東京湾要塞前史

 

東京湾要塞は、陸軍が統括する砲台群です。敵艦の東京湾侵入を阻止し、帝都および横須賀軍港防衛を担いました。
まずは、明治時代に築かれた東京湾要塞の「海堡」(かいほう)についてまとめてみます。
「海堡」とは海上の人工島に築かれた砲台です。

第一海堡
【第一海堡】千葉県富津市
富津岬から見た第一海堡です。
東京湾要塞
【東京湾要塞主要図
三笠ターミナル/猿島ビジターセンター(横須賀市小川町)の展示パネルに加筆しました。

江戸時代の砲台(台場)

東京湾(江戸湾)の海防は、江戸時代に始まります。
寛政期(1789年~)以降、相次ぐ外国船の来航に危機意識をもった幕府は海防強化に本腰を入れ、文化5年(1808年)以降、江戸湾周辺については会津藩・白河藩など大藩に命じて、台場(砲台)と拠点となる海防陣屋を設営させました。
この段階から観音崎-富津岬間は最重要防備ライン(打ち沈め線)として認識されていたようです。

竹ヶ岡台場

竹ヶ岡(竹岡)台場(百首台場/平夷山台場) (千葉県富津市造海)は、富津台場(富津市、消滅)、州崎台場(館山市、痕跡程度)とともに、房総半島ではもっとも古い台場のひとつです。
城好きさんには有名な造海城(つくろうみじょう)内にあります。

竹ヶ岡台場図
【竹ヶ岡台場地形図
地形図はカシミール3Dで作成しました。絵図は館山市立博物館『幕末の東京湾警備』2013年、からお借りしました。なお、竹ヶ岡陣屋は、旧竹岡小学校の敷地になっています。遺構は残っていないようです。
造海城横堀
【造海城
岩盤横堀です。
竹ヶ岡台場上砲台
【竹ヶ岡台場 平夷山砲台】
造海城の曲輪を利用して築かれています。
竹ヶ岡台場下砲台
竹ヶ岡台場 十二天の鼻砲台】

竹ヶ岡台場・陣屋は文化8年(1811年)に完成し、安政6年(1862年)までの間、白河藩、幕府代官、忍藩、会津藩、岡山藩が警備を担当しました。
山頂付近に監視所(遠見番所)、砲台は山麓の東側(十二天の鼻砲台)、西側(石津浜砲台)と城域南西中段の3か所に設置されました。南西中段については、小高春雄さんの『房総里見氏の城郭と合戦』では「平夷山砲台」と図に注記されています。
十二天の鼻砲台と平夷山砲台には砲座前の土塁(土まんじゅう)がよく残っています。石津浜砲台は何も残っていないと思っていたのですが、どうも絵図にある石垣の一部が残っているようです。

延命寺
【延命寺墓所

造海城山麓の延命寺には任期中に没した藩士(一族)の墓があります。
会津藩だけではなく、左側は白河藩と岡山藩です。
○○母、○○妻といった刻字があることから、一族で赴任してきたようです。

竹ヶ岡台場、造海城、延命寺は、映えスポットで有名な、東善寺燈籠坂大師堂の駐車場を利用させてもらいました。

海上台場

江戸幕府は1825年(文政8年)に異国船打払令を発しますが、外国船の出没が頻繁になるなか、沿岸警備は明らかに不十分でした。
天保8年(1837年)のアメリカ船モリソン号浦賀沖来航を契機とした幕府内での検討では、伊豆韮山の幕府代官の江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)らが、江戸湾の海防のためには、富津岬先端に「海上台場」を設けることが必須であることを提言しています。
あまり知られていませんが、江川は当時幕府内の海防の第一人者で、数々の建議書を幕府に提出しています。
「海上台場」が現実化したのは嘉永6年(1853年)のアメリカ東インド艦隊司令官ペリー艦隊が来航後です。強大なペリー艦隊、そして、艦隊が「打ち沈め線」である観音崎-富津岬間の防備ラインをやすやすと突破して品川沖にまで侵入した事実は幕府を震撼させました。
幕府はすぐさま江川に江戸湾の海防を命じ、この段階で「海上台場」(洋式海上砲台)が具体化することになりました。
ただし、当時の大砲の有効射程距離、海上台場の築造技術、そして幕府の財政からみて、観音崎-富津岬間を防衛ラインとすることは実現困難であったことから、海上台場の設置は、現実的な選択として江戸の最終防衛ラインとなる品川沖としました。
これが品川台場(品海砲台)(東京都港区)です。

