石垣の起源をさぐる(中世寺院の石垣)
城郭寺院とは
「城郭寺院(寺院城郭)」とは、中世戦国期に堀切や横堀、土塁などを築き城郭(城塞)化した寺院および寺院をベースに築かれた城郭のことです。
白山平泉寺(はくさんへいせんじ)(福井県勝山市)や百済寺(ひゃくさいじ)(滋賀県東近江市)、弥高寺(やたかでら)(滋賀県米原市)や観音寺城(滋賀県近江八幡市)などがあります。
「織豊系城郭」の起源に興味をもち、たどり着いた先がここでした。
近江あたりの山中には、あまり知られていない寺院跡(廃寺)が数多く眠っているのも、廃墟好きにとっての大きな魅力です。
ベースとなる山岳寺院
城郭寺院は、山林寺院(山岳寺院)がベースとなっています。延暦寺の影響下にあった近江では、数多くの天台宗系山岳寺院がありましたが、戦国期にはこれらをもとにした山城が多数築かれました。
密教系仏教は山岳仏教とも呼ばれ、山岳部に行場を求める修行者の仏教でした。平安時代前半期には山上部を聖地とし、禅定(宗教的瞑想)の場としていましたが、後半期から中世になると山腹に本堂を中心とする伽藍を構え、11世紀ごろには中心伽藍から僧房が離れて、独立した院名・坊名をもつようになりました(坊院/独立僧房/子院僧房)。
有力寺院では、その後山麓に向かって坊院群を拡大していきました。白山平泉寺ではその数「三千坊」、百済寺では「一千坊」といわれています。
下図の「棚田」のような区画のほとんどすべてが坊院跡です。
「坊院」とは、独立した僧侶の日常の居宅であるとともに、個別に宗教活動を行う拠点でもあり、中世寺院の勢力拡大を牽引しました。こうした、本寺(中心伽藍)と末寺(坊院)群が一体となった構造は「一山寺院」と呼ばれていて、天台・真言宗の密教系寺院の特徴です。
大規模な坊院群は、浅い谷部に立地し、参道を中心にひな壇状の削平地を築いていることが多く、それが複数の谷部におよぶこともあります。こうした坊院群は「谷」と呼ばれ、白山平泉寺や百済寺、金剛輪寺(滋賀県愛荘町)、阿弥陀寺(滋賀県近江八幡市)などでは、谷ごとに「北谷」、「南谷」などの呼称をもち、グループを形成していました。百済寺では「四谷」、比叡山延暦寺では「三塔十六谷」に分かれていました。
室町時代になると、坊院の寺内における地位・役割の比重が高くなったこともあり、坊院の方形区画化や、中心伽藍と坊院群そして山下をつなぐ直線道路(参道)のなどの整備が進みました(藤岡 2012)。
寺院の城郭化
中世戦国期は、かつての権威・身分秩序は瓦解し、武家だけではなく、さまざまな集団が武力をもち、城郭を構えました。
「城郭寺院」には2パターンがあります。(A)は「城郭寺院」、(B)は「寺院城郭」と言い換えることもできますが、(A)(B)どちらか分からないものも多々あります。
城郭寺院(2)につづきます。
2024年5月9日投稿