東京湾要塞 series 1 (6)
富津元洲堡塁砲台
富津元洲堡塁砲台(ふっつもとすほるいほうだい)は、房総半島富津岬、富津公園内にあります。
明治新政府は、帝都および横須賀軍港防衛のために明治13年(1880年)から東京湾口に砲台建設を開始しますが、富津元洲堡塁砲台は、東京湾要塞の千葉県房総半島側で最初期に築かれた堡塁砲台です。
陸軍では、海上の敵艦もしくは敵上陸部隊を砲撃目標としている海岸砲台を「砲台」、海岸砲台の背面を守る陸戦砲台を「保塁」としています。富津元洲「堡塁砲台」は、敵艦船攻撃ともに陸戦機能も備えていました。
明治27年(1894年)の清国開戦の直前に臨時東京湾守備隊司令部が、翌年には東京湾要塞司令部が正式に発足するなど、東京湾要塞の整備は急ピッチで進められ、日清戦争までに横須賀軍港周辺8か所(猿島・波島・笹山・箱崎高・箱崎低・夏島・米ヶ浜高・米ヶ浜低)、観音崎・走水地区15か所(観音崎第1・観音崎第2・観音崎第3・観音崎第4・観音崎第5・北門第1・北門第2・北門第3・観音崎南門・花立・花立堡塁・走水高・走水低・小原台堡塁)、富津岬1か所(富津元洲堡塁砲台)と第一海堡の累計25か所の砲台が完成しました(『日本築城史』の記載)。
多角形要塞
富津元洲堡塁砲台は、平面が五角形のいわゆる「多角形要塞」です。多角形要塞は、「星形要塞(稜堡式要塞)」の簡略形でありかつ進化形です。
「稜堡」とは、側射のために塁壁から外に向かって突き出した角の部分のことで、銃撃戦の際、死角を無くすために考案された形状ですが、銃撃戦に対して砲撃戦が主流になる中で手間のかかる「稜堡」が省略され、「多角形」(おもに4~6角)が主流になりました。
明治期の「多角形要塞」は他に石原岳堡塁(長崎県佐世保市)や小原台堡塁(神奈川県横須賀市)などがあります。
江戸時代の台場でも、品川台場(東京都品川区)、鳥取藩由良台場(鳥取県北栄町)、弁天台場(北海道函館市)などで「多角形」が採用されており、とくに由良台場、弁天台場あたりは、富津元洲堡塁砲台や石原岳堡塁と似ています。
ただ、幕末の「稜堡式城郭」、「多角形台場」は、低重心で幅広の石垣(土塁)を特徴としていて、これは水平方向に撃つ「直射砲」を想定したものでした。しかし、臼砲や榴弾砲など、弾丸が放物線軌道を描いて目標を攻撃する「曲射砲」に対しては有効ではありませんでした。五稜郭が築かれたころ、すでにヨーロッパでは時代遅れになっていました。
富津元洲堡塁砲台は平面的な形状こそ「多角形」ですが、高い土塁を築いています。小原台堡塁については、フランス留学から戻った陸軍工兵の父、上原勇作工兵大尉(後元帥)が手がけたとのことですが、明治時代の「多角形要塞」がどういった設計思想にもとづくものなのか、興味深いところです。
「稜堡式要塞」については、東京湾要塞(1)、用語集でも簡単にまとめています。
補遺 富津台場
富津岬には、幕末の文化8年(1811年)ごろ、幕命によって白河藩が築いた富津台場と富津(海防)陣屋がありました。竹ヶ岡台場(富津市)、州崎台場(館山市)とともに、房総半島ではもっとも古い台場のひとつです。
陣屋については、跡地が分かっているようですが、台場については不明のようです。ただし、当時の絵図によると、陣屋の南西側の近接した位置にあったようです(千葉県教育財団文化財センター『研究紀要』第28号)。
富津海防陣屋跡。富津台場は、富津海水浴場に隣接する、京急富津観光ホテル跡地(富津市富津2348)周辺が候補地のようです。
元洲堡塁砲台の現地説明板では、元洲堡塁砲台が富津台場跡と読める記載がありますが、これは違うようです。
参考にした文献などは、東京湾要塞(1)に掲載しています。
東京湾要塞(7)につづきます。