舞鶴要塞・舞鶴鎮守府 (11)
砲熕谷第22工場 砲炸薬成形工場・爆薬庫

現地の紹介です。このサイト、写真をできるだけ多数掲載したいのですが、Webページの表示速度について、Googleさんから低評価を受けています(T-T)
とりあえず、画像をwebp形式に変更して、今回通常以上の写真を掲載してみましたがどうなりますか。
砲熕谷(第22工場)
砲熕谷(ほこだに)第22工場です。現状の火薬廠跡の中心的なエリアです。
「砲炸薬(鋳造)成形工場」が南北2区画と、その北側に「粉薬一時置場」と「爆薬庫」があります。
不慮の爆発による被害の拡大(誘爆)を防ぐために、それぞれの区画は土塁(A~D)によって区切られています(写真3)。

背景図は、左側が舞鶴市都市計画図、右側が国土地理院図を使用。

砲炸薬成形工場
砲炸薬(鋳造)成形工場は、砲(弾丸/砲弾)の炸薬(さくやく)を製造していたと推定されます。
南北2区画に分かれていて、建物の形態、規模、配置は、次回紹介する空水谷(くすだに)の空水炸薬成形工場とほぼ同じです。


南北区とも、建物群は、中央棟の長軸に対して左右(東西)対称形になっています。
中央棟も実際には東西に分かれていて、中央にダクトなどの配管が通っています(写真4)。
火薬廠では、爆発事故を極力防ぐために、動力や熱源に電気やエンジンを極力使わず、ボイラーによる蒸気を使用していたようで、ダクトはそのためのものです。ボイラー室である気缶場は、舞鶴高専と残土置場になっている場所にありました。高煙突が特徴的な建物だったようです。

中央棟・付属棟のコンクリート壁は、東棟は東側が、西棟は西側が開口していて、開口部は当時木製の壁(扉)とガラス(高窓)でした(写真5・6)。中央棟の中央、ダクトのある部分は、両側がコンクリ-トの壁で連絡通路はありません。
これは、爆発が発生してしまった場合、爆風を一方(外側)に抜けるようにしたもので、被害を抑えるための工夫です。
南区中央棟北端、北区中央棟南北端は、ひれ状に壁が張り出していますが、これも防爆壁です(写真14(C)・15(C))。それだけ危険な作業が行われていたということでしょう。
舞鶴高専が建物の復元3D動画を製作しています。これは砲熕谷南区ないし空水谷西区の中央棟・付属棟で、軒先など木造部分まで復元されています。


(奥)付属西南棟。




(写真11)は消火栓です。枠内写真では「消火栓」銘と上に海軍章が見えます。
南北区中央棟南側には洗い場もあり(写真12)、水道施設は完備されていました。地下に構造物として残っているのでしょう。

(枠内)海軍章と「消火栓」銘。

(A)南区中央棟南面、(B)(C)北区中央棟南面。(B)(C)は水道管が見えます。


(A)中央東棟(左)・付属東棟南面、(B)中央棟南面、(C)中央東棟南面防爆壁。

(A)中央西棟(左)・付属西棟、(B)中央西棟工房群、(C)中央西棟南面防爆壁。

建物内部は、南区中央棟の南側が大部屋になっていますが(写真5・6・9)、それ以外は小部屋に分かれていて、そのひとつひとつが工房になります。ここで溶解薬を鋳型に鋳入みしていたのだと思います。
中央棟(写真16)と付属棟(写真17)では、床構造などが違います。ただ、こうした特徴が中央棟と付属棟の違いなのか、さらに細かい種別があるのか、そこまで丹念に写真を撮ってきませんでした。
(写真16(A))では、中央奧には台石が、正面壁には鉄管が残っています。鉄管はダクト側につながっているのですが、中央東西棟の間には、何本かの配管があります。ダクトからの蒸気なのか、それとも溶解薬の取り出し栓なのか、配管の接続もよく見てこなかったので分かりません。
炸薬成形では、爆薬の溶解器と鋳型などの型類が主要設備になりますが、溶解器はどこにあったのかが分かりません。(関本長三郎 2005年)によると、5トン仕込みのアルミニウム製の円筒形鍋を使用していたとの記録もあり、そうなるとそれなりの規模の施設になるはずなのですが。それとも、各工房で溶解から行っていたのか。
(写真17)の付属棟には鉄管はありません。
(写真16(C))は、タール状の樹脂系塗料で、各部屋とも壁の下側に厚く塗られています。
(写真17(B)(C))は木型でしょうか。

