城郭寺院 (1)

 

城郭寺院とは

「城郭寺院(寺院城郭)」とは、中世戦国期に堀切や横堀、土塁などを築き城郭(城塞)化した寺院および寺院をベースに築かれた城郭のことです。
白山平泉寺(はくさんへいせんじ)(福井県勝山市)や百済寺(ひゃくさいじ)(滋賀県東近江市)、弥高寺(やたかでら)(滋賀県米原市)や観音寺城(滋賀県近江八幡市)などがあります。
「織豊系城郭」の起源に興味をもち、たどり着いた先がここでした。
近江あたりの山中には、あまり知られていない寺院跡(廃寺)が数多く眠っているのも、廃墟好きにとっての大きな魅力です。

白山平泉寺
【白山平泉寺(現平泉寺白山神社)】福井県勝山市
国指定史跡。戦国時代には越前国主朝倉氏と肩を並べるほどの勢力を誇りました。朝倉氏とは密接な関係にありましたが、天正元年(1573年)8月の朝倉氏滅亡後の翌年4月、和田本覚寺率いる一向一揆軍に攻められ全山焼失しました。

ベースとなる山岳寺院

城郭寺院は、山林寺院(山岳寺院)がベースとなっています。延暦寺の影響下にあった近江では、数多くの天台宗系山岳寺院がありましたが、戦国期にはこれらをもとにした山城が多数築かれました。
密教系仏教は山岳仏教とも呼ばれ、山岳部に行場を求める修行者の仏教でした。平安時代前半期には山上部を聖地とし、禅定(宗教的瞑想)の場としていましたが、後半期から中世になると山腹に本堂を中心とする伽藍を構え、11世紀ごろには中心伽藍から僧房が離れて、独立した院名・坊名をもつようになりました(坊院/独立僧房/子院僧房)。
有力寺院では、その後山麓に向かって坊院群を拡大していきました。白山平泉寺ではその数「三千坊」、百済寺では「一千坊」といわれています。
下図の「棚田」のような区画のほとんどすべてが坊院跡です。

百済寺全体図
【百済寺】滋賀県東近江市
国指定史跡。「要害」が戦国時代に城塞化した区域です。
百済寺北谷
【百済寺】滋賀県東近江市
「北谷」地区の参道(坊院間道)と坊院区画の石垣です。

「坊院」とは、独立した僧侶の日常の居宅であるとともに、個別に宗教活動を行う拠点でもあり、中世寺院の勢力拡大を牽引しました。こうした、本寺(中心伽藍)と末寺(坊院)群が一体となった構造は「一山寺院」と呼ばれていて、天台・真言宗の密教系寺院の特徴です。

大規模な坊院群は、浅い谷部に立地し、参道を中心にひな壇状の削平地を築いていることが多く、それが複数の谷部におよぶこともあります。こうした坊院群は「谷」と呼ばれ、白山平泉寺や百済寺、金剛輪寺(滋賀県愛荘町)、阿弥陀寺(滋賀県近江八幡市)などでは、谷ごとに「北谷」、「南谷」などの呼称をもち、グループを形成していました。百済寺では「四谷」、比叡山延暦寺では「三塔十六谷」に分かれていました。
室町時代になると、坊院の寺内における地位・役割の比重が高くなったこともあり、坊院の方形区画化や、中心伽藍と坊院群そして山下をつなぐ直線道路(参道)のなどの整備が進みました(藤岡 2012)。

密教系山岳寺院の特徴(キーワード)は以下の通りまとめることができます。

・聖地である山頂部や尾根筋をさけた谷内にあること。
・谷内には直線道路(参道)があり、
・直線道路に沿って削平地(坊院群)がならんでいること。
・坊院群は、複数の「谷」におよぶことがあること。

そして、「城郭寺院(寺院城郭)」は、おもにこうした谷内周囲の尾根部や、坊院群前面に城郭施設を築いています。

阿弥陀寺
【阿弥陀寺】滋賀県近江八幡市
写真は、「北谷」の坊院区画の石垣です。
弥高寺全体図
【弥高寺跡】滋賀県米原市
国指定史跡。標高700m付近にある山岳寺院跡。「弥高百坊」と呼ばれていました。京極氏などによって城郭遺構が築かれました。
弥高寺や佐味城(寺)は、谷内ではなく台地上に占地しています。
弥高寺中央参道
【弥高寺跡】滋賀県米原市
中央参道と左右に坊院群。
長法寺坊院石垣
金剛輪寺院内古道
【金剛輪寺】滋賀県米原市
現参道とは別に、中世の院内古参道が残っています。左右には坊院群が広がっています。
佐味城坊院
【佐味城】(奈良県御所市)
土塁で区画された坊院跡。一辺15mから40mクラスのものがあります。金剛山の東山麓にあるます。
寺院としての記録・伝承は残っていませんが、明らかに寺院をベースにした城郭です。

参考文献
・藤岡英礼「山寺の変遷」『季刊考古学』第121号 雄山閣 2012年
・藤岡英礼「山寺の景観変遷」『忘れられた霊場をさぐる』2 栗東町教育委員会 2007年
・『百済寺遺跡分布調査報告書Ⅱ』愛東町文化財調査報告書第10集 2003年
・『国指定史跡京極氏遺跡分布調査報告書』伊吹町文化財調査報告書第19集  2005年

寺院の城郭化

中世戦国期は、かつての権威・身分秩序は瓦解し、武家だけではなく、さまざまな集団が武力をもち、城郭を構えました。
「城郭寺院」には2パターンがあります。(A)は「城郭寺院」、(B)は「寺院城郭」と言い換えることもできますが、(A)(B)どちらか分からないものも多々あります。

(A) 応仁・文明の乱(1467~1477年)以降の混乱期、寺社の所領や荘園はたびたび侵奪されるようになり、自己防衛として寺院自らが寺域の城郭化を進めたケース。
百済寺、金剛輪寺、白山平泉寺など

(B) 混乱期の中で衰退した寺院を、武家や新興の土豪らが山城として再利用したケース。
弥高寺、歓喜寺城(滋賀県大津市)、佐味城(奈良県御所市)

城郭寺院(2)につづきます。

2024年5月9日投稿


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