞は、舞鶴鎮守府のある舞鶴湾周辺地域の防衛を任としました。
明治20年(1887年)に舞鶴鎮守府の建設が決まったことで、陸軍は明治24年(1891年)に全国の防備すべき海岸要地の一つとして舞鶴を選定。日清戦争終結後の明治28年(1895年)8月、「舞鶴軍港防御計画要領」を策定して裁可を受けました。
明治30年(1897年)に葦谷砲台を起工、その後明治35年11月までに6か所の砲台・堡塁を築城し、なんとか日露戦争開戦に間に合わせました。
砲台とともに、これらの砲台に弾薬を供給するための火薬(弾丸)本庫が下安久と白杉地区に建設されました。
舞鶴要塞司令部は、西舞鶴の上安久に置かれました。現在の舞鶴税務署です。隣接して舞鶴重砲兵大隊(重砲兵連隊)があり、その正門が日星高等学校の校門として残っています(写真7)。

(A)現在の日星高等学校正門。(B)には何種類かの写真が残っていますが、いずれも背後の山の稜線が加工されています。(B)は(舞鶴市 2001年)からの転載です。)
【舞鶴重砲兵大隊正門】
京都府舞鶴市上安久
現在の日星高等学校正門です。専用駐車場はありませんが、近隣に店舗かあります(オススメはできませんが)。
要塞周辺は、「要塞地帯法」により、さまざまな規制が課せられました。
(図2)の赤破線は、明治31年(1898年)に告知された最も初期の範囲で、範囲はその後広域化していきました。
範囲内は当初4段階の規制があり、段階によって土地の現状変更や撮影・模写や測量の規制・禁止が定められていました。
(写真7)は、要塞地帯標です、これは最も規制の厳しい「第一地帯」標です。吉坂堡塁周辺にあったものが移設されたようです。
なお、「S.M.」は「Strategic Mark Momument」、「1.Z.」は「First Zone」です。

背景図はカシミール3Dから作成しました。

吉坂堡塁登山口の杉森神社の鳥居前に埋設されています。ただ、本来の位置ではなく、移設されたもののようです。
明治期の砲台
舞鶴湾は、湾口の幅が約800mと狭く湾内は広い天然の良港です。
明治期は、舞鶴湾最先端の博奕岬に電灯(探照灯)が設けられ、湾口付近に4か所の砲台、葦谷砲台、浦入砲台、金岬砲台、槇山砲台が配置されました(図2)。

五老岳から見た舞鶴湾です。五老岳には、太平洋戦争時に防空砲台が置かれていました。

浦入砲台の隣接地には、海軍浦丹生水雷衛所があり、連携して敵艦の湾内への侵入阻止を企図しました。
水雷衛所とは、有線水雷と呼ばれる浮漂水雷や電気触発水雷を湾口に設置し、視発弧器(照準器)によって敵艦の真下で水雷を電気的に爆破させるための指揮観測所のことです。浦入砲台は、海軍水雷施設の防御も担っていました。
旧日本陸軍では、対艦射撃用の海岸砲台を「砲台」、陸戦砲台を「保塁」として区別していますが、建部山と吉坂の堡塁は、ロシア軍部隊が舞鶴湾正面を避け、両サイドの由良川流域と高浜湾から上陸してくることを想定して築かれました。明治の山城です。
昭和期の砲台
先にも書いたように、明治末期になると要塞整理の議論が高まりました。
舞鶴要塞の要塞整理は、舞鶴軍港の防衛線を湾外に前進させ、これにともなう新たな砲台の建設と既存の砲台・堡塁の残置と廃止が検討されました。大正8年(1912年)の「要塞整理要領」にもとづく「舞鶴要塞兵備表」によれば、葦谷、槇山、建部山、吉坂と金岬の一部の廃止と、成生岬、新井崎を新設することが示されている。
新井崎砲台は、昭和9年(1934年)に起工されましたが、成生岬砲台はしばらく着工されませんでした。
そのころになると、陸海軍とも冠島の重要性に注目するようになりました。
冠島は、日露戦争当時海軍が見張所を置いた海軍用地でしたが、その後、天然記念物オオミズナギドリ生息地ということもあり手付かずの状態でした。
昭和8年ごろから、海軍舞鶴要港部(鎮守府)は対空対潜施設を、舞鶴要塞司令部でも新井崎砲台と連携可能な冠島砲台を計画しました。
また、陸軍では、要塞地帯の拡張にともなう通信施設として、成生岬から冠島を経由して新井崎を結ぶ軍用海底電線の敷設を計画し、これは昭和10年に完成しました。
第一次世界大戦での航空機や潜水艦の活躍には目覚ましいものがあり、大正後半期から昭和期は当然このことを考慮した検討が行われていたと思います。日本海軍でも、この時期に潜水艦の建造が進められていました。しかし、昭和期の砲台網(図4)や実際の配備に、計画性、実効性があったかどうかははなはだ疑問で、冠島、成生崎については昭和19年ごろになって慌ただしく工事が始まりましたが、結局未完のまま終戦を迎えました。
新井崎砲台についても、当初の計画では、大正期に新たに開発された七年式三十糎榴弾砲を備砲として予定していましたが、結局配備されたものは、金岬砲台で大正8年(1912年)に兵備表から取除されていた「克式三十五口径中心軸二十一糎加農砲」 の再配備であり、そもそもこれは、日清戦争で旅順港模珠礁砲台、大連湾黄山砲台から鹵獲(ろかく)した旧式です。

