朝倉氏城郭の二様 (2)

 

元亀年間の陣城 (2)
朝倉氏の城郭 (2)

小谷城周辺の城砦群 (2)

田上山城(田上山砦)

田上山(たがみやま)城(滋賀県長浜市)は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで羽柴方の本陣(羽柴秀長陣)が置かれた場所です。
しかし、その原型は、元亀元年(1570年)から天正元年(元亀4年)(1573年)に行われた、信長と浅井・朝倉連合との戦いで朝倉勢によって築かれました。

田上山城腰曲輪
(1)  【田上山城 中央曲輪】(滋賀県長浜市)
北辺塁線土塁下腰曲輪。

北国街道を望む山塊南端の田上山(330m)は、近江侵略の拠点の適地であるため、15世紀代から朝倉氏が使用していた可能性があるようです(佐伯 2021年)。
信長が上杉謙信に宛てた書状には、天正元年8月10日に「朝倉義景罷出(まかりいず)、木本多部山陣取」とあり、また、『信長公記』には、8月8日から13日に信長方が落とした城の中に「たべ山・義景本陣田上山」があります。謙信宛て書状の「木本多部山」は「木本=田上山、多部山=たべ山(田部山)」に比定されるようです(佐伯 2021年)。
この2城の位置関係は前回の投稿に図を掲載していますが、田部山城は、田上山城の南約2kmにあり、元亀元年に義景が本陣とした小谷城大嶽城と田上山城の中継地としての役割をもっていたと考えられています。

田上山城土塁囲み
(2)  【田上山城 東曲輪方向】
田上山城堀切・土橋
(3)  【田上山城 中央曲輪】
(A)中央・北曲輪間堀切、(B)(C)中央曲輪北虎口土橋。
田上山城腰曲輪・土塁
(4)  【田上山城 中央曲輪】
(A)(B)南辺塁線土塁下腰曲輪、(C)南辺塁線土塁。

田上山城は、土塁囲みの城で、切岸下には腰曲輪ないし横堀があります。
朝倉期と羽柴期の遺構が重なっていますが、高田徹氏(高田 2013年a)、松岡進氏(松岡 2015年)、佐伯哲也氏(佐伯 2021年)らは、中央曲輪と西曲輪が朝倉期で、南曲輪・北曲輪と外郭(図1では省略)が羽柴期に拡張された部分と考えています。朝倉期は塁線が曲線的であるのに対して、羽柴期の拡張部は直線直角を基調にしています。ここを歩かれた方は分かると思いますが、朝倉期の曲輪は内部の普請も甘くその違いは明らかです。朝倉期の曲輪は羽柴期にほぼそのまま使用されたようです。
西曲輪虎口の方形の張り出し部については、羽柴期に改修された可能性を指摘する意見もありますが、方形の張り出し部は大嶽城や山崎丸にもあります。

朝倉期の中央曲輪と西曲輪を取り出すと、全体の縄張りは田部山城に近似しています。

田部山城・田上山城図
(図1)  【田部山城・田上山城主要部 縄張り図】
(田部山城 高田徹作図、米原市教育委員会 2022年)、(田上山城 中井均作図、中井均 2019年)からの転載、一部加筆。
丁野山城

丁野山(ようのやま)城・中島砦(滋賀県長浜市)は、小谷山西側の小丘陵に立地します。
『信長公記』と江戸時代中期享保年間にまとめられた近江国の地誌『近江輿地志略』によると、元亀3年(1572年)から翌年の丁野山(ようのやま)城には、朝倉氏家臣と白山平泉寺玉泉坊が在陣していたようです(佐伯 2021年)。
天正元年(元亀4年)8月12日夜から13日にかけて、信長自身が攻めかかり、白山平泉寺玉泉坊は降伏して開城しました。

丁野山城主郭・腰曲輪
(5)  【丁野山城】(滋賀県長浜市)
(A)主郭、(B)中段横堀土塁(腰曲輪)、(C)中段から下段腰曲輪(下)。
丁野山城堀切
(6)  【丁野山城 堀切】
丁野山城図
(図2)  【丁野山城 縄張り図】
(高田徹作図、米原市教育委員会 2022年)からの転載、一部加筆。

丁野山城は両端に深い堀切をもち、曲輪は3段に築かれています。上段曲輪に土塁はありませんが、中段は横堀を兼ねた腰曲輪+土塁が全周しています。
丁野山城は、北国街道に接した要衝の地にあり、『近江輿地志略』に「相伝是浅井氏」とあることから、もともとは浅井氏の築いた城郭です。両端の堀切あたりは浅井氏時代のものを利用している可能性も考えられますが、曲輪を囲繞する腰曲輪(横堀)・土塁はやはり朝倉氏の特徴であると思います。
丁野山城の出城である中島砦が、福寿丸・山崎丸に似た土塁囲みの長方形区画であることからみても、丁野山城・中島砦に朝倉勢の手が入っていることは間違いなさそうです。

