第一海堡

 

東京湾要塞 series 1 (2)
富津岬展望台
【第一海堡】千葉県富津市
富津岬から見た第一海堡と富津公園明治百年記念展望です
海堡略史
慶応3年(1868年)明治維新
明治10年(1877年)西南戦争
明治13年(1880年)観音崎砲台起工
明治14年(1881年)第一海堡 起工
明治22年(1889年)第二海堡 起工
明治23年(1890年)第一海堡 竣工
明治25年(1892年)第三海堡 起工
明治27年(1894年)陸軍 臨時東京湾守備隊司令部開設
明治27年(1894年)日清戦争開戦 明治28年(1895年)まで
明治28年(1895年)陸軍 東京湾要塞司令部発足
明治37年(1904年)日露戦争開戦 明治38年(1905年)まで
大正3年(1914年)第二海堡 竣工
大正3年(1914年)日独戦争開戦 大正7年(1918年)まで
大正10年(1921年)第三海堡 竣工
大正12年(1923年)関東大震災
大正14年(1925年)第三海堡 除籍
昭和2年(1927年)第二海堡 除籍 ( → 海軍へ)
昭和12年(1937年)日中戦争 昭和20年(1945年)まで
昭和16年(1941年)太平洋戦争 昭和20年(1945年)まで
昭和20年(1945年)第一海堡 武装解除
平成12年(2000年)第三海堡 撤去 平成19年(2007年)まで

海堡築城

陸軍では、砲台などの建設を「築城」と呼び、おもに陸軍築城部が担当しました。

明治から大正にかけて陸軍元帥として陸軍に君臨した山縣有朋は、明治4年(1871年)に『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張しました。
海防問題は、明治になってからも必須の懸案事項で、東京湾のフランス招聘軍人や陸軍内からも数多くの意見書が提出されています。
明治10年(1877年)の西南戦争をなんとか乗り切った明治新政府は、陸軍省内に海岸防御取調委員を設置し、まず東京湾口の調査を開始しました。
朝鮮半島をめぐって清国そしてロシアとの関係が悪化する中、日清戦争前東洋一と評されていた清国の北洋艦隊(北洋水師)、次にロシア帝国海軍太平洋艦隊が仮想敵として意識されていました。


明治新政府においても帝都および横須賀軍港防衛の最重要防備ラインを観音崎-富津岬間をとする認識があり、とりあえず、とくに重要と考えられた観音崎、猿島、富津州(第一海堡・元洲堡塁砲台)の砲台建設が明治13年(1880年)から順次開始されました。

第一海堡(かいほう)は、当初「富津海堡」と呼ばれ、明治13年8月から試験的に捨石が開始され、台風に遭遇しても捨石が動かなかったことから、明治14年8月に基礎の埋め立て工事に着手しました。形状は、ロシアのクロンシュタット要塞を、内部構造はイギリスのポーツマス要塞を参考にしているとのことですが、これら要塞の詳細は確認できませんでした。

明治27年(1894年)の清国開戦の直前に臨時東京湾守備隊司令部が、翌年には東京湾要塞司令部が正式に発足するなど、東京湾要塞の整備は急ピッチで進められ、日清戦争までに横須賀軍港周辺8か所、観音崎・走水地区15か所、富津岬1か所と第一海堡の累計25か所の砲台が完成しました。

第一海堡
【第一海堡】千葉県富津市
富津岬から見た第一海堡です。右手の浅瀬は繋船場(船着き場)すが、砂が堆積しています。
第一海堡部分
【第一海堡】千葉県富津市
富津岬から見た第一海堡です。中央上部は左翼観測所だと思われます。
第一海堡
【第一海堡】千葉県富津市
撮影年不明。三笠ターミナル/猿島ビジターセンター(横須賀市小川町)の展示パネルを複写させていただきました。
第一海堡米軍
【第一海堡】千葉県富津市
東京湾海堡ツーズム機構webサイト「東京湾の要塞〜第二海堡〜」掲載写真をもとに加筆しました。

