石垣の起源をさぐる(中世寺院の石垣)
寺社の技術
中世における幕府・武家の歴史を表側の歴史とするならば、寺社の歴史は裏面の歴史として扱われています。
しかし、当時の最先端の文化と技術は寺社のもとにありました。
鎌倉幕府は歴史書として「吾妻鏡」を残していますが、室町幕府の歴史書「後鏡」は、江戸幕府が公家と寺社の記録をもとに編さんしたものです。治世者側のフィルターのかかっていない、リアルタイムの記録(同時代史料)を寺社は数多く残しています。
伝統文化の起源の多くも寺社にありました。技術面においても、比叡山延暦寺をはじめとする有力寺社は、建築から石垣・庭園、さらには軍需にいたる先進技術を保有する技能集団を抱えていました。
湖東三山の百済寺、金剛輪寺(松尾寺)、西明寺(池寺)(滋賀県甲良町)でも、弓矢・槍・楯板加工・石垣普請・石塔製作などの技能集団をそれぞれがもち、有事には相互に「弓矢合力」が行われていたことが記録に残されています。
天正13年(1585年)に、秀吉が高野山に対して武具・鉄砲製造禁止の禁制を出しているように、有力寺社は軍事力だけでなく内部に軍需産業を抱えていました。
安土城天主建設の大工棟梁岡部又右衛門は、熱田神宮の宮大工の棟梁であり、法隆寺番匠(宮大工)の中井正吉は、豊臣大坂城や京都方広寺大仏殿の建設を担当し、その子中井正清は、家康のもと、大工頭として二条城、江戸城、駿府城、名古屋城、久能山東照宮、日光東照宮の建築を差配しています。安土城の瓦は、南都寺院の「奈良衆」にやらせています。
寺社と石垣
中世城郭と近世城郭の転換点にある「織豊系城郭」について、中井均さんは、「礎石建物」「瓦」「石垣」を指標としています。
これらの技術のひとつひとつは寺社によって培われてきたもので、「礎石建物」「瓦」は飛鳥時代にさかのぼります。石垣(石積み)についても、技術的な飛躍の画期は安土城にあったとしても、それをさかのぼる城郭の石垣は、近江の観音寺城や小谷城(滋賀県長浜市)、三好長慶の飯盛城(大阪府大東市・四條畷市)、織田信長の小牧山城(愛知県小牧市)や岐阜城(岐阜県岐阜市)、信州、播磨から備前、北九州など各地に点在しています。
信州の石積み(石垣)あたりを見ると、出自の多元性が感じられますが、おそらく多くは寺社発の技術にもとづくものと思われます。
石垣や土塁、堀といった施設は、弥生時代の倭国大乱期、天智・天武期など戦乱の時代に現れます。古代山城(朝鮮式山城/神籠石)の石垣と中近世城郭の石垣の間に技術の直接的な関係はないと思いますが、石積みや加工技術は、律令国家の官営工房、律令制衰退後は寺社によって引き継がれてきていると思います。
中世城館の石垣の中で、年代が特定できるものに8代将軍足利義政が文明14年(1482年)に造営した東山殿石垣(銀閣寺旧境内)があり、ここでは石割り技法である「矢穴」が確認できます。矢穴については、別にまとめてありますが、日本での矢穴技法は、現状で13世紀中ごろを初現とし、最初は石塔・石仏で確認することができます。やはり寺院由来の技術なのでしょう。
弘治 2年(1556年)には、六角義賢が金剛輪寺で寺普請を担当したとされる「西座衆」に対し、観音寺城の石垣普請を依頼した記録が金剛輪寺の『下倉米銭下用帳』に残っています。
滋賀県には、天台宗系の寺院(廃寺)が数多く残っていますが、2023年に発掘調査が行われた阿弥陀寺(滋賀県近江八幡市)では、坊院の石垣の裏込め石の間から、15世紀~16世紀前半の遺物が出土しているとのことです(2023年度現地説明会資料)。
寺社の盛期が応仁・文明の乱以前にあると考えると、寺院の石垣がさらにさかのぼることは確実です。
白山平泉寺の坊院群の石畳道や石塁の構築は、永享12年(1440年)ごろに開始されたと考えられています。滋賀県では、長法寺(滋賀県高島市)やダンダ坊(滋賀県大津市)などの石垣が応仁・文明の乱以前にさかのぼりそうです。
長法寺などの石垣の特徴は、勾配が垂直に近い「石塁」で、横長の自然石を横積みにしています。これは、観音寺城でも最古級の石垣ではないかと思われる、伝平井丸など西尾根曲輪群の石塁と共通しています。
なお、通説的には、安土城石垣が延暦寺関連の石工集団「穴太衆」とよって築かれたとされていますが、その根拠史料は18世紀の『明良洪範』以前にはないことから、江戸時代に生まれた伝承、ないしは穴太衆による「宣伝」だと考えられています(木戸 2003年)。
