舞鶴要塞・舞鶴鎮守府 (9)
朝来工場概要と第一製造部

海軍火薬廠爆薬部(第三海軍火薬廠)朝来工場への移転
日中戦争開始後の大増産によって、長浜工場は保安上も危険になり、工場の移転が急速に進められました。
移転先は、旧朝来(あせく)村(現舞鶴市)大波、朝来中、吉野、岡安、白屋、長内地区です。朝来川が流れる通称朝来谷で、用地面積は最終的に615ヘクタール(615万㎡)、旧朝来村の約45%が海軍用地となりました。山間部も含みますが、長浜工場用地のなんと22倍の面積です。これによって、施設の分散化を図りました。
昭和14年(1939年)11月には、谷奥の岡安(現青葉山ろく公園付近)、白屋(現舞鶴高専付近)、長内地区から買収が始まり、昭和15年12月以降順次工事が開始されたようです。
朝来工場建設費は約3,200万円で、内土地買収費は約600万円でした。それが適正額かどうかは不明。大正9年(1927年)測図(毛利聡・牧野雅司・番場豊 2022年)を見ると、平地のほとんどは水田で民家はそれほど多くはありませんが、岡安、白屋、長内地区の移転対象は47戸、2社、1寺でした。買収説明会では海軍将校が質問者を恫喝するなど強引な買収と集団移住が行われたようです。
爆弾の緊急増産の要求から、昭和16年6月にまず爆薬用炸薬の成形場、管帽薬(信管用伝爆薬)の圧搾成形場が稼働を開始し、次いで昭和17年には水雷炸薬成形場、弾丸(砲弾)炸薬成形場などの工場が相次いで完成しました。
この段階では、長浜工場と併存していましたが、造船・兵器生産を行っていた舞鶴海軍工廠も拡張の必要が生じ、長浜工場の敷地を使用することになりました。
このため、新たに海岸側の大波(おおば)地区の買収が行われ、長浜工場に残されていた製薬(爆薬製造)工場の移転が進められました。移転が完了したのは昭和19年4月になってからのことでした。

カシミール3Dから作成。

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスから。1947年11月3日アメリカ軍撮影。
なお、昭和16年に制度的な改正があり、船岡火薬支廠(現宮城県柴田町)が「第一海軍火薬廠」、平塚火薬本廠(現神奈川県平塚市)が「第二海軍火薬廠」、舞鶴の火薬廠爆薬部は「第三海軍火薬廠」となりました。これは、舞鶴要港部に降格していた舞鶴鎮守府が、昭和15年に再度鎮守府に昇格したことにともなうもので、各火薬廠はそれぞれ独立し、第三海軍火薬廠は舞鶴鎮守府管下に入りました。
第三海軍火薬廠朝来工場
第三海軍火薬廠になった当時の組織は、総務部、製造部、会計部、医務部でしたが、大波地区の製薬(爆薬製造)工場の稼働開始を受け、製造部は、大波地区の製薬関係が「第一製造部」、白屋・長内地区の炸薬製造、爆薬乾燥関係が「第二製造部」となりました。
昭和16年段階(大波地区第一製造部稼働前)は、職員約50名、男工員約1,200名、女工員約450名でしたが、昭和20年8月の終戦時には、職員164名(内技術系60名)、男工員2,515名、女工員1,076名、学徒1,209名の合計約5,000名が働いていました。
製造していた爆薬は以下の通り。ただし、大波地区第一製造部稼働前の製造は長浜工場です。
| 昭和16年 | 昭和17年 | 昭和18年 | 昭和19年 | 昭和20年 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 下瀬爆薬(PA) | - | 202 | 602 | 834 | 53 |
| 九一式爆薬(TNA) | 2,000 | 2,100 | 2,100 | 1,638 | 427 |
| ヘキシル | 1.201 | 1,350 | 596 | 541 | 141 |
| 合計 | 3,201 | 3,652 | 3,298 | 3,013 | 621 |
(千藤三千造 1967年)表9 から。
これ以外の九二式爆薬(TNT)、一式爆薬(TNT)、八八式爆薬、および下瀬爆薬、九一式爆薬についても、増産対策として三井化学、三菱化成、昭和火薬、関東電工などから購入していました。民間からの購入量は、自前生産の倍以上で、粗製薬のまま納品させ、舞鶴で精製作業を行うこともあったようです。
なお、施設配置図(図4)には、テリトル製造場があります。(表1)は製造爆薬のすべてではなさそうです。
兵器別の炸薬製造量(比率)は以下の通り、
| 昭和17年(%) | 昭和18年(%) | |
|---|---|---|
| 爆弾関係 | 62 | 54 |
| 魚雷関係 | 8 | 8 |
| 機雷爆雷関係 | 25 | 33 |
| 弾丸関係 | 5 | 5 |
(千藤三千造 1967年)p.74 から。
弾丸(砲弾)が意外なほど少なく、昭和18年ごろまでは爆弾が過半数を占めていました。しかし、その後の戦局の悪化によって高角砲弾や機銃弾などの防御兵器に対する要求が急増したようです。
終戦後に残置され、引渡目録(※)にあるものは、十二糎七高角砲、十二糎高角砲、八糎高角砲弾丸がほとんどで、九一式航空魚雷が若干量、他に陸軍が使用していたはずの八九式重擲弾筒(軽迫撃砲(発射器))の弾丸などがありました。これが実態だとすると、終戦時には(表2)とは様変わりしていたことになります。
※『現場還納目録(兵器及爆薬)』第三海軍火薬廠引渡目録 明治20年9月1日 (防衛省防衛研究所)(Ref. C08011034200 アジア歴史資料センター)
爆薬製造を行っていた第三海軍火薬廠朝来工場や、船岡(宮城県柴田町)の第一海軍火薬廠第二製造部の製造量は、昭和18年ごろ次第に減少していったようです。それでも、終戦時に5,000名もが働いていたのでしょうか。何か動員そのものに精神論的な意図を感じてしまうのですが。
施設配置図について
施設配置図については、終戦後の引渡目録(※)の中にあり、国立公文書館アジア歴史資料センターのWebサイトで閲覧、ダウンロードが可能です(図2)。
(図3)は(図2)をトレースしたもののようです(毛利聡・牧野雅司・番場豊 2022年)。
※『施設ノ部』第三海軍火薬廠引渡目録 明治20年9月1日 (防衛省防衛研究所)(Ref. C08011034100 アジア歴史資料センター)

