東京湾要塞(4)
第二海堡築城
第二海堡(かいほう)は、明治22年(1889年)7月に起工した、千葉県富津岬と神奈川県三浦半島走水の間の巨大な海上要塞です。
工事は難航を極め、第二海堡と第三海堡は、清国北洋艦隊(北洋水師)、ロシア帝国海軍太平洋艦隊の東京湾侵攻阻止を目的としていましたが、日清戦争(1894~1895年)、さらには日露戦争(1904~1905年)にも間に合いませんでした。
第二海堡については、日露戦争時、基礎工事はおおむね完了に向かっていたことから、臨時の砲台が設置されました。また、海軍は第二海堡-第三海堡間、第三海堡-走水間に湾口封鎖のための水雷を設置しましたが、日露戦争前の明治33年(1900年)には、海軍から海堡を管轄する陸軍に対し、第二海堡右翼(西端)に水雷衛所(水雷敷設海面を監視し、敵艦船が接近すると電気スイッチで発火させる視発所)、電灯所と付属施設の設置依頼があり、これは日露戦争前に完成していたようです。
最終的に第二海堡が完成したのは大正3年(1914年)でした。このころ、すでに海堡の存在意義は失われようとしていました。
砲塔砲
2007年から行われた護岸工事により、遺構の多くが削平されてしまい、備砲に関係する遺構は、中央27糎加農砲1基と右翼15糎加農砲 3基の砲塔と、海軍の設置した高角砲砲座のみです。
15糎加農砲砲塔は、3連のコンクリート(ベトン)製円錐台が並んでいて、巨大砲塔群をイメージすることができます。
本来は、(3)の模型のように被弾したときの衝撃を吸収するためにコンクリート壁は盛土で被覆されていました。27糎加農砲の方は盛土が中途半端に残っているため、写真では画にならず省略。
15糎加農砲砲塔外周のコンクリートには、アメリカ軍ないし最初に上陸したイギリス軍が書いたであろう「FORT」(要塞)、「NO.2」のペイントがあることから、終戦時までには盛土が流失してしまっていたようです。
見た目は、ただのコンクリートの壁ですが、当時は鉄筋のない無筋コンクリート。
耐弾性をを増す工夫として継ぎ目を極力少なくしたマスコンクリート工法としましたが、分厚いコンクリートは、表面部と内部に温度差でひび割れが発生しやすいため、施工には高度な技術が必要だったようです。
「砲塔砲」とは、大砲を鋼鉄製の囲い、操作員や機構を下部に置いて保護すると同時に、多方向に照準し発射できるようにした回転式のプラットフォームです。艦砲をイメージすると分かりやすいと思います。
大正期になると、明治期以来の要塞火砲のほとんどが旧式となったため、その再整備が検討されていました。第二海堡の砲塔砲は陸軍の砲塔砲としては最初期のもので、陸軍は当初大阪砲兵工廠に製作を依頼しましたが、製造経験がないことから断念。外国企業に発注することになりました。
克式(ドイツ クルップ社)砲塔15糎加農砲 2基4門
参式(フランス サンシャモン社)砲塔15糎加農砲 2基4門
克式(ドイツ クルップ社)砲塔45口径27糎加農砲 1基2門
斯加式(フランス シュナイダー・カネー社)隠顕40口径27糎加農砲 4門
大正11年(1922年)2月に調印されたワシントン海軍軍縮会議条約批准以降は、建造中あるいは準備中であった艦船の砲塔砲を転用することになりました。この段階の砲塔砲は国産です。
壱岐要塞の黒崎砲台(長崎県壱岐市)は、昭和3年(1928年)起工、昭和8年(1933年)竣工。対馬要塞の豊砲台は昭和4年(1929年)起工、昭和9年(1934年)竣工。 ともに、45口径40糎加農砲 2門(砲塔1基)で、豊砲台の砲塔井は、開口部直径10m、深さは12mあります。大正10年(1921年)のワシントン軍縮会議により廃艦となった巡洋戦艦赤城(のち航空母艦として竣工)の主砲が転用配備されました。戦艦などに設置されていた砲塔砲台は、旋回式で射角も広く、豊砲台砲は有効射程が30kmに達するため、海峡両岸の砲台から対馬海峡全体を射程に捉えました。
兵舎や弾薬庫はすべて地下(掩蔽部(えんぺいぶ))にありました。砲塔とも地下で連絡していました。ただ、北面の掩蔽部は護岸工事の際に、埋め立てられてしまっています。右翼西端部は、上部の砲塔が削平されています。最近?再発掘しているという…なんともちぐはぐ。
ガイドさんの話では、それなりにまだ歩ける部分もあるようなので、今後も上陸ツアーを続けるのであれば、掩蔽部の公開は必須だと思います。
煉瓦の櫻花章は、東京小菅集治監(こすげしゅうちかん/現東京拘置所)製。単弁でも何種類かあるようです。他に丸+文字があります。文字には「す」「ゆ」「SR」などがあるようですが、(D)はそれとも別のようです。
第二海堡解体と海軍の利用
第二海堡竣工9年後の大正 12 年(1923年)9 月 1 日、関東大震災が発生します。
第二海堡は、地下構造物は天井・側壁などに大亀裂が生じ、砲は傾き周囲が沈降するなどの被害が生じましたが、全体の基礎については安定していました。
しかし、翌大正13年(1924年) 3 月、東京湾要塞司令部は、第二海堡、第三海堡、猿島砲台と観音崎付近の堡塁砲台の除籍を陸軍大臣に申請しています。
大震災の被害がきっかけとはなりましたが、明治期の海堡計画段階ではわずか3kmであった大砲の有効射程距離がその後大きく伸び、射撃精度も向上していました。観音崎-富津岬の中間地点に砲台を置く必要はなく、海堡は存在意義をすでに失っていました。
東京湾防御は、これ以降観音崎以南の湾入口付近で実施されることになりました。
第二海堡の備砲は、順次撤去移転作業が行われました。
陸軍が使用しなくなった第二海堡は、その後海軍が無償借用して終戦まで使用しました。昭和6年(1931年)には、対潜水艦防衛対策として水中聴音訓練所が、 太平洋戦争時には、防空砲台として12.7糎連装高角砲を設置しています。
第二海堡防空砲台は、昭和20年(1945年)2月16日と17日、7月18日の米軍艦載機の来襲に際して対空戦闘を行っています。これが第二海堡の戦歴のすべてです。
参考にした文献などは、東京湾要塞(1)に掲載しています。今回はとくに佐山二郎さんの本と『富津市富津第⼆海堡跡調査報告書』を参考にしました。
東京湾要塞(5)につづきます。