富津元洲堡塁砲台 (2)
東京湾要塞 series 1 (7)(最終回)
要塞整理
日露戦争戦後、海岸防御の見直し気運が高まりました。明治期以来の要塞火砲のほとんどが旧式となったため、その再整備が検討されるとともに、砲台そのものの整理・再配置の議論が始まりました。その結果、東京湾要塞でも、大正から昭和初期にかけて、富津元洲堡塁砲台を含む、明治期に築城された堡塁/砲台のほとんどが廃止となりました。
大砲の有効射程距離が大きく伸び、射撃精度が向上したことから、その後に建設された砲台は、東京湾口のより外洋側に設置されました。富津元洲堡塁砲台を含め、明治期の砲台の多くは除籍となりましたが、一部は、太平洋戦争時に海軍が防空砲台として利用しています。
なお、明治の砲台が房総半島富津側ではなく三浦半島側に多いのは、富津側が遠浅で大型船が航行できないためです。
東京湾要塞の戦闘
昭和期の東京湾防御は、観音崎以南の湾入口付近で実施されることになりました。
東京湾要塞は、海軍の設置した防空砲台は別として、太平洋戦争終戦時まで、実際の戦闘を行うことはなかったといわれています。
ただ、佐川二郎氏の『要塞砲』によると、太平洋戦争勃発の日、第二海堡から剣崎砲台に移設された参式砲塔15糎加農砲が、海軍水中聴音機のとらえた敵潜水艦らしきものに対して、20発の射撃を行っているとのこと。明治13年(1880年)から50余年の年月と莫大な国費を投じて建設してきた東京湾要塞が行った戦闘はこれのみです。
富津射場(試験場)
富津元洲堡塁砲台(千葉県富津市)は、大正4年(1915年)9月に除籍となりましたが、その跡地は富津射場として再利用されました。
射場(試験場)とは、大砲や機関銃の弾丸速度や空気抵抗の測定、命中・貫通・耐久性などの試験などを行う陸軍の実射撃試験場です。陸軍で使用する大砲や弾薬は、射場(試験場)で試験検査を受けて実戦配備されました。
明治34年(1901年)、伊良湖射場(現愛知県田原市)が建設されました。しかし、実射試験の増加により、大正4年(1915年)、富津元洲堡塁砲台の跡地を利用して新たに整備したのが富津射場です。
陸軍技術本部の試射場(「富津射場」)でしたが、昭和16年(1941年)の組織改編によって、陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所所管の「富津試験場」として終戦を迎えた。
富津射場(試験場)は広大で、現在の千葉県立富津公園全体がその範囲でした。敷地には、本部事務所をはじめ、弾薬庫や火薬庫、実験室や試験に必要な砲座、観測施設などさまざまな施設がありました。
富津射場監視所(1)(2)です。遊歩道から外れているので、これだけ位置図をのせておきます。
現JR内房線青堀駅から射場まで軍用引込線が設けられ、さらに軽便軌条が各施設間を結んでいました。軍用引込線については、大正15年(1926年)にフランスのシュナイダー社から購入した日本陸軍の唯一の列車砲、90式24糎列車加農のために敷設されたともいわれています。
90式24糎列車加農は、砲身以外、富津射場で開発が進められました。最大射程は約50kmで、大和型戦艦の主砲を凌ぐものだったようです。関東軍に引き渡され、終戦時にソ連軍に接収されたようです。
ヘリテージング
ヘリテージングとは、日本の近代遺産を観光として楽しむという意味の造語です。
2007年、毎日新聞によって「ヘリテージング100選」が選定され、富津元洲堡塁砲台も選ばれています。100選はwikiにものっていますが、けっこう毛色の違うもの選ばれていて、面白いです。
富津射場(試験場)については、適当なテキストがなかったので、下記を参考にしました。今回の私の投稿より詳しいので、興味のある方はどうぞ。
富津射場は、今回あまり下調べをせずに行ったため、いくつか遺構を見逃してしまいました。とくに「イテ塔」に遺構が残っているとは思わず、リベンジ案件になってしまいました。
東京湾要塞は、今回でSeries 1 を終了します。まだ、横須賀市の猿島砲台、千代ヶ崎砲台など未投稿のものがあるのですが、メインのはずの中世城郭がまったくなので、しばらくそちらにもどります。