粉薬一時置場
「粉薬一時置場」(写真18)の施設名称は(関本長三郎 2005年)によります。
第三海軍火薬廠は、戦後アメリカ駐留軍が接収し、1950年(昭和25年)から1960年までアメリカ軍が一部施設を爆薬置場に使用し、その後、1966年までそれを陸上自衛隊が引き継いでいます。No.「394」はその時のもののようです。

爆薬庫
「爆薬庫」(写真19~22)は砲熕谷最深部の施設です。No.「392」のペイントがあります。
手前の土塁は隧道(トンネル)式です。
この施設は、窓も少なく、扉・窓はすべて鉄製でまさに爆薬庫です。
外壁には迷彩塗装の痕跡が残っています。
現状内部は完全に水没していますが、当時はさすがに排水施設が機能していたのでしょう。



(A)南面、(B)西面。壁面に迷彩塗装の痕跡が残る。

撮影位置はこちら です。
第三海軍火薬廠の現状
今回掲載の写真、動画は、2023年3月の撮影ですが、その後に砲熕谷エリア全体の草刈り、伐木が行われていて、見学がしやすい状況になっているようです。私は、2023年11月、2024年3月にもこの周辺を歩いているのですが、この地区には行かなかったので気付きませんでした。どうも地元のNPO法人さんが活用に向けて活動されているようです。
戦後の第三海軍火薬廠跡地利用は、1952年に第一製造部跡で日本板硝子舞鶴事業所が操業を開始し、1965年には、第二製造部跡で国立舞鶴工業高等専門学校校舎が竣工しています。1981年には、第二製造部空水谷周辺で青葉山ろく公園が開設されました。
日本板硝子工場や舞鶴高専については、戦後の旧日本軍用地の跡地利用としてはよくあることだと思うのですが、近年、各地で戦争遺跡が認知されるようになってきているのにもかかわらず、2018年になって、舞鶴市は、舞鶴高専東側を産業廃棄物最終処分場拡張工事で生じた残土の置場として認可してしまいました(図1)。今後を考えると悪手中の悪手です。
舞鶴高専の先生方の問い合わせに対して、市は「この場所には第三海軍火薬の建造物は存在せず、遺跡として認識していない」との解答だったようです(牧野雅司・毛利聡・今村友里子・朝倉槙人 2022年)。実際にこの通りの解答だったとすると、その場しのぎの詭弁ともいえるような内容で、「建造物が存在しない」⇒「遺跡として認識していない」では全国の遺跡(埋蔵文化財包蔵地)の全否定です。(牧野・毛利・今村・朝倉 2022年)でも述べられていますが、舞鶴高専では、実際に発掘調査を行い、気缶場の基礎など地下構造物の存在を確認しています(毛利聡・牧野雅司・今村友里子 2019年)。
「建造物」=「遺跡」もおかしな話で、「建造物」については、埋蔵文化財包蔵地と違って、国・県・市町村いずれかの史跡指定がなければ行政的な意味での「文化財」として保護対象にはならないはずです。
いずれにしても、現状の第三海軍火薬廠は、遺跡(埋蔵文化財包蔵地)でも史跡でもありません。
火薬廠跡は、建設残土の用地としてはうってつけの谷地形であり、市が先鞭をつけてしまった以上、周囲に新たな建設残土の処分場が計画されても行政として拒否する手立てはないという状態だと思います。全域が公有地であることを願うばかりです。
なお、青葉山ろく公園周辺は、2010年ごろに、京都府の新サッカースタジアム計画(現亀岡市サンガスタジアム by KYOCERA)の候補地の一つにもなったようです。火薬廠との位置関係は確認できませんでしたが、まさか。。。
ここ最近、舞鶴では蛇島ガソリン庫や東山防空指揮所などの戦争遺跡がマスコミで取り上げられていますが、これらの活用、発信は市の観光振興課や観光協会が行っています。第三海軍火薬廠の研究や発信も、民間の関本長三郎さんや舞鶴工業高等専門学校の先生方に委ねられているような状態です。例えば、こちら。