『施設ノ部』第三海軍火薬廠引渡目録掲載図。

(毛利聡・牧野雅司・番場豊 2022年)掲載図。

(千藤三千造1967年)掲載図。

(千藤三千造1967年)掲載図。
(図4・5)は『日本火薬史』掲載図です(千藤三千造 1967年)。
他に、関本長三郎氏の『住民目線で記した旧日本海軍第三火薬廠』(関本 2005年)にも施設配置図が掲載されています。自費出版で「無断転載禁止」と書かれているので、今回掲載はしません。興味のある方は、舞鶴市の図書館か、国立国会図書館で同書のpp.215-217を複写依頼してください。国立国会図書館は郵送もしてくれます。
これらのうち、引渡目録添付図が公的な資料になりますが、施設名がほとんど判読できません(図2)。また、一部読める名称も、添付されている施設一覧表と合致しておらず、一覧表No.と添付図No.も対応していません。舞鶴高専の(牧野雅司・毛利聡・今村友里子・朝倉槙人2022年)には、上記(図3)とは別の再トレース図があり、原図を確認しているのか施設名称も付されているのですが、舞鶴高専周辺部分しか掲載されていません。
(関本 2005年)掲載図も、印刷時の問題か、複写時の問題か、施設名が読めない部分がかなりあります。
さらに、引渡目録図、(千藤 1967年)掲載図、(関本 2005年)掲載図は三者三様で、施設名称が一致せず、性格が明らかに異なりそうな場合もけっこうあります。
施設の用途そのものが実際に変更された可能性もありますが、正直なところ、深追いしようとすると大混乱です。
一応、現況配置図を自作したので、次回掲載します。
工場内の工程的なところも、次回以降投稿しますが、以上のように、不確実な部分がかなりあることはご承知おき下さい。
朝来工場第一製造部
第三海軍火薬廠の遺跡の中心は第二製造部で、これについては、次回から紹介します。
第一製造部があった大波地区は、ほとんどが現在日本板硝子株式会社舞鶴事業所となっていて、敷地内には当時の遺構は存在しないと思われます。ただ、その南側朝来川左岸の山際にいくつかの施設が残っています(写真6)。




(右)日本板硝子工場。道路との間に朝来川。(左) 溶融回収場など。

舞鶴市都市計画図を使用しました。
この地区ついては、Webサイト「BESANの歴史探訪」を参考にしました。ただ、酷い藪で写真以上の建物などは確認できませんでした。また、BESANさんが紹介されている官舎の少なくとも一部は、2024年3月時点で取り壊されていたと思います。
第三海軍火薬廠、続きます。
参考文献・webサイトは、「舞鶴要塞・舞鶴鎮守府投稿一覧」にまとめてあります。
2023年3月、2023年11月、2024年3月現地、2026年1月14日投稿。
