朝倉氏城郭の二様 (1)

 

元亀年間の陣城 (1)
朝倉氏の城郭 (1)

朝倉氏の城郭

戦国時代の山城には地域によってさまざまな特徴があります。それが誰によっていつ築かれたのか、そんなことに思いをはせるのも城歩きの醍醐味です。
たとえば、甲斐武田氏の丸馬出・三日月堀+両袖枡形虎口、横堀+放射状竪堀のように、特定の戦国大名に関連付けられるものもあります。しかし、勢力範囲は流動的で、とくに境目の地域では争奪戦がたえず繰り返され、城郭は上書き(改築)されていきます。現状で目にすることができるのは、廃城時の(重層化した)最終型にすぎません。改築過程が分かれば面白いですが、ほとんどの城は発掘調査が行われていません。発掘調査をやったところではたして改築の痕跡を捉えることができるのか。。同時代の築城記録が残っている城も極めて少数です。
また、徳川氏が丸馬出・三日月堀を「盗用」したように、それが有効であれは広く共有されていきます。結果、畝状竪堀のように、特定勢力の範囲をこえて広く分布するのが一般的で、どこで考案され、どう広がっていったのか、その過程を明らかにすることは簡単ではなさそうです。

今回、越前朝倉氏の城郭に興味をもったのは、個性的で異なる特徴をもつ城郭が地域を分けて存在すること、陣城のように単一時期の城郭があること、『信長公記』などに築城記録が残っていることなどから、「朝倉氏の城郭」を特定できそうなことからです。さらに、その城造りは、賤ヶ岳合戦の陣城群や松尾山城(岐阜県関ヶ原町)など最末期の山城、織豊系城郭に引き継がれていきます。

このあたりのことは、高橋成計氏(2016・2018年など)、佐伯哲也氏(2020・2021年など)、高田徹氏(2013a・2013b・2017・2022年など)らによって数多くの論文が提示され、熱い論戦もくり広げられています。これらを参考に少しだけ深掘りしてみようと思います。

問題の所在 朝倉氏城郭の二様

朝倉氏の城郭といえば、越前本国では一乗谷城(福井県福井市)や戌山城(福井県大野市)、波多野城(福井県永平寺町)などが代表例で、ここでは堀切と畝状竪堀が特徴的に認められます。
しかし、若狭から北近江には、これとはまったく異なる特徴をもった朝倉氏の城砦があります。

姉川・小谷城・若狭国吉城合戦の城砦

ここではまず、『信長公記』などに築城年代が残る姉川・小谷城合戦と若狭国吉城合戦の城砦(陣城)を取り上げます。
上平寺城・長比城や小谷城関連の大嶽城・福寿丸・山崎丸、丁野山城・中島砦、越前国とのルート上に築かれた田部山城・田上山城、若狭国吉城周辺に築かれた中山の付城や、狩倉山城・駈倉山城などです。

上平寺城枡形虎口
(1)  【上平寺城 枡形虎口】(滋賀県米原市)

これらの城砦には、共通する特徴があり、高田徹氏は、それを以下の通りまとめています(高田 2013年a)。

(A) 主郭部が土塁囲みである。
(B) 主郭は自然地形に沿って、湾曲する傾向が強い(角張った塁線を造り出していない)。
(C) 地形的に平坦な尾根が近接するにも関わらず堀切で城域をまとめる。
(D) 主郭から下位の曲輪に土塁を伸ばして連結する。
(E) 主郭部から離れた位置に堀切を設け、中間の尾根上を確保する。
(F) 外枡形状の虎口を有する。
(G) 主郭の虎口が対称(あるいは向かい合う)位置に設けられ、虎口とそれに関わる導線の位置が集約されている。
(H) 一部張り出した塁線から横矢掛かりが効くが、明瞭な折れを伴わない。
(I) 堀障子が認められる。
(J) 虎口から斜めに下る導線が付けられている。
(K) 部分的に曲輪周りに横堀を巡らす。
(L) 主郭の土塁内部は低くなり、曲輪内部には起伏を残す。
(M) 尾根に斜めに切り込むように竪堀が設けられる。

このなかで、とくに重要な指標となる特徴は(A)の土塁囲みと(F)の虎口形態だと思います。
しかし、これらの特徴をもつ城郭が自国越前にはないと言われています。
高橋成計氏は本国にないこと、賤ヶ岳合戦の陣城に類似することなどから、多くを秀吉などによる浅井・朝倉氏以後の築城(改修)であるとし、朝倉氏築城説を批判します(高橋 2016年)。しかし、これに対する高田徹氏の再批判もあります(高田 2017年)。

高橋説については改めて取り上げることとし、ここでは従前の朝倉築城説でスタートしますが、この朝倉氏城郭の「二様」、

・越前本国 「畝状竪堀」城郭
・若狭・近江周辺国 「土塁囲み」城郭


この「二様」を今回のシリーズのテーマとしました。
問題は、越前本国の「畝状竪堀」城郭と周辺国の「土塁囲み」城郭の年代と築城主体、ほんとうに越前本国に「土塁囲み」がないのか、「土塁囲み」と「枡形虎口」の系譜、そのあたりでしょうか。といっても、現実的に何かを証明するような解答があるわけでもなく、諸説を少しばかりたぐってみようと思います。

