元亀年間の陣城 (3) まとめ
朝倉氏の城郭 (2)
元亀年間前後の朝倉氏の城郭
主な特徴
前々回の投稿では、高田徹氏がまとめた、姉川・小谷城合戦・若狭国吉城合戦の朝倉方の城郭の特徴、13項目を引用しましたが(高田 2013年a)、以下は、個人的な視点からもう少し大雑把にまとめたものです。
各城砦は上記すべての特徴を備えているわけではありません。また、立地によっても縄張りを変えていて、尾根ではなく山頂部に築かれた城砦は、城域の設定に自由度があることから、曲輪を多段に配置するなど多様な形態をとっています。
なお、土塁囲みは、小谷城主尾根最南端の出丸や山本山城(滋賀県長浜市)など、浅井氏にも共有されていたと思われます。
築城年代
若狭・近江の朝倉氏城郭は、限られた期間の中で築かれていますが、そのなかでも変遷が追える可能性があります。以下は、「志賀の陣」を含め、『信長公記』などから築城(改築)年代が推定できるものです。
築城に要した期間についてははっきりしませんが、長比城・上平寺城の場合、最大見積もっても信長が金ヶ崎城から撤退を開始したであろう4月27日から信長方の調略によって開城した6月19日の53日間であり、佐伯哲也氏は、『信長公記』の記載記録から10日間程度と推定しています。 多くの陣城は、短期間に複数同時に築かれています。おそらくたいした事前準備もないまま、設計を描き施工管理を行うことのできる人材を、朝倉氏は複数人抱えていたと思われます。福寿丸・山崎丸に見ることのできる「個性」はそうしたことに起因するのかもしれません。
横矢掛けと畝城竪堀
(a)~(c)は一連のものです。塁線は自然地形を利用してはいますが、そのものではなく、意図をもって造られています。それは側射を意識した「内反り」ラインで(写真1)、鉄砲の普及にともなう変化だと思います。横方向の移動を制限する畝状竪堀は、側射に対しては隠れる場所を提供するようなもので、横矢掛けとは相容れない備えです。
田上山城、田部山城は、2曲輪を「内反り」ラインの通路状曲輪で連結しています。東西の曲輪が現状では独立しているように見える長比城も、おそらく同じだと思います。
元亀3年築の大嶽城では、内反りと張り出しをもつ曲輪群を数段にわたって配置しています。さらに福寿丸・山崎丸の横矢掛りは、塁線を直線・直角に折っています。これが朝倉氏の最終型です。
一方、永禄年間から元亀元年の縄張りは、志賀の陣を含め多様で、一乗寺山城や上平寺城では畝状竪堀も併存します。上平寺城や村岡山城(福井県勝山市)の登城道付近に限定した畝状竪堀は、朝倉氏の畝状竪堀の最終型かもしれません。
虎口
元亀年間を中心とする朝倉方陣城で、もう一つの大きな特徴が(d)の「多様な虎口」です。(図3・4)は虎口を模式化したものです。
それぞれが個性的でまとめることができません。
この中では、中山の付城など、永禄年間にさかのぼる国吉城合戦関係の陣城の虎口が最も単純に見えます。中山の付城は、天正元年に再築されているようですが、虎口は築城当初のままかもしれません。
あと、田上山城中央曲輪北虎口、西曲輪西虎口、田部山城なども、虎口付近に櫓台を置くなど工夫はみられるものの平虎口です。築城年代は記録されていませんが、元亀元年の築城だと思います。
これに対して、元亀3年の福寿丸・山崎丸の虎口構造は複雑です。ただし、定型化されてはいません。
閉鎖された枡形空間をもっているのは上平寺城のみで、織豊期の枡形虎口に対しては過渡期的ですが、これだけさまざまな構造が試されているということは、外部からの影響ではなく、朝倉氏内部で試行錯誤があったからこそだと思います。
朝倉氏城郭の二様 陣城
朝倉氏の城郭の「二様」とは、越前本国と若狭・近江など周辺諸国で朝倉氏が築いたとされる城砦がまったく異なる特徴をもっていることです。
このことについて、高橋成計氏は、周辺諸国の上記の特徴をもつ城郭の朝倉氏築城説を否定しています。
越前国の城郭が「尾根や丘陵上を堀切で遮断し、曲輪を連続的に造成した単純な縄張りが多く、斜面には竪堀や畝状空堀群の敷設が多い」のに対して、「急に他国に出張り革新的な縄張りの城郭を構築することは考えにくい」(高橋成計 2016年)と。高橋氏の言う「革新的な縄張り」とは「曲輪における土塁の囲繞や喰い違い虎口、通路の明確なもの」です。
私が朝倉氏の城郭に興味をもったのはこの高橋氏の論文で、2022年から関連論文を集めながら対象となる関連城郭を歩いています。
ただ現状では、高橋氏の論旨には疑問をもっています。
高橋氏は、中山の付城について江戸時代の軍記物である『若州三方郡佐柿国吉籠城記』は根拠にならないと切り捨てる一方で、同時代の一級史料であるはずの『信長公記』にある長比城、上平寺城は取り上げず、大嶽城、福寿丸・山崎丸、田部山城などについても、『信長公記』以降の、記録にはない秀吉の改修説を主張し、結果、狩倉山城など一部をのぞき、朝倉氏による考えられている城砦のほとんどを否定しています。土塁囲みと食違い虎口を認めない以上、ある意味当然の結論です。
高橋氏は、朝倉氏・浅井氏の城砦と賤ヶ岳関係など織田・羽柴氏の城砦が区別されていないとしていますが、私個人としては、天正11年(1583年)に築かれた陣城のうち、少なくとも玄蕃尾城(滋賀県長浜市)や東野山城(同)、田上山城・南曲輪などの主要城砦の枡形虎口や馬出は、朝倉氏段階と比較して定型化しており、塁線も曲線ではなく直線・直角で構成されていて、その違いは明確だと思っています。
とはいっても、朝倉氏の城郭の「二様」は、高橋氏説の批判だけでは解決しません。高橋氏を批判する高田徹氏は、「二様」を朝倉氏城郭のバラエティーとして捉えていますが(高田 2013年aなど)、これも積極的に賛同するには二の足を踏むような、スッキリしないものを感じていました。
これ対して、近年佐伯哲也氏の見解が支持を広げているようです(佐伯 2020年b)、このことについては次回紹介します。
参考文献は、「朝倉氏の城郭 投稿一覧」にまとめてあります。
2025年1月6日投稿