品川第三台場
【品川台場 第三台場
台場公園として整備されています。第三台場・第六台場は国指定史跡で、続日本100名城です。石垣の天端が武者返しである「刎(は)ね出し」です。

11基ないし12基の台場が計画され、およそ8か月にわたる工期で翌嘉永7年(1854年)に一部が完成しましたが、ペリーの2度目の来航には間に合いませんでした。
最終的に第七台場まで築かれましたが、完成したのは第一・第二・第三・第五・第六でした。

品川第三台場
【品川台場 第三台場
レインボーブリッジ遊歩道(レインボープロムナード)から撮っています。第三台場はド逆光でまともな全景写真が撮れませんでした。
品川第六台場
【品川台場 第六台場
第六台場は立ち入り禁止です。

都立台場公園(第三台場)とレインボーブリッジ遊歩道(レインボープロムナード)は、隣接地に駐車場があります。駐車場は有料です。
台場公園、レインボープロムナードは無料ですが、レインボープロムナードの開放時間は9時~21時(11月~3月は10時~18時)です。

星形(稜堡式)要塞と多角形要塞

幕末の品川台場や五稜郭(北海道函館市)は、「稜堡式(りょうほしき)」などと呼ばれている洋式要塞です。
火砲による攻撃に対して、標的となり、かつ守備側からの砲射の邪魔にもなる城壁(高石垣)をやめ、全体が低重心で砲弾の衝撃を吸収しやすい幅広の土塁を築いています。
武者返しである「刎(は)ね出し」の付く石垣を含め、この時期の台場と五稜郭などの城郭には共通する特徴があります。
ただし、全体の形状は、五稜郭などの「星形(稜堡式)」に対して幕末の台場の多くは「多角形」です。
星形要塞の角部(稜堡)は、あくまでも小銃で要塞を防御する際に、死角を無くすための形状で、銃撃戦ではなく砲撃戦が予測される台場では不必要な形状でした。
日本では、五稜郭や龍岡城(長野県佐久市)などの「城郭」は星形、鳥取藩由良台場(鳥取県北栄町)など「台場」は多角形ですが、天保山台場(大阪府大阪市)のように、台場でも星形のものもあります。

ただ、低重心で幅広の石垣(土塁)も、水平方向に撃つ「直射砲」を想定したもので、弾丸が放物線軌道を描いてより遠距離の目標を攻撃する「曲射砲」に対しては無意味でした。
星形要塞は、15世紀に考案されたもので、幕末の頃、ヨーロッパでは要塞そのものがすでに過去のものになりつつあったようです。

なお、星形・多角形を合わせて「稜堡式」と呼ぶ場合もあります。

戸切地陣屋
【松前藩戸切地陣屋(北海道北斗市)
安政2年(1855年)に松前藩によって築かれた日本で最初の西洋式星形城郭です。
戸切地陣屋
【松前藩戸切地陣屋

参考文献
・陸軍築城部『現代本邦築城史』1943年
・浄法寺朝美『日本築城史』原書房 1971年
・『日本の要塞 忘れられた帝国の城塞』歴史群像シリーズ 学習研究社 2004年
・千葉県教育財団文化財センター「房総における近世陣屋」『研究紀要』第28号 2013年
・館山市立博物館『幕末の東京湾警備』2013年
・国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所『富津市富津第⼆海堡跡調査報告書』2014年
・小高春雄『房総里見氏の城郭と合戦』戎光祥出版 2018年
・NPO法人アクションおっぱま/おっぱまはっけん倶楽部『東京湾第三海堡物語』 2019年
・佐山二郎『日本陸軍の火砲 要塞砲』光人社NF文庫 2011年
・佐山二郎『要塞史』光人社NF文庫 2023年
・国土交通省貫地宇地方整備局東京湾口航路事務所 Webサイト
・東京湾海堡ツーズム機構 Webサイト「東京湾の要塞〜第二海堡〜」
・デビット佐藤webサイト「東京湾要塞 神奈川、千葉、東京の戦争遺跡」

今回のシリーズ全体の参考文献です。
『現代本邦築城史』と『日本築城史』は、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能です。
『富津市富津第⼆海堡跡調査報告書』は、国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所webサイトで一部が公開されています。

東京湾要塞(2)につづきます。


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