舞鶴要塞・舞鶴鎮守府 (8)
火薬と火薬製造の歴史



舞鶴 第三海軍火薬廠
京都府舞鶴市(旧朝来村)の、旧日本海軍の第三海軍火薬廠朝来(あせく)工場は、昭和14年(1939年)から昭和20年のわずかな期間稼働した広大な爆薬製造プラントです。現在も、一部の施設が廃墟となって残っています。
ここ数年、世界中がさわがしくなってきました。一方日本では戦争体験者が非常に少なくなってきています。しかし、ごく身近にも生き証人としての戦争遺跡は存在します。これを将来に残していくことの重要性はますます大きくなってきたのではないかと思っています。
第三海軍火薬廠は、一時「ロシア病院」などという、まったく実態とは関係のない名称で呼ばれ、心霊スポットとして扱われることもありました。しかし近年では、「文春オンライン」など戦争遺跡としてまともに取り上げられる機会が多くなってきていると思います。
今回は、まず、火薬と火薬製造の歴史について少しまとめてみました。
火薬、爆薬やその製造工場は、兵器類と違って、残っている、あるいは公開されている写真はごく少数で、これを字面だけで追ってみても、正直なところ、側壁しか残っていない建物跡から何が行われていたかを想像する助けにはなりません。
ただ、歴史的な背景を知る手立てにはなると思い、備忘録としてまとめてみました。
おもに、千藤三千造氏の『日本海軍火薬史』日本海軍火薬史刊行会 1967年刊 、関本長三郎氏の『住民目線で記した旧日本海軍第三火薬廠』出版センターまひつる 2005年刊、毛利聡・牧野雅司・番場豊氏の「第三海軍火薬廠朝来工場が地域に及ぼした影響と現況の調査」『舞鶴工業高等専門学校紀要』No.57 2022年刊を参考にさせてもらいました。『住民目線で記した旧日本海軍第三火薬廠』については、一部しか複写ができていないので、全部は読んでいません。『日本海軍火薬史』については、国立国会図書館のデジタルコレクションにあります。『舞鶴工業高等専門学校紀要』はPDFが公開されています。
【第三海軍火薬廠】
京都府舞鶴市白屋他
駐車場は、青葉山ろく公園を使用するのが無難ですが、舞鶴高専の南東の入口前の路肩に余裕があるので、私はそこに止めていました。
火薬・爆薬・炸薬
「火薬」「爆薬」といった用語は、通常明確に使い分けられてはいないと思います。旧海軍でも、曖昧なまま広義に使用されていた時期があったようですが、昭和16年(1941年)5月の「火薬火工兵器取扱規則」で次のように分類されました。
【火薬類】
千藤三千造『日本海軍火薬史』日本海軍火薬史刊行会 1967年刊
○ 火薬
・無煙火薬 (詳細省略)
・黒色火薬
・爆薬 (表1)
・起爆薬
○ 料薬 (光、煙などを発する薬品で火薬に準ずるもの)
【火工兵器】 ※火薬類を使用目的に応じて加工・装填したもの
○ 無煙火薬火工兵器 (装薬(薬嚢式装薬)、装薬包(薬莢式装薬)など、おもに発射薬、推進薬)
○ 黒色火薬火工兵器 (装薬(薬嚢式装薬)、装薬包(薬莢式装薬)など、おもに発射薬、推進薬)
○ 爆薬火工兵器
・炸薬 (弾丸炸薬、爆弾炸薬、魚雷炸薬、機雷炸薬など。兵器に装填するように成型した爆薬)
・炸薬火工兵器 (弾丸、爆弾、魚雷頭部、機雷など)
○ 特殊火工兵器 (信管、特殊弾(曳煙弾、照明弾、焼夷弾)、料薬火工兵器(信号火箭、発煙筒など)
| 名称 | 略称 | 用途 | 組成 | 採用年 |
|---|---|---|---|---|
| 下瀬爆薬 | PA | 一般 | ピクリン酸 | 1893年 |
| 九一式爆薬 | TNA | 弾丸 | トリニトロアニソール | 1931年 |
| 九二式爆薬 | TNT | 弾丸 | トリニトロトルエン | 1934年 |
| 八八式爆薬 | K0 | 機雷・爆雷 | 過塩安75%、珪素鉄16%、木粉6%、重油3% | 1934年 |
| テトリル | Tet | 弾丸・伝爆薬 | テトリル | - |