以下、代表例を取り上げますが、個々の登城記は改めて投稿する予定です。

「たけくらべ」「かりやす」

元亀元年(1570年)4月、同盟関係にあった織田信長と袂を分かった浅井長政は、美濃・近江国境を封鎖するために、朝倉氏に依頼して城郭を築きます。上平寺城(滋賀県米原市)と長比城(滋賀県米原市)です。北国脇往還と東山道の抑えとして築かれました。

『信長公記』元亀元年六月条には、
「浅井備前(長政)越前衆軍勢を呼越し、たけくらべ(長比城)・かりやす(苅安(尾)城/上平寺城)両所に要害を構え候」

とあります。この文だけだと、朝倉勢(越前衆)が築城したのか、朝倉勢が守備要員として配置されたのかはっきりしませんが、朝倉勢が築いた他の城砦との類似性から築城に直接関わったと考えられています。
しかし、長政が城将として配置した堀秀村と樋口直房は織田方の調略によって寝返り、6月19日には開城してしまいます。

上平寺城

中世当時の名称は、「かりやす城(刈安城)」または「かりやす尾城(刈安尾城)」です。伊吹山の中腹標高669mに主郭を置く山城です。
永正2年(1505年)ごろに、京極高清が守護館(上平寺館)の詰城として築いたと言われています。
大永3年(1523年)、高清の執政であった上坂信光の専横と、高清の跡目争いが原因となって、浅見・浅井氏ら国人衆による反乱が発生。上平寺城館は攻め落とされてしまいます。

その後、『信長公記』にあるとおり、元亀元年(1570年)に越前衆によって改修されますが、改修範囲は、土塁囲みと枡形虎口から、伝本丸(主郭)と伝二の丸周辺だと考えられています。とくにこの枡形虎口は、枡形空間が明確に区画されてる完成形に近いものです。

【上平寺城 枡形虎口 動画】
上平寺城主郭土塁
(2)  【上平寺城 主郭土塁】

中井均氏は、尾根先端部の畝状竪堀についても、小谷城北方の曲輪、土塁囲みと畝状竪堀をともなう月所丸とともに、越前衆による改修と考えています(中井 2021年)。竪堀の配置は異なるものの、長比城関連の須川山砦(滋賀県米原市)(写真6)でも確認されています。

尾根先端部の畝状竪堀は、越前の村岡山城(福井県勝山市)にもあり、佐伯哲也氏は、これを天正期の朝倉遺臣の手によるものと推定しています(佐伯 2021年)。この年代観が妥当であれば、上平寺城の畝状竪堀を元亀元年の越前衆の改修とみることができるかもしれません。

上平寺城畝状竪堀
(3)  【上平寺城 畝状竪堀】
上平寺城全体図
(図1)  【上平寺城 全体図】
(米原市教育委員会 2005年)からの転載、一部加筆。

ただし、これら元亀・天正期の畝状竪堀については否定的な意見もあります。中井均氏は、大永3年から元亀元年の間を廃城期と考えているようですが、城郭全体や堀切などの規模は他の元亀年間の陣城に対して格段に大きく、山城部分(上平寺城)は、近江・美濃国境を警備する境目の城として継続的に使用されていた可能性があり、その場合、畝状竪堀は、元亀元年以前に設けられたと考えることもできそうです。

長比城・須川山砦

長比(たけくらべ)城は、東山道の抑えとして築かれました。 長比城は、「一城別郭」とも「別城一郭」とも称される城で、東曲輪と西曲輪が独立しているように見えます。さらに、長比城の北約250mの尾根続きにある須川山(すがわやま)砦を含め、3城(曲輪)が連携して守備ラインを構築していたと考えられます。

長比城赤色立体図
(図2)  【長比城 赤色立体図】
(米原市教育委員会 2022年)からの転載、一部加筆。
長比城西曲輪
(4)  【長比城 西曲輪】(滋賀県米原市)
長比城虎口
(5)  【長比城 東曲輪北東虎口周辺】
須川山砦赤色立体図畝状竪堀
(図3) 【須川山砦 赤色立体図】(滋賀県米原市)
(米原市教育委員会 2022年)からの転載、一部加筆。
(6)  【須川山砦 畝城竪堀】

各曲輪の虎口形態の違いなどから、築城主体や築城時期が異なるとの見解もありますが、ここで取り上げる他城砦と同じように内部の普請が甘いことなどから、長期的に維持された城砦とは考えられません、元亀元年6月に限定された城砦と考えます。

虎口は、上平寺城の枡形虎口とはまったく異なり、長比城は、虎口両袖土塁の一方を外折れ(東曲輪北東)、内折れ(西曲輪東)するもの、虎口正面で導線を1折れするもの(東曲輪南東、西曲輪西)があります。須川山砦は、虎口前に小曲輪をともなっています。

