石垣の起源をさぐる
矢穴の編年 (2)
矢穴編年
前回、森岡秀人・藤川祐作論文の矢穴編年を簡単にまとめました。今回は、下記論文を参考にしつつ、個人的な感想を付け加えておきます。
矢穴編年概説
先Aタイプ・古Aタイプ
先Aタイプは中世石造物、古Aタイプは中世寺院・城郭系石垣の矢穴ですが、石造物の技術が石垣に転用されていく過程、時期は明らかになっていません。
そもそも石垣(石積み)の起源どこにあるのか。古代山城(朝鮮式山城/神籠石)の石垣と中世城郭の石垣の間には断絶がありそうですが、寺社では、基壇周りや擁壁、排水溝など、石造りの構造物は一般的にあったと思います。
ただし、石塔・石仏のように紀年銘はないし、更新(修復)されることもあって、年代の特定は難しいのだと思います。
年代が推定できるのものとしては、森岡・藤川論文が取り上げ、前回写真を引用した、京都東山殿石垣(銀閣寺旧境内)があります。これは、8代将軍足利義政が文明14年(1482年)に造営したものですが、寺院ではさらにさかのぼる可能性がありそうです。
白山平泉寺(はくさんへいせんじ)(福井県勝山市)の坊院群の石畳道や石塁の構築は、永享12年(1440年)ごろに開始されたと考えられています。また、長法寺(ちょうほうじ)遺跡(滋賀県高島市)も、その盛期から応仁・文明の乱(1467~ 1477年)以前にさかのぼる可能性が高いと考えられています。ただ、細かいことをいえば、石垣と矢穴の開始時期が同じかどうかはひとつひとつ検証が必要になりますが。
観音寺城技法(古Aタイプ)
矢穴列が連続せず一辺に対して1~4個(おもに2~3個)のものを「観音寺城技法」と呼んでいます。石材の大きさや形を整えることよりも、適当な大きさに半裁することを目的としており、土木技術への転用にともなう技法です。古Aタイプの多くはこの「観音寺城技法」です。
この「観音寺城技法」は、小堤城山城(滋賀県野洲市)や三雲城(滋賀県湖南市)など六角氏関係の城郭での確認例が多いように思えますが、一乗谷朝倉氏遺跡中の御殿(福井県福井市)など各地に拡散しています。年代的に見ても寺院発の技法であり。名称は「観音寺城」は本来適当ではありません。
bタイプ
Bタイプが主体となる石切場(石丁場)や石垣がないことから、おそらくイレギュラーなものだと思います。
「タイプ」をただの分類ではなく、時期・地域を示すものと考えるならば、今後の分類では、独立した「タイプ」からは外すことが適当ではないかと思われます。
Cタイプ
森岡秀人・藤川祐作氏は「18世紀後半以降に急増」ということで、ずいぶん新しくみているようです。実際、城郭や寺院でも、修復と思われるような石段などで見かけることがあります。
Cタイプの開始時期がどこにあるのか。
名古屋城(愛知県名古屋市)では、AタイプにCタイプが混在する場所もあり、Cタイプは修復にともなう補填と考えられますが、改修時期がわかりません。
盛岡城(岩手県盛岡市)では、築城から石垣の修復歴がある程度明らかになっています。これによると、延宝期から貞享年間(1673~1688年)の普請段階でCタイプに移行しているようです。
一方、徳川大坂城では、元和6年(1620年)から寛永6年(1629年)の間、3期にわたる普請が行われていますが、石丁場を含めCタイプはないようです。
地域差があるかもしれませんが、寛永期から延宝期の間あたりにAタイプからCタイプへの変化がありそうです。時期的に重なる長方形切石の布積み(整層積み)は、矢穴痕をあまり表面に残していないので、Cタイプの成立と関係するかもしれません。
ただ、盛岡城を含め、矢穴に興味をもってから、近世城郭の石垣をあまり見ていないので、また考えが変わるかもしれません。
AタイプからCタイプへの変遷が、技術的な革新によるものか、そのあたりも不明です。
一時期、A(・B)タイプが大割りでCタイプが小割りといった使い分けがあった可能性も完全には捨てきれませんが、幕末の四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)の石切場は、CタイプのみでA(・B)タイプは確認できませんでした。
Dタイプ
Dタイプも城郭で見ることがありますが、もちろん最近の修復です。
ただ、目立たないようにしてもらわないと下記の大坂城や田丸城は正直興ざめです。
2024年4月28日投稿