| 九四式爆薬 | M | 魚雷 | TNA60%、ヘキソーゲン40% | 1934年 |
| 九七式爆薬 | H1 | 魚雷・爆雷 | TNT60%、ヘキシン40% | 1937年 |
| 九八式爆薬 | H2 | 爆弾 | TNA60%、ヘキシル40% | 1938年 |
| 一式爆薬 | - | 爆雷 | ピクリン酸アンモニウム81%、アルミ粉16%、木粉1%、重油2% | 1943年 |
| 二式爆薬 | - | 弾丸 | TNA60%、アルミ粉40% | 1943年 |
(千藤三千造 1967年)表16から。
まとめ直すと、
【火薬】 爆発する薬品の総称、もしくはその中で比較的威力が低い(燃焼速度が遅い)もの。おもに装薬(発射薬)として使用。
【爆薬】 火薬の中でも燃焼速度が高く、爆発による衝撃波によって破壊力を発揮するもの。
【炸薬(さくやく)】 弾丸(砲弾)や爆弾などを爆発させるために充填された「爆薬」。
舞鶴の第三海軍工廠では、爆薬と炸薬の製造、そして一部火工兵器への炸薬充填作業が行われました。
火薬と火薬製造の歴史
明治以前
世界の四大発明「紙」「印刷」「火薬」「羅針盤」は、いずれも中国を起源とします。
このうち、「火薬」は、唐時代(618~907年)には発明されていたようで、モンゴル帝国の拡大とともにイスラム世界、ヨーロッパに伝播しました。
日本への火薬(黒色火薬)の伝来は、鉄砲伝来と同時です。天文12年(1543年)に種子島に漂着したポルトガル人から、種子島時堯が家臣篠川小四郎に黒色火薬の製造法を学ばせたことによって、製法も同時に伝わることになりました。
「黒色火薬」は、硝石(75%前後) ・硫黄(10%前後) ・木炭(15%前後)を混合してつくられますが、主成分である硝石は、降雨量の多い日本のような地域では水に溶解してしまうために天然の鉱脈はできません。人工的に精製するか輸入するしかありません。織豊期から江戸時代初期は中国やルソン島(フィリピン)からの輸入に頼っていたようです。
江戸時代の人工的精製方法には、「古土法」「培養法」などがありました。「古土法」は、築半世紀も経つような古い住居の床下土でバクテリアなどの働きによって生成された硝酸イオンと、木灰からつくられる灰汁からカリウムをそれぞれ煮出して混合し、硝石を生み出すといった原始的な方法でした。
越中五箇山や飛騨白川郷などでは、合掌造りの民家の床下に穴を掘り、その中にヨモギ・麻などの干し草と蚕糞を混ぜた土を何層にも積み重ね、数年をかけて「塩硝」(硝石)の成分を培養するといった継続的な生産(培養法)も行われていました。加賀藩ではこれを極秘とし、塩硝を原材料とした黒色火薬の製造を土清水塩硝蔵(現石川県金沢市)で行っていました。
「古土法」は、各藩で行われていたようですが、こうした原始的な方法では、必要時に必要量を確保することは困難で、幕末には、幕府、各藩とも硝石の確保に苦慮していました。こうした状況は、明治時代になって、南米チリから安価な硝石が輸入されるまで続いていたようです。
官営火薬製造所
明治時代新政府は、旧幕府の三田村火薬製造所(現東京都目黒区)、薩摩藩の敷根(現鹿児島県霧島市)・滝之上(現鹿児島県鹿児島市)火薬製造所などを接収して火薬製造を行いましたが、とくに敷根火薬製造所は、イギリス人技師が設計に関わるなど、東洋一の生産量と質を誇っていました。敷根火薬製造所は当初陸軍が、明治5年(1872年)には所管換えで海軍の管理となりましたが、明治10年の西南戦争で焼失してしまいます。
幕末には幕府方でも、欧米各国の技術移転を進めていて、幕府が派遣した留学生の一人、沢太郎左衛門は、ベルギーで火薬製造を学び、水力を動力にして硝石・硫黄・木炭を磨り潰す圧磨機圧輪など一連の製造機械の発注を成功させ帰国しました。機械類も慶応3年(1967年)5月に到着しますが、この時は戊辰戦争のまっただ中で、幕府として新たに火薬製造を行うことは不可能でした。