昭和期の防空砲台
太平洋戦争における日本本土の防空は基本的に陸軍の任でしたが、鎮守府周辺は海軍が担当しました。
舞鶴周辺の防空砲台は、福知山を含めて現状11か所あり、その他に17か所の防空機銃砲台と偽砲台があったようです。
これらは、昭和15~16年ごろから設置が進められたようですが、明治期の砲台に比べると資料が少なく、全容がはっきりしていないようです。
なお、五老岳防空砲台について、1946年6月にアメリカ軍が撮影したカラーフィルムの映像が残されています(動画1)。
【明治・大正期 砲台】
① 葦谷(あしだに)砲台
・起工: 明治30年(1897年)11月1日、竣工: 明治32年8月28日
・備砲: 克式二十八糎榴弾砲 6門(3砲座)
・廃止: 昭和20年。
②浦入(うらにゅう)砲台
・起工: 明治31年(1898年)6月26日、竣工:明治32年2月28日
・備砲: 斯加式十二糎速射加農砲 4門(2砲座)
・廃止: ⇒ ⑩
・備考: 関西電力舞鶴発電所によって大半が破壊される。隣接地に海軍浦丹生水雷衛所。
水雷衛所とは、有線水雷と呼ばれる浮漂水雷や電気触発水雷を、湾の入り口や海峡に線状に設置し、衛所で見張り、視発弧器(照準器)によって敵艦の方位測定を行い敵艦の真下の水雷を電気的に爆破させる場所。
③ 金岬(かながみさき)砲台
・起工: 明治31年(1898年)7月20日、竣工: 明治33年7月19日
・備砲: 克式二十一糎加農砲 4門(4砲座)、克式十五糎加農砲 4門(2砲座)
・廃止: 大正8年(1912年)要塞整理要領により二十一糎加農砲を兵備表から取除。昭和8年(1920年)に全てを兵備表から取除。昭和10年(1922年)9月全部除籍。昭和16年備砲撤去。
④ 槇山(まきやま)砲台
・起工: 明治31年(1898年)11月6日、竣工: 明治33年11月5日
・備砲: 二十八糎榴弾砲8門(4砲座)、十五糎臼砲 4門(2砲座)
・廃止: 大正2年(1913年)廃止予定。大正3年から昭和3年(1928年)に営造物を全て除籍。 ⇒ ⑬
⑤ 建部山(たけべさん)堡塁
・起工: 明治32年(1899年)9月1日、竣工: 明治34年8月31日
・備砲: 十二糎加農砲 4門(2砲座)
・廃止: 大正8年(1912年)要塞整理要領により兵備表から取除。大正8年廃止決定。昭和3年(1928年)廃止。⇒ ⑭
⑥ 吉坂(きっさか)堡塁 (福井県大飯郡高浜町)
・起工: 明治33年(1900年)7月20日、竣工: 明治35年11月20日
・備砲(本堡塁): 克式十二糎加農砲 2門(1砲座)、十二糎加農砲 4門(2砲座)、九糎臼砲6門(2砲座)
・備砲(付属堡塁): 十二糎加農砲 2門(2砲座)
・廃止: 大正8年(1912年)要塞整理要領により兵備表から取除。昭和10年(1935年)除籍。昭和10年9月備砲撤去。
㉒ 博奕岬(ばくちみさき)電燈
・起工: 明治32年(1899年)12月18日、竣工: 明治34年12月17日
・備砲: なし