なお、長比城東曲輪・西曲輪間は、現状で明確な遺構は認められませんが、これをつなぐと、全体の構図は田上山城(滋賀県長浜市)や田部山城(滋賀県長浜市)と近似します。

小谷城周辺の城砦群 (1)

『信長公記』元亀四年八月条には、天正元年(元亀4年)(1573年)8月8日から13日に信長方が落とした城が列記されています。

大嶽城(滋賀県長浜市)、焼尾砦(同)、月ヶ瀬城(同)、丁野山城(同)、田部山城(同)、義景本陣田上山城(同)、賤ヶ岳砦(同)、疋壇(ひきだ)城(福井県敦賀市)、粟田勝久の国吉城(福井県美浜町)に対峙して朝倉方が築いた城(中山の付城(同)などか)の10城です。

焼尾砦や月ヶ瀬城など実態不明なものもありますが、これらは、朝倉勢が築き、朝倉勢が守備していた城で、小谷城周辺と越前本国とのルート上に築かれていました。これら城砦群と浅井氏の阿閉貞征が守る山本山城(滋賀県長浜市)などが小谷城の防衛ラインを構築していました。

大嶽城

大嶽(おおづく)城は、小谷城を見下ろす小谷山(495m)の山頂にあります。浅井亮政の時代はここが本城であった可能性が高く、『長享年後畿内兵乱記』によると、大永5年(1523年)には、六角定頼が「浅井城大津見(具)」を攻めています

大嶽城01
(7)  【大嶽城 主郭土塁】(滋賀県長浜市)

『信長公記』によると、元亀3年(1572年)7月29日、朝倉義景は1万5千の兵を率いて小谷城に着陣します。しかし、「此表の為躰(ていたらく)見及び、抱へ難く存知、高山大づくへ取上げ居陣なり」とのことで、小谷城の防備に不満をもち、大嶽城へ移ってしまいます。
『信長公記』はあくまでも織田方の記録で実際の経緯は不明ですが、義景は12月3日に帰国するまで大嶽城に滞在しました(佐伯哲也 2021年)。

義景が着陣する以前の大嶽城の状況は不明ですが、現状の土塁囲みは間違いなく朝倉勢によるものです。主郭や周囲曲輪群は広大で、塁線は折れをともなっています。主郭虎口も、現地でははっきりしませんでしたが、赤色立体図を見ると食違いになっています。
普請が全体的に甘く、土塁や切岸に高さがないのも応急的で、浅井氏による城郭は、ほぼ上書きされているのではないかと思います。
義景在陣の間には、多くの客人が陣中見舞いに訪れているようです。普請は甘いものの4か月の間に作事を行い、それなりに作り込んだのではないかと想像します。

なお、大嶽城の特徴的な幅広土塁(写真7)は、上平寺城や田部山城や疋壇城などで見ることができます。

大嶽城02
(8)  【大嶽城】
(A)(B)曲輪土塁、(C)堀切、(D)竪堀。
大嶽城赤色立体図
(図4)  【大嶽城 赤色立体図】
(長浜市教育委員会 2020年)からの転載、一部加筆。

天正元年8月、義景は再び近江に出陣しますが、この時は田上山城に陣取ります。そして小谷城に兵を進めることなく朝倉勢は敗走します。
大嶽城の落城は8月12日。その後、8月27日には浅井久政が、9月1日には長政が自害し、小谷城は落城します。

福寿丸・山崎丸

大嶽城南側の「知善院尾根」に築かれています。
義景は、元亀3年(1572年)8月3日に小谷城から大嶽城に移りますが、『近江国坂田郡飯村嶋記録』所収「浅井長政書状」に「義景去晦日御着城、昨日(8月2日)知善院尾根被寄陣候」とあり、元亀3年8月2日に福寿丸と山崎丸が築かれたことが分かります(佐伯哲也 2021年)。

大嶽城02
(9)  【福寿丸・山崎丸】
(A)(B)福寿丸土塁、(C)山崎丸食違い虎口、(D)山崎丸土塁。

ともに長方形基調の土塁囲みですが、内部にも折れをもつ土塁があり、中島砦(滋賀県長浜市)と似た構造です。指揮所と虎口だけの小規模な城砦です。福寿丸と山崎丸については、大嶽城の虎口(関門)としての役割をもっていたと思います。

福寿丸山崎丸赤色立体図
(図5)  【福寿丸(左)・山崎丸(右) 赤色立体図】(滋賀県長浜市)
(長浜市教育委員会 2020年)からの転載、一部加筆。
姉川・小谷城合戦関連城郭
(図6)  【関連城郭位置図】
下図はカシミールDから作成しました。
1上平寺城7丁野山城・中島砦
2長比城・須川山砦8焼尾砦
3(小谷城)大嶽城9月ヶ瀬城
4(小谷城)福寿丸・山崎丸10賤ヶ岳砦
5田上山城11山本山城
8田部山城12横山城

「小谷城周辺の城砦群」、次回に続きます。

参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。

2022年3月(上平寺城)、2017年11月・2023年3月(小谷城関連)、2022年11月・2024年3月(長比城)現地、2024年12月27日投稿