しかし観音崎-富津岬間が約7kmあるのに対して、当時の大砲の有効射程距離は3kmであったことから、敵艦を迎撃するためには、猿島砲台と第一海堡の間の海堡建設は必須でした。

第一海堡の工事が進む過程で、海堡の増設案が検討され、明治22年(1889年)7月に第二海堡、明治25年(1892年)8月に第三海堡の基礎工事が開始されました。

しかし、第二海堡、第三海堡は日露戦争にも間に合いませんでした。

浦賀水道
【東京湾口砲台群】
国土地理院ウェブサイトで公開しているコンテンツのうち、測量成果に該当しない空中写真などで、閲覧サービスからダウンロードできるものは、出典明記だけで承認申請は不要とのことです。
1947~1948年にかけて、アメリカ軍はほぼ日本全土の空中写真を撮影しています。
遠景
【第一海堡・第二海堡・猿島砲台】
富津岬から撮っています、第三海堡は撤去されています。
遠景
【第一海堡・第二海堡・猿島砲台】
横須賀市うみかぜ公園から撮っています。
第二海堡
【第二海堡】千葉県富津市
富津岬から見た第二海堡です。
第二海堡部分
【第二海堡】千葉県富津市
富津岬から見た第二海堡、部分です。

 第一海堡(千葉県富津市)
  富津岬の先端
 ・起工:明治14年(1881年)8月
 ・竣工:明治23年(1890年)12月
 ・建設期間:9年
 ・起工(改修):大正13年(1924年)10月
 ・竣工(改修):昭和3年(1928年)11月
 ・除籍:昭和20年(1945年)
 ・海底水深:1.2~4.6m
 ・面積:23,000㎡
 ・備砲当初:
   28糎榴弾砲14門、19糎加農砲1門、12糎速射加農砲4門、7.5糎速射加農砲4門、
 ・備砲震災後:
   28糎榴弾砲4門、15糎加農砲(砲塔)2基4門、他速射加農砲など
 ・備砲終戦時:
   15糎加農砲(砲塔)2基4門、他速射加農砲など

 ※太平洋戦争時には海軍が高角砲を設置。

 第二海堡(千葉県富津市)
  第一海堡の西方2,577m
 ・起工:明治22年(1889年)7月
 ・竣工:大正3年(1914年)6月
 ・建設期間:25年
 ・除籍:昭和2年(1927年)年(1945年)

 第三海堡(神奈川県横須賀市)
  第二海堡南方2,611m、走水低砲台の北方2,589m
 ・起工:明治25年(1892年)8月
 ・竣工:大正10年(1921年)3月
 ・建設期間:29年
 ・除籍:大正14年(1925年)

第一海堡その後

大正12年(1923年)9月の関東大震災により、第三海堡・第二海堡は壊滅的な被害に遭いましたが、第一海堡の被害は比較的軽微だったといわれています。
ただし、大正13年(1924年)から昭和3年(1928年)にかけて、改修工事が行われ、砲塔砲の採用など、砲座の配置と備砲が大きく変わっているので、まったく被害がなかったいうことではないと思います。
また、関東大震災の影響で砂州が隆起し、干潮時には富津岬と陸続きになりました。戦後の写真を見ると、繋船場(船着き場)は砂で埋まっています。

太平洋戦争時には、海軍の高角砲陣地が併設されましたが、昭和20年(1945年)の終戦まで陸軍の兵員が配置されていました。

終戦後アメリカ軍が上陸し、武装解除が行われ、砲塔砲のあった中央部は爆破されました。

戦後、釣り人が訪れていた時期もあるようですが、現在は財務省関東財務局が管理していて立ち入り禁止です。昭和22年(1947年)の空中写真とgoogle Earthの動画を見比べてもらえると分かりますが、現状では、砂州の侵食が進み、形状も弓なり状になって部分的に切れています。歩いて渡るのは危険だと思います。

立ち入り禁止

参考にした文献などは、東京湾要塞(1)に掲載しています。

東京湾要塞(3)につづきます。


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