・廃止:⇒ ⑪
・備考: 現在、自衛隊用地内。残りの良い遺構があるものの立ち入り不可。
【昭和期 砲台】
⑦ 新井崎(にいざき)砲台 (京都府与謝郡伊根町)
・起工: 昭和9年(1934年)7月5日、竣工: 昭和11年5月20日
・備砲: 克式二十一糎加農砲 4門(4砲座)(金岬砲台備砲転用)
・廃止: 昭和20年
⑧ 冠島(かんむりじま)砲台
・起工: 昭和19年(1934年)6月、未完成
・備砲: 克式二十八糎榴弾砲 2門(予定)
⑨ 成生崎(なりゅうみさき)砲台
・起工: 昭和19年(1934年)?、未完成
・備砲: 克式二十八糎榴弾砲2門(予定)
⑩ 葦谷砲台 (昭和期)
・起工・竣工: ①から
・備砲: 克式二十八糎榴弾砲2門
・廃止: 昭和20年
【昭和期 防空砲台】
⑪ 博奕岬(ばくちみさき)防空砲台
・起工・竣工: 昭和17年(1942年)以前起工竣工
・備砲: 八糎高角砲 3門
・備考: 明治期電燈設置、改修。
⑫ 浦入(うらにゅう)防空砲台
・起工: ・竣工:不明
・備砲: 不明。探照灯施設か。
・備考: 昭和18年6月に配員は博奕岬へ移動。
⑬ 槇山防空砲台
・起工・竣工: 昭和18年(1942年)9月起工、完成不明
・備砲: 十二糎単装高角砲 4門
・備考: ④改修
⑭ 建部山防空砲台
・起工・竣工: 昭和19年(1944年)起工
・備砲: 九十八式八糎連装高角砲 1門
・備考: ⑤改修。当初偽砲台として建設。未完成か。
⑮ 五老岳(ごろうがたけ)防空砲台
・起工・竣工: 昭和17年(1942年)以前起工、開戦後完成
・備砲: 十二糎七連装高角砲 2門、八糎高角砲 4門
⑯ 中山(なかやま)防空砲台
・起工・竣工: 昭和19年(1944年)起工竣工
・備砲: 十二糎七単装高角砲 4門
・備考: 機銃砲台改修。
⑰ 空山(そらやま)防空砲台
・起工・竣工: 昭和17年(1942年)以前起工、開戦後完成
・備砲: 十二糎七連装高角砲 2門他
・備考: 射撃用電探配備。
⑱ 愛宕山(あたごやま)防空砲台
・起工・竣工: 昭和17年(1942年)以前起工竣工
・備砲: 十二糎単装高角砲 4門他
⑲ 倉梯山(くらはしやま)防空砲台
・起工・竣工: 昭和17年(1942年)以前起工、昭和19年夏完成
・備砲: 十二糎七連装高角砲 2門、八糎高角砲 3門他
⑳ 栗田(くりた)防空砲台 (京都府宮津市)
・起工・竣工: 昭和20年(1942年)起工
・備砲: 十二糎七連装高角砲 2門
・備考: 偽砲台として建設開始、途中変更。未完成か。
㉑ 福知山(ふくちやま)防空砲台 (京都府福知山市)
・起工・竣工: 不明
・備砲: 八八式七糎野戦高角砲 7門
※防空砲台はすべて昭和20年廃止
舞鶴周辺には、他に17か所の防空機銃砲台と偽砲台。
参考文献・webサイトは、「舞鶴要塞・舞鶴鎮守府 投稿一覧」にまとめてあります。
2018年5月、2023年3月、2023年11月、2024年3月、2025年3月現地、2025年6月1日投稿。