一方、文化財部局は。
2016年には、旧軍港市4市(横須賀市・呉市・佐世保市・舞鶴市)共同による「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」が日本遺産に認定され、舞鶴市内では 34 件を構成文化財に認定していますが、第三海軍火薬廠は含まれていません。
舞鶴市発行の『舞鶴の近代化遺産』2001年刊にも記載がありません(舞鶴市 200年)。
市の基本計画である令和3年(2021年)3月策定の「舞鶴市文化財保存活用地域計画」でも、火薬廠は完無視です。これには少々驚きましたが、ある意味、市(文化財部局)の立場は一貫しています。
舞鶴市には、その歴史的背景から近代の遺跡、遺構が数多く残されていて、それをすべて保存・保護していくことは不可能だとは思いますし、おそらく「負債」でしかないといったイメージがまだ市内部にあるのかもしれません。ただ、市の発展=開発 といった時代は終わり、20~30年前に比べると遺跡を瑕疵とする開発圧力は圧倒的に弱くなっていると思います。いまさら都市的な利便性を追求しても大都市圏とは勝負になりません。
舞鶴市もご多分に漏れず人口減少が続いているようです。交流人口、回遊人口から定住人口をどうやって獲得していくか、そのために、他市との差別化を図りアイデンティティをいかに構築していくかを各市町村それぞれ思案しているのが現状だと思います。
そういった意味では、舞鶴市は圧倒的な資産をもっていると思うのですが。
第三海軍火薬廠を取り上げた、産経新聞 産経WESTの2025年5月3日付けの記事によると、舞鶴市は2025年度に、市内にある戦争遺跡を含む近代化遺産をデータベース化し、次世代への継承を模索する「近代化遺産保存センター」を設置するとのこと。
現時点で、市のWebサイトで「近代化遺産保存センター」を検索してもヒットしませんが、市内に多く現存する貴重な近代化遺産を次世代へ継承するため、市では「舞鶴市近代化遺産保存審議会」(条例施行令和6年4月1日)を設置し、「舞鶴市近代化遺産保存計画」の策定等に向けて審議するとの記事がありました。委員には、舞鶴高専の毛利聡氏の名前もあります。
内容的には、まずデータベースをつくるとのことのようです。
令和3年(2021年)3月策定の「舞鶴市文化財保存活用地域計画」との整合性はとれるのか、手順前後ではないかなど、他人事とはいえ心配にはなりますが。
近年は、愛知県豊川市の豊川海軍工廠平和公園など、戦争遺跡の史跡整備が各地で進められていますが、豊川海軍工廠あたりと比べて、第三海軍火薬廠の存在感は圧倒的です。
そもそも、全国で三か所しかなく、その中でも遺構が最も遺存している第三海軍火薬廠は、少なくとも、国と時代を代表する、といった部分では、国史跡であっても不思議ではないと思います。
隣接地には活動拠点になりそうな青葉山ろく公園もあります。赤レンガパークのような着飾った姿だけではなく、生に近い戦争遺跡を発信するのも悪くないと思います。別段、急いで史跡公園化する必要はないと思いますが、残土処分場や落書きのようなこれ以上の破壊は防がなければなりません。
当時の従事者から聞き取り調査を行うにはリミットが近づいています。少しでも前進することを願っています。
第三海軍火薬廠、続きます。
参考文献・webサイトは、「舞鶴要塞・舞鶴鎮守府投稿一覧」にまとめてあります。
2023年3月、2023年11月、2024年3月現地、2026年1月25日投稿。
