石垣の起源をさぐる(中世寺院の石垣)
城郭寺院の遺構
百済寺(ひゃくさいじ)は、文亀3年(1503年)に兵火で全焼しますが、その後の記録に「要害」、「大手要害」が登場します。この時期以降に城郭化が進められたようです。
百済寺のような記録(とくに同時代史料)が残っていない場合、遺跡から(A)(B)を明確に区別することは簡単ではなさそうですが、いくつか特徴がありそうです。
記録からみて(A)と考えられる百済寺・白山平泉寺(はくさんへいせんじ)を例にすると、寺域前面を横堀で遮断し、谷部にある坊院群の両側尾根部に段曲輪や砦を築いています。しかし、寺域内を区切るような堀切ははっきりしません。
比叡山については、江戸時代以前の遺構の特定が難しいようですが、やはり寺域を切断するような堀切は確認できないようです。
金剛輪寺(こんごうりんじ)では、坊院群両側の尾根部分に小規模な堀切を確認することができますが、寺域内にはありません。
敏満寺(びんまんじ)(滋賀県多賀町)のように、(A)には寺内ではなくその縁辺に城郭を構えるケースもありそうです。
これに対して、弥高寺(やたかでら)や佐味城(さびじょう)では、寺(城)域背後を堀切で断ち切っています。佐味城では、中心伽藍地と坊院群を横堀で遮断しており、また歓喜寺城では坊院間を堀切で分断しています。
(A)の百済寺や金剛輪寺は、寺域背後がまったくの無防備に見えますが、これは、聖域である霊山や奧之院との間に「結界」を設けることが信仰上許されなかったからではないかと思われます。
城郭寺院 まとめ
同じ山域にあっても、山岳寺院と城郭(山城)では立地などに違いがあります。
山岳寺院の削平地(坊院)
尾根に囲まれた谷内にひな壇状の区画(坊院群)を造成。
城郭の削平地(曲輪)
山頂部から尾根筋に平坦地(曲輪群)を造成。曲輪群を堀切で遮断する。
山岳寺院の城郭化は、おもに寺域前面や谷内を囲む尾根部に対して行われますが、城郭化を行う主体(武家か寺院か)によって違いがありそうです。寺院が行う城郭化には、堀切などによる「結界」をもうけることにタブーがあったと思われ、弥高寺などのように、神仏の降臨地であったり開山祖師を祀る山頂部側に堀切を設けるようなことは、廃寺後に武家が行った可能性が高いと考えています。
観音寺城(観音正寺)については こちら。
武家改修 | 寺院改修 | |
山頂部 削平地普請 | ○ | × |
中心伽藍地背 後遮断(堀切) | ○ | × |
谷内両側尾根部 削平地普請 | ○ | ○ |
谷内両側尾根部 遮断(堀切) | ○ | △ |
谷内(寺域内) 遮断(横堀) | ○ | × |
谷内(寺域)前面 遮断(横堀) | ○ | ○ |
観音正寺と観音寺城
六角氏によって城郭化が進められた観音寺城は、南斜面に無数のひな壇状平坦地があるものの、山頂とそれに続く尾根上部分(東尾根、三国間~淡路丸間)に曲輪がないことから、以前は尾根を土塁に見立てた六角氏独自の「異形の城」と考えられてきました。しかし、下記の蔭山論文以降、主要遺構群の多くを中世山岳寺院(観音正寺)とみる考えが主流になってきています。くわしくは こちら
観音寺城は一応(B)に含まれますが、城郭として六角氏が新たに築いた主要曲輪群は、観音正寺中心部をさけた西尾根にあり、棲み分けができています。観音寺城と観音正寺の関係には諸説ありますが、少なくとも一定時期六角氏城館と観音正寺が並存していたことは間違いないと考えられます。
六角氏は延暦寺と密接な関係にあり、天文5年(1536年)の天文法華の乱では、協調して京都の法華宗二十一本山を焼き討ちしています。
領主が地元の信仰の聖地や宗教的権威を利用することはままあることで、丹後守護一色氏の今熊野城は成相寺寺内に築かれています。
また、京極氏の上平寺館(滋賀県米原市)では、「御屋形」の上部に「本堂」と「伊吹大権現」の社殿が並んでいます。
寺社勢力の強い地域での伝統的武家と寺社との密接な関係が見えてきます。
安土城と八幡山城
戦国期の城郭寺院とは性格が異なりますが、豊臣秀次の八幡山城(滋賀県近江八幡市)の山麓居館も、天台宗寺院である願成就寺の寺地でした。
天皇行幸を目的としたとの説もある、安土城(滋賀県近江八幡市)の大手道と伝秀吉邸などの曲輪群も、天台宗系寺院跡の再利用できないかと考えられています(中西 2004年、木戸2009年)。
城郭寺院(3)につづきます。
2024年5月9日投稿