舞鶴要塞・舞鶴鎮守府 (16)
乾燥谷の爆薬乾燥場 (2)
乾燥谷(第25工場)
京都府舞鶴市(旧朝来村)第三海軍火薬廠朝来工場第二製造部、乾燥谷(第25工場)の爆薬乾燥場の紹介です。朝来谷最深部にあり、通称乾燥谷、長内谷とも呼ばれていたようです。
爆薬乾燥関連施設3区画と倉庫等1区画の計4区画があり、ここでは、乾燥谷1~4区と呼んでいます(図2)。今回は、乾燥谷3・4区の紹介です。

背景図は、国土地理院図(カシミール3D)を使用。

背景図は、国土地理院図(カシミール3D)を使用。

『施設ノ部』第三海軍火薬廠引渡目録掲載図、 昭和20年9月1日 (防衛省防衛研究所)(Ref. C08011034100 アジア歴史資料センター)
爆薬乾燥関連3区画(2~4区)は、基本的に同じ施設構成であったと推定されます。しかし、3・4区については、昭和28年(1953年)の台風13号にともなう土石流やその後の砂防工事のよるものか、埋没したり削平されてしまった施設が多いようです。施設内容については、前回投稿した2区の説明を参照してください。
第三海軍火薬廠は、今回が最終回になります。
乾燥谷3区
乾燥爆薬置場周辺
(写真1)は、防火用と推定される水槽と、奥に「乾燥爆薬置場」と土塁が見えます。
乾燥爆薬置場の土塁は現状南北方向の1本のみ(図2模式図、土塁a)ですが、引渡目録添付図面(※)(図3)によると、2区同様の、コ字を組み合わせたような土塁区画A~C区があったと推定されます。
1975年12月3日撮影の空中写真では、(図2模式図)A・B区2棟の乾燥爆薬置場は確認できますが、乾燥谷2・4区と見比べると土塁区画ははっきりしません。1975年以前に削平された可能性がありそうです。
いずれにしても、現存乾燥爆薬置場の東側には空白地が広がっていることから、ここに乾燥谷2区と同じように乾燥爆薬置場(土塁)があったことは間違いないと思います。削平された時期は不明。アメリカ進駐軍・陸上自衛隊時代(1950~1966年)の土地利用か、砂防工事(施工時期不明)のタイミングか。

(手前)水槽、(奥)乾燥爆薬置場と土塁。



(A)北側水路(暗渠)、(B)(C)乾燥爆薬置場内部。
(写真2~4)は、(図2模式図)B区の乾燥爆薬置場です。乾燥爆薬置場を爆薬庫のイメージで捉えると、窓も大きく印象が異なります。内部の仕切り壁も意味不明です。床は、板材にコンクリートを薄く敷いたのかブカブカしていました。
(写真4(A))は、北斜面側の溝ですが、建物部分は暗渠になります。
外壁のNo.「444」は、戦後のアメリカ進駐軍ないし陸上自衛隊時代のもののようです。
乾燥爆薬置場周辺
(写真5~9)は「爆薬乾燥場」、(写真10・11)は爆薬乾燥場付属建物です。規模・構造は2区と同じです。

(A)南壁、(B)(C)南西隅部出入口付近。

南東隅部出入口付近。

(A)東壁、(B)(C)南東隅部出入口付近。


天井部にダクトと天窓、床に排水溝。


乾燥谷4区
乾燥爆薬置場周辺
(写真12・13)は4区の「乾燥爆薬置場」防爆土塁です。コ字を組み合わせたような土塁区画がほぼ残存していますが、(図2)模式図の土塁fのあたりが削られて、内部の建物は残っていません。
(写真14(A))は、各区にあるは防火用と推定される水槽です。
(写真14(B))は、乾燥爆薬置場土塁b南側にある不明構造物の基礎です。長さ3~4mぐらいだったと思います。
(写真14(C))は、用地を南北に横切る暗渠の崩壊部です。土管が使用されています。常滑製でしょうか。


(A)(右)土塁a、(左)3区爆薬乾燥場付属建物、(B)3区爆薬乾燥場周辺、土塁a上から。

(A)水槽、(B)不明基礎、(C)暗渠崩壊部、常滑?土管。
爆薬乾燥場周辺
(写真15~20)は「爆薬乾燥場」です。構造的には2・3区と同じです。前回投稿を参照してください。
ただ、(写真19(A))の鉄板戸(扉)はここにしか残っていません。内部についても構造は他区と同じですが、(写真20(A))は爆薬の乾燥棚でしょうか、他区爆薬乾燥場にはありませんでした。
この周辺は上流からの土石流の影響が顕著で、周辺施設は確認できません。(写真19(B))は爆薬乾燥場北東部出入口ですが、ほぼ埋没しています。

南西隅部出入口付近。

南西隅部出入口付近。

南東隅部出入口付近。

東壁。

(A)(B) 北東隅部出入口付近、窓に鉄板戸(扉)、(C)南壁。

(A)爆薬乾燥棚か、(B)ダクト、天窓、(C)排水溝。

(写真21)は、「湿薬置場」ですが、天井近くまで埋没しています。
このすぐ上流に砂防ダムが築かれていました。
乾燥谷4区は、第三海軍火薬廠朝来工場最深部です。ただ、動画を見てもらうと分かりますが、用地南側の幹道はさらに東側へ延びていました。どこに通じているのか興味がありましたが、確認していません。
撮影位置はこちら です。
※『施設ノ部』第三海軍火薬廠引渡目録 昭和20年9月1日 (防衛省防衛研究所)(Ref. C08011034100 アジア歴史資料センター)
参考文献・webサイトは、「舞鶴要塞・舞鶴鎮守府投稿一覧」にまとめてあります。
第三海軍火薬廠、今回で終了します。
全国に3か所しかない海軍火薬廠ですが、こうした遺構が残っているのはここ舞鶴だけです。
第二海軍火薬廠のある神奈川県平塚市では、海軍火薬廠以外にも横須賀海軍工廠造機部平塚分工場、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場、日本国際航空工業などの軍需工場が数多く存在していたこともあり、昭和20年(1945年)7月16日を中心に大規模な空襲被害に遭い、市域全戸の約80%が焼失し、第二海軍火薬廠は壊滅しました。
舞鶴でも、同年7月29日に、舞鶴(東)軍港の舞鶴海軍工廠を標的として1万ポンド(4.5トン)の超大型爆弾が投下され、海軍工廠第一造兵部水雷工場付近に落下。工場で作業していた工員、女子学生、師範学校生徒など97名が死亡しました。翌日には、紀伊半島沖に接近した米海軍第三十八機動部隊の空母レキシントンなどから出撃した戦闘機、爆撃機など約200機が、舞鶴軍港を中心に宮津湾、小浜湾などを攻撃し、ここでも多数の死者がでています。
1万ポンド爆弾は、原爆を目標に正確に投下するための訓練だったとことがアメリカ軍資料によって明らかになっているようです(池田一郎・鈴木哲也 1996年)。
第三海軍火薬廠については、7月30日に空襲を受けていますが、新たな工場施設ということでアメリカ軍側に認知されていなかったためか、大きな被害にはならなかったようで、多くの遺構が現在まで残されることになりました。
そうはいっても、爆薬製造そのもので、皮膚がただれ、身の毛が黄色に変色するなどの被害が多発していたようです。
悲惨に戦争を将来に伝える貴重な歴史遺産として、恒久的に保存・活用されることを期待します。
2023年3月、2023年11月、2024年3月現地、2026年2月21日投稿。
