城郭寺院 (2)

 

「城郭寺院」の2パターン

(A) 応仁・文明の乱(1467~1477年)以降の混乱期、寺社の所領や荘園はたびたび侵奪されるようになり、自己防衛として寺院自らが寺域の城郭化を進めたケース。
百済寺、金剛輪寺、白山平泉寺など

(B) 混乱期の中で衰退した寺院を、武家や新興の土豪らが山城として再利用したケース。
弥高寺、歓喜寺城(滋賀県大津市)、佐味城(奈良県御所市)

城郭寺院の遺構

百済寺(ひゃくさいじ)は、文亀3年(1503年)に兵火で全焼しますが、その後の記録に「要害」、「大手要害」が登場します。文亀3年の兵火を受けて城郭化が進められたようです。

百済寺大手要害
【百済寺 「大手要害」横堀・土塁】滋賀県東近江市
百済寺大手要害
【百済寺 「大手要害」横堀・土塁】滋賀県東近江市
百済寺南要害
【百済寺 「南要害」切岸】

百済寺のような記録(とくに同時代史料)が残っていない場合、遺跡から(A)(B)を明確に区別することは簡単ではなさそうですが、いくつか特徴がありそうです。

記録からみて(A)と考えられる百済寺・白山平泉寺(はくさんへいせんじ)を例にすると、寺域前面を横堀で遮断し、谷部にある坊院群の両側尾根部に段曲輪や砦を築いています。しかし、寺域内を区切るような堀切ははっきりしません。
比叡山については、江戸時代以前の遺構の特定が難しいようですが、やはり寺域を切断するような堀切は確認できないようです。
金剛輪寺(こんごうりんじ)(滋賀県愛荘町)では、坊院群両側の尾根部分に小規模な堀切を確認することができますが、寺域内にはありません。

金剛輪寺堀切
【金剛輪寺 堀切】滋賀県愛荘町
北尾根の堀切(竪堀)です。

敏満寺(びんまんじ)(滋賀県多賀町)のように、(A)には寺内ではなくその縁辺に城郭を構えるケースもありそうです。

これに対して、弥高寺(やたかでら)や佐味城(さびじょう)では、寺(城)域背後を堀切で断ち切っています。佐味城では、中心伽藍地と坊院群を横堀で遮断しており、また歓喜寺城では坊院間を堀切で分断しています。
(A)の百済寺や金剛輪寺は、寺域背後がまったくの無防備に見えますが、これは、聖域である霊山や奧之院との間に「結界」を設けることが信仰上許されなかったからではないかと思われます。

このあたりが(A)と(B)の判断基準になると思われます。以下の通りまめることができそうです。

城郭寺院まとめ

山岳寺院の削平地(坊院)
尾根に囲まれた谷内に造成。

城郭の削平地(曲輪)
山頂部から尾根筋に造成。堀切で遮断する。

山岳寺院と城郭には上記のような違いがあり、城郭化はおもに山頂から尾根部に対して行われますが、寺院が行う城郭化にはいくつかのタブーがありそうです。

武家改修寺院改修
 山頂部 削平地普請×
 中心伽藍地背 後遮断(堀切)×
 谷内両側尾根部 削平地普請
 谷内両側尾根部 遮断(堀切)
 谷内(寺域内) 遮断(横堀)×
 谷内(寺域)前面 遮断(横堀)
弥高寺大堀切
【弥高寺 城(寺)域背後大堀切】滋賀県東近江市
佐味寺横堀
【佐味城 横堀】奈良県御所市
筒井順慶改修説が有力視されています。
歓喜寺堀切
【歓喜寺 堀切】滋賀県大津市
比良山系の天台宗系山岳寺院跡です。