本格的な西洋式黒色火薬の生産は、明治9年(1876年)、加賀藩下屋敷平尾邸の跡地に建設された陸軍板橋火薬製造所(現東京都板橋区)で開始されました。ここでは、沢太郎左衛門がベルギーから持ち込み戊辰戦争の罹災から免れた機械が使用されました。沢自身は、戊辰戦争時に榎本武揚ともに箱館に向かいましたが、明治5年に特旨を以て放免となり、板橋火薬製造所の立ち上げに関わりました。
海軍も、明治9年から本格的な官営火薬製造所を建設することとし、やはり沢が計画に関わりました。敷根火薬製造所の焼失を受け、明治11年、旧幕府の三田村火薬製造所(現東京都目黒区)をベースに目黒火薬製造所を建設することとなり、翌年に完成。ドイツ人の製造技師に迎えドイツ製の設備を導入して、明治18年(1885年)から操業を開始しました。
目黒火薬製造所は、明治26年(1893年)、海軍省の管理から陸軍の東京砲兵工廠へ移管されましたが、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で罹災。周辺地域の開発が進んでいたこともあり、岩鼻火薬製造所(現群馬県高崎市、群馬の森)に移転・統合しました(移転完了は昭和3年)。岩鼻火薬製造所は、陸軍としては板橋火薬製造所に次いで、明治15年(1882年)から黒色火薬の製造を開始していました。
黒色火薬(有煙)火薬から無煙火薬
明治維新の戊辰戦争の砲は、黒色火薬を発射薬とし、炸薬をもたない前装球弾・旋動長弾を使用していました。日清戦争(明治27~28年(1894~1895年))では、炸薬、発射薬(装薬)とも黒色火薬が使用されていましたが、その後多様化していきます。
黒色火薬は有煙火薬で、発射薬で使用すると多量の煙を発生させます。とくに無風状態だと霧のように停滞して視界を妨げることが問題となっていました。
無煙火薬は、ニトロセルロース、ニトログリセリン、ニトログアニジンを主成分としますが、フランスでは、1884年(明治15年)に「B火薬」が発明されました。日本でも、明治30年ごろから陸軍海軍共同で研究に着手し、陸軍では板橋火薬製造所でいち早く製造を開始して日露戦争に間に合わせました。海軍でも日露戦争の発射薬は無煙でしたが、ほぼすべてをイギリスからの輸入に頼っていました。
明治38年(1905年)、海軍は主に無煙火薬の製造を目的として、イギリスのアームストロング、ノーベル、ヴィッカースの三社と契約を締結しました。これは、日本に火薬製造所を建設しこれを経営すること、製造開始10年後を目処に日本政府が買収することなどを条件とするもので、この契約にもとづき日本爆発物製造会社が設立されました。明治41年(1908年)に平塚工場が稼働を開始、大正8年(1919年)に海軍がこれを買収します。翌年4月に海軍火薬廠として開庁、これが後の第二海軍火薬廠です。
爆薬(炸薬)の開発 下瀬爆薬
爆薬(炸薬)についても開発が進みました。
下瀬(しもせ)爆薬(黄色薬)は、ピクリン酸を主成分とする爆薬です。昭和16年までは「下瀬火薬」と呼ばれていました。
ピクリン酸は欧米列国も注目していましたが、海軍技師の下瀬雅允が列国に先んじて実用化を成功させました。ピクリン酸は非常に過敏で、金属に触れると激しく反応して大量の熱を発します。下瀬は、砲弾(弾体)の内壁に漆を塗り、さらに炸薬を紙筒の中に入れることで、純度の高いピクリン酸を炸薬とすることに成功しました。
明治26年(1893年)に海軍が採用を決定、その製造工場を滝野川(現東京都北区)に建設することとし、明治30年着工、明治33年に開庁しました。海軍下瀬火薬製造所です。この下瀬火薬製造所が、舞鶴の第三火薬廠の前身になります。
日清戦争時には生産体制が整わず、下瀬爆薬を起爆できる信管もなかったため使用されませんでしたが、明治33年に伊集院五郎海軍大佐(当時)が新たに「伊集院信管」を考案。日露戦争(明治37~38年(1904~1905年))では威力を発揮し、日本海海戦の勝因のひとつとされ、列国の注目を集めました。