若狭国吉城周辺の城砦群

若狭(佐柿)国吉城の周辺(福井県美浜町)にも、国吉城城主粟屋勝久との攻防戦で朝倉方が築いた陣城(付城)が残されています。

かつて応仁の乱では副将を務めた若狭武田氏ですが、武田信豊・義統の代になると家督争いと有力被官の離反によって内乱状態となり、永禄4年(1551年)には義統を支援するために朝倉氏は若狭に侵攻し、逸見昌経らの反乱を鎮圧しました。
朝倉氏は、これを機に永禄6年以降は毎年のように攻め入り、永禄11年には武田元明を拉致して一乗谷朝倉館に移しました。しかしこの間も国吉城を落とすことはできず、攻城戦は長期化し、永禄7年には中山の付城を、永禄9年には狩倉山城・駈倉山城(馳倉山城)を築いたといわれています。
このあたりのことの多くは、寛延4年(1751年)に刊行された軍記物『若州三方郡佐柿国吉籠城記』をもとにしているため、すべてを史実としてみることはできませんが、何回か取り上げているように、『信長公記』にも、天正元年(1573年)8月8日から13日に信長方が落とした朝倉方の城の中に「若州栗屋越中所へとし向ひ候付城」とあります。国吉城の周辺に朝倉方の付城(陣城)があり、天正元年8月まで機能していたことは間違いありません。

若狭国吉城
(7)  【国吉城】(福井県美浜町)
(A)(B)北尾根連郭曲輪群、(C)伝二の丸。栗屋氏時代の遺構がどの程度残っているかは不明。
中山の付城

中山の付城(福井県美浜町)は、国吉城と直接対峙する位置関係にある芳春寺山(標高145.5m)山頂付近に築かれています。
『若州三方郡佐柿国吉籠城記』によると、中山の付城は永禄7年(1554年)に国吉城攻めの拠点として築かれました。しかし、翌年栗屋勢の逆襲を受け撤退。『朝倉始末記』(著者・成立年代未詳)によると、元亀4年(天正元年)(1573年)に再築されたようです。これが事実であるならば、同年8月13日に信長方に攻め落とされたのは中山の付城である可能性が高そうです。

中山の付城赤色立体図
(図3)  【中山付け城 赤色立体図】(福井県美浜町)
(大野康弘 2021年)からの転載、一部加筆。
中山の付城土塁
(8)  【中山付け城 主郭西側土塁】
中山の付城土塁
(9)  【中山付け城 主郭東側土塁】
中山の付城虎口
(10)  【中山付け城 虎口】
(A)東虎口、(B)西虎口、(C)北虎口。

土塁囲みの城郭ですが、長比城・田上山城・田部山城が両翼2曲輪構造であったのに対して、中山の付城は、主郭両側に付属曲輪を配置しています。また、虎口は、虎口前で1折れする単純な坂虎口です。
中山の付城の築城時期は、永禄7年から天正元年の間ということになりますが、単純な虎口形態から、元亀年間以前の築城当時の構造を残している可能性があると考えられています(佐伯哲也 2021年他)。。

狩倉山城

狩倉山城(福井県美浜町)は、『若州三方郡佐柿国吉籠城記』によると、永禄9年(1556年)に築かれたことになっています。ただし、「かりくらやま城」は、狩倉山城と駈倉山城(福井県美浜町)の2城があり、どちらを指しているのかは不明です。

狩倉山城横堀
(11)  【狩倉山城 横堀】
狩倉山城二重堀
(12)  【狩倉山城】
(A)横堀・土橋、(B)(C)二重横堀。

狩倉山城は、他の陣城と違い、二重横堀構造で土塁囲みはありません。
虎口は単純な2連土橋の平虎口です。ただし、内堀には2か所の土橋があることから、通常は導線を食違いにし、出撃時にはすべての虎口を開放したのではないかと考えましたがどうでしょうか。

狩倉山城・駈倉山城赤色立体図
(図4)  狩倉山城・駆倉山城 赤色立体図】
(大野康弘 2021年)からの転載、一部加筆。

この周辺の朝倉方による城砦は、他に金山城(福井県敦賀市)があります。国吉城の出城とも言われている岩出山砦(福井県美浜町)も、ここで取り上げた土塁囲みの城砦に似ています。ともにまだ未踏です。

長くなってしまいそうなので、「元亀年間の陣城」の まとめは次回にします。
個々の登城記は改めて投稿する予定です。

参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。

2022年3月(田上山城)、2023年3月(丁野山城)、2019年11月・2024年3月(国吉城)現地、2025年1月6日投稿