参考文献
・藤岡英礼「寺院による築城行為について」『和歌山城郭研究』第8号 2009年
・嶋田直人「百済寺遺跡の現状と問題点について」『忘れられた霊場をさぐる』3 栗東町教育委員会2010年
・福永清治・藤岡英礼「比叡山三塔十六谷調査資料集」『忘れられた霊場をさぐる』3 栗東町教育委員会2010年
・多賀町教育委員会『敏満寺の謎を解く』サンプラス出版2003年

観音正寺と観音寺城

六角氏によって城郭化が進められた観音寺城は、南斜面に無数のひな壇状平坦地があるものの、山頂とそれに続く尾根上部分(東尾根、三国間~淡路丸間)に曲輪がないことから、以前は尾根を土塁に見立てた六角氏独自の「異形の城」と考えられてきました。しかし、下記の蔭山論文以降、主要遺構群の多くを中世山岳寺院(観音正寺)とみる考えが主流になってきています。

観音寺城全体図
【観音寺城・観音正寺】滋賀県近江八幡市
伝本丸を「常御殿」、伝平井丸を「主殿」、伝池田丸を「会所」とする案は中井均さん、現本堂境内上部に中世の本堂を想定する案は藤岡英礼さんの論文にもとづいています。作図は管理人。
観音寺城伝後藤邸
【観音寺城・観音正寺】滋賀県近江八幡市
伝後藤邸の石垣と石段です。「後藤邸」は江戸時代の創作です。観音寺城(観音正寺)のひな壇状の平坦地を「曲輪」とみるか「坊院」とみるか、エリアごとに諸説あります。個人的には、伝後藤・進藤邸もベースは観音正寺坊院群だと思っています。

観音寺城は一応(B)に含まれますが、城郭として六角氏が新たに築いた主要曲輪群は、観音正寺中心部をさけた西尾根にあり、棲み分けができています。観音寺城と観音正寺の関係には諸説ありますが、少なくとも一定時期六角氏城館と観音正寺が並存していたことは間違いないと考えられます。

参考文献
・蔭山兼治「戦国期城郭 天台宗山岳寺院の利用法について」『文化史学』第50号 1994年
・中西裕樹「城郭遺構論からみた山岳寺院利用の城郭」『城館史科学』第2号 2004年
・藤岡英礼「山寺の景観変遷」『忘れられた霊場をさぐる』2 栗東町教育委員会2007年
・中井均「観音寺城の構造試論」『琵琶湖と地域文化』サンライズ出版2011年
・中井均「京極氏城館群の構造」『京極氏の城・まち・寺』サンプラス出版2003年
・中世学研究会『城と聖地 信仰の場の政治性』中世学研究3 高志書房 2020年

六角氏は延暦寺と密接な関係にあり、天文5年(1536年)の天文法華の乱では、協調して京都の法華宗二十一本山を焼き討ちしています。
領主が地元の信仰の聖地や宗教的権威を利用することはままあることで、丹後守護一色氏の今熊野城は成相寺寺内に築かれています。
また、京極氏の上平寺館(滋賀県米原市)では、「御屋形」の上部に「本堂」と「伊吹大権現」の社殿が並んでいます。

寺社勢力の強い地域での伝統的武家と寺社との密接な関係が見えてきます。

安土城と八幡山城

戦国期の城郭寺院とは性格が異なりますが、豊臣秀次の八幡山城(滋賀県近江八幡市)の山麓居館も、天台宗寺院である願成就寺の寺地でした。

天皇行幸を目的としたとの説もある、安土城(滋賀県近江八幡市)の大手道と伝秀吉邸などの曲輪群も、天台宗系寺院跡の再利用できないかと考えられています。

八幡山城山麓居館
【八幡山城】滋賀県近江八幡市
秀次館・山麓居館と大手道(旧参道)。
安土城大手道
【安土城 大手道】滋賀県近江八幡市・東近江市

参考文献
・中西裕樹「城郭遺構論からみた山岳寺院利用の城郭」『城館史科学』第2号 2004年年

城郭寺院(3)につづきます。


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