なお、下瀬爆薬は、一時期を代表する爆薬でしたが、伊集院信管とともに感度が鋭敏すぎるために、砲身内で暴発したり、敵の機銃掃射で誘爆し味方機を巻き込むといった事故が多発したようです。
より鈍感でかつより威力のある爆薬が求められることになりました。また、下瀬爆薬は、空中爆発の威力に対して水中威力が大きくないことも明らかとなり、昭和期にかけて、用途に合わせた多くの爆薬が開発されました。
海軍火薬廠
海軍火薬廠(かやくしょう)は、前述の通り、日本爆発物製造会社の平塚工場を母体として、大正9年(1920年)4月に開庁しました。場所は、現在のJR平塚駅北口、横浜ゴム平塚製造所になります。
初期は5工場に分かれていて、第一工場では無煙火薬、第二工場では綿薬(ニトロセルロース)、第三工場では酸、第四工場では機器、第五工場では爆薬が製造されていました。第五工場は下瀬火薬製造所であり、これだけが東京滝野川にありました。
平塚の火薬廠は火薬製造所であるとともに、新進気鋭の研究者を集めた日本火薬研究の拠点でもありました。
大正10年の組織改正で、火薬廠製造部は火薬部と爆薬部に分離され、下瀬火薬製造所は爆薬部となります。
下瀬火薬製造所は敷地が4万㎡しかなく、周辺に民家が建ち並ぶようになったこと、廃水処理に問題を抱えていたことから、爆発部は、昭和2年(1927年)に舞鶴移転が決定され、昭和4年4月から移転を開始します。舞鶴は、大正12年(1923年)にワシントン海軍軍縮条約の関係で、舞鶴鎮守府が舞鶴要港部に、舞鶴海軍工廠が工作部に格下げとなり、事業規模も縮小していたことから、誘致に積極的だったようです。
昭和期になり、火薬爆薬の需要が増大したことから、昭和14年(1939年)に船岡火薬支廠(現宮城県柴田町)が開庁しました。
船岡支廠開設にともない、平塚の火薬廠は火薬本廠、舞鶴は火薬本廠爆薬部となりました。
さらに、昭和16年にも制度的な改正があり、船岡火薬支廠は「第一海軍火薬廠」、平塚火薬本廠「第二海軍火薬廠」、舞鶴の火薬廠爆薬部は「第三海軍火薬廠」となりました。
第二海軍火薬廠では無煙火薬が、第三海軍火薬廠では爆薬が、第一海軍火薬廠ではその両者が製造されました。
海軍火薬廠爆薬部(第三海軍火薬廠)長浜工場
長浜の海軍火薬廠爆薬部は、昭和4年(1929年)7月に開設され、昭和5年8月に操業を開始しました。
移転先は、舞鶴市(旧中舞鶴町)長浜で、海軍工廠など鎮守府中心部の北側になります。

敷地面積は28万㎡でした。
移転当初の施設は以下の通り。
・下瀬爆薬製造場 1棟
・テトリル製造場 1棟
・爆薬乾燥場 1棟
・硝酸製造場 1棟
・廃酸回収場 1棟
・廃水処理場 1棟
・成形場 3棟
・紙筒薬嚢場 1棟
・検査場 1棟
・火薬庫 4棟
・動力・工作場 1棟
・木工場 1棟
当初製造していた爆薬は、「下瀬爆薬」と「テトリル」でした。
その後、「九一式爆薬」「九四式爆薬」などの採用にともない、それぞれの施設が増築されていきました。
昭和12年(1937年)、日中戦争が勃発すると大増産が計画され、一部の爆薬は日本化成(三菱化成)、三井化学、三菱化成など外部に委託したものの、長浜工場の生産も激増しました。
工場も増築に次ぐ増築で、敷地の平地面積24万㎡に対して、建物数約230棟、建物面積3万8千万㎡が建ち並びました。工場内の滞薬量も安全基準をはるかに超過して1千トンを超え、海軍工廠軍需部の雁又火薬庫など隣接施設に対しても保安上極めて危険な状態となりました。
昭和14年3月に大阪府枚方町の陸軍火薬庫で大爆発があったこともあり、長浜工場の移転が急ピッチで進められることになりました。その移転先が、旧朝来(あせく)村(現舞鶴市)です。
第三海軍火薬廠、続きます。
参考文献・webサイトは、「舞鶴要塞・舞鶴鎮守府投稿一覧」にまとめてあります。
2023年3月、2023年11月、2024年3月現地、2026年1月13日投稿。