武家と寺社
中世において、最先端の文化と技術、そして軍事力、さらには金融業などによって巨大な経済力をもっていた寺社勢力ですが、戦国時代を牽引する存在になることはありませんでした。
中世の寺社は世俗的な権力であり、実質的な「大和国守護職」であった興福寺に代表されるように、寺社は「領主」であり僧兵は「武士」でした。紀伊は90%が寺社の所領荘園であり、比叡山延暦寺の強い影響下にあった近江も、一時期は約50%が寺社領でした。そこに朝廷・幕府の力がおよぶことはなく、代わって寺社が警察権を行使する治外法権の場でした。
さらに、延暦寺や興福寺などは、「神輿振り」で知られる朝廷への強訴など、朝廷や幕府とも武力抗争を繰り返し行っていました。
延暦寺は、天文5年(1536)年に近江の守護六角氏をともない京都の法華宗二十一本山を焼き討ちしています。また、浅井・朝倉氏と連合し織田信長と敵対したように、戦国大名と対等以上の存在であったことは間違いありません。
しかし、延暦寺は信長に対して抵抗もできずに敗れてしまいます。
古代の寺社は、鎮護国家を仮託された「公」の組織でした。中世の寺院は本寺中枢にこうした役割を残していたものの、延暦寺の「座主」、園城寺の「長吏」といった最高権力者は寺内には常駐せず、延暦寺の組織運営は「三塔十六谷」の「衆徒」(寺僧)の合議制のもと行われていました。
さらに、南北朝末以降、延暦寺で最も積極的に政治・軍事活動を担っていたのは、山麓の村近くに館(寺院)を構えていた「天台山徒(山法師)」でした。
山師は、妻帯を許された坊主であるとともに地侍(土豪)でもあり、なかでも有力山師は、坊主だけではなく多くの俗人の奉公人・同居人を抱え、数百から千人規模の兵力を動員する実力をもっていたようです。
15~16世紀になると、かれら在地勢力の中には、本寺から離脱して自立する動きが活発化します。なかには、守護側に付いたり真宗に改宗したり。衆徒の多くも山を下り、坂本(大津市)周辺に居住していたといわれています。
こうした、求心力を欠く体制組織と活動が天台勢力の衰退をもたらしました。
浄土真宗の蓮如などをのぞくと、延暦寺座主や興福寺別当などが戦国時代の表舞台に登場することはありません。結局中世寺社勢力が実態として世俗的であったにしても、宗派や大寺院のトップはやはり宗教的な権威であり、身分秩序も宗教的で、世俗的権力としての絶対的な統治者、統治組織は存在しませんでした。そのことが、戦国時代を勝ち抜けなかった大きな要因なのでしょう。
しかし、戦国期を、武家が旧体制の公家・寺社を圧倒した時代とみるのもまた違うような気がします。武家中心史観で描かれた中世史では、寺社は旧体制であり、浄土真宗本願寺教団による武力闘争は「一向一揆」と呼ばれます。妄信的な「反権力的宗教一揆」というイメージが植え付けられていますが、浄土真宗(教団は一向宗を自称していない)にしても江戸時代のキリシタンのように宗教として弾圧を受けてわけではありません。
江戸時代の身分制度のフィルターを通して見がちですが、武家にしても、中世後半期は、鎌倉幕府成立以降の幕府・御家人=「武家」がリセットされた時代です。伝統的寺社と伝統的武家の間にいた種々雑多の武力勢力が跳梁跋扈(ちょうちょうばっこ)していた時代で、江戸時代はそこから登場した勝者が新たな「武家」を形成したということだと思います。
江戸幕府は、諸大名・旗本各家の権威付けのため、系図を集成した『寛永諸家系図伝』を編さんしますが、編者の林羅山が備前岡山藩主池田光政から「池田家の遠祖を源頼光流とするよう」依頼されたとの記録が残っています。新井白石は、恒興の父恒利以前の系譜は不明としていますが、このことは光政自身も認めています。
大名家の出自の多くはこの時期に「伝統的武家」として造作されたものです。
2021年は、伝教大師最澄の千二百年の大遠忌にあたり、国立博物館では特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催され、立派な図録も刊行されました。しかし図録の解説の中で神輿振りから信長に至る歴史はわずか数行。
寺社勢力の中世史、これなくして中世史は成立しないと思うのですが、宗教史的には負の時代なのでしょうか。
2024年5月11日投稿