幕末の城 (2) 概要編

 

海防・攘夷そして内乱 主要地域の状況
(付) 幕末年表
魚見岳台場
(1)  【魚見岳台場(長崎県長崎市)】
文化9年(1812年)竣工。(A)(B)台場最上部にある御石蔵。

海防・攘夷そして内乱の時代

18世紀末から異国船が出没するようになると、江戸時代の「天下泰平」は大きく動揺します。他国を実感することによって改めて「国体」が意識されるようになり、それが尊皇攘夷運動、倒幕、戊辰戦争の内乱に連鎖していきました。そしてさまざまな「城郭」が築かれました。

「幕末の城」概要編2回目です。今回は、実際に歩いた遺跡(城堡)を中心に主要地域の海防と内乱(戊辰戦争)の歴史を備忘録的にまとめてみました。最後に年表を掲載してあります。

遺跡の詳細については、今後遺跡ごとに投稿していこうと思います。

海防の時代

長崎警備

海防が意識されるようになった時期は18世紀末以降ですが、長崎周辺では17世紀にも緊張期がありました。
発端は寛永14年(1637年)の島原・天草の乱で、幕府は乱後、さらなる禁教強化のため、ポルトガル船の来航を禁止します。ポルトガルは通商の存続を望み、再三にわたり長崎に来航するものの、幕府は、寛永17年(1640年)にマカオからの使者61名を処刑。自ら緊張状態を生んだ幕府は報復を恐れ、玄界灘沿岸を中心に福岡藩や小倉藩、柳川藩、唐津藩、中津藩などに異国船監視のための遠見番所を設置させました。遠見番所は、鎖国により多発していた洋上での「抜荷」対策でもあったようです(九州歴史資料館 2018年)。

一般的には、寛永16年(1639年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、嘉永7年(1854年)3月3日の日米和親条約締結までの215年間を「鎖国」と呼びます。
唯一他国との窓口となった長崎には、寛永18年(1641年)に西泊・戸町両番所が置かれ、佐賀藩と福岡藩が隔年交代制で警備にあたりました。
正保4年(1647年)には、ポルトガルの軍艦が長崎に来航し改めて通商再開を要求します。幕府は平戸藩に対して「石火矢台(いしびやだい)」(台場/砲台)の築造を命じ、承応4年(1655年)には長崎港口周辺に7か所の台場が完成します。これらは、その後に増設された台場に対して「古台場」と呼ばれています。

【フェートン号事件】

長崎警備が再び現実的な問題となったのは、文化5年(1808年)8月のフェートン号事件を契機とします。オランダ船拿捕を目的としたイギリス海軍のフェートン号は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り長崎へ入港しました。長崎警備は、佐賀藩と福岡藩が1年交替で担当していましたが、この時の佐賀藩は、守備兵を無断で減らすなど警備体制は形骸化していました。
このため、食料や飲料水の補給などフェートン号の一方的な要求に屈し、そのまま出航を許してしまいます。長崎奉行松平康英は自刃、佐賀藩は番所の番頭が切腹、藩主鍋島斉直も100日の閉門が命じられました。

これを契機として、改めて長崎警備の強化が図られ、文化5年に5か所の「新台場」が、続いて文化7年以降に4か所の「増台場(ましだいば)」が築かれました。これら古台場から増台場までは、幕府主導で築造されたことから「公儀御台場」と呼ばれています。
嘉永3年(1850年)から嘉永6年には、佐賀藩が長崎港外の佐賀藩領神ノ島や伊王島などに自費で台場を築きますが、これは「佐賀台場」と呼ばれています。

四郎ヶ島台場
(2)  【四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)】
佐賀藩が築いた「佐賀台場」のひとつ。嘉永6年(1853年)竣工。(A)(B)外周の石垣、(C)曲輪間をつなぐ埋門。

(写真1)の魚見岳(うおみだけ)台場(長崎県長崎市)は、文化9年(1812年)竣工の「増台場」、(写真2)の四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)は「佐賀台場」です。

なお、前回紹介した韮山代官の江川英龍と佐賀藩主鍋島直正は、強い協調関係にあったようで、英龍は、佐賀藩の反射炉や大砲製造、四郎ヶ島台場の築造などに協力しているようです。

※長崎警備については、「幕末の城(3)」でまとめ直しています。2026年8月29日追記。

北方警備

北海道周辺の北方防衛でも、数多くの「城郭」が築かれています。
18世紀末から19世紀になると、極東方面への勢力拡大を目論むロシアや、捕鯨を目的とした諸外国船が次々と蝦夷地近海に出没するようになりました。とくにロシアは、寛政4年(1792年)のアダム・ラクスマンの来航など、幕府との接触を図りました。このため、幕府は寛政11年(1799年)、松前藩から東蝦夷地を上知(あげち/幕府による収公)し、直轄地として各交易拠点に幕府の役人を置くとともに、盛岡藩と弘前藩に対し警備を命じるなど北方への警戒を強めました。

【文化露寇】

文化元年(1804年)には、ロシアのニコライ・レザノフとその配下は、幕府の開国拒絶を受け、報復として樺太・択捉両番所や利尻島・礼文島などを襲撃しました。「文化露寇」です。
これを受け、幕府は文化4年(1807年)に松前藩を陸奥梁川に転封し、蝦夷地全体を幕府直轄として北方の防衛にあたりました。東北諸藩に対して警備を目的とした出兵を命じ、外国船を警戒するための拠点として陣屋を築かせました。

松前城
(3)  【松前城(北海道松前町)】
安政元年(1855年)竣工。

緊張が緩和した文政4年(1821年)には、松前藩の復帰を許しますが、ペリー来航などによって諸外国との緊張が再び高まった安政2年(1855年)には、松前城下と和人地(松前藩が定めた和人の定住地)をのぞく東西蝦夷地を再び幕府直轄地とし、松前藩と仙台藩、盛岡藩、弘前藩、久保田藩、さらには会津藩と庄内藩に対して沿岸の警備義務を割り当てました。各藩は計20か所以上の陣屋を築いて沿岸の警備にありました。
松前城(福山城)(北海道松前町)(写真3)は、安政元年(1855年)に北方警備の拠点として松前藩が幕命によって築造しました。これは、福山館を城郭として改築したもので、藩主松前家はこのとき初めて城持大名になりました。

戸切地陣屋
(4)  【松前藩戸切地陣屋(北海道北斗市)】
安政2年(1855年)竣工。(A)(B)稜堡南辺部、(A)堀奥が稜堡先端部。(C)火薬庫。
戸切地陣屋現地解説版
(5)  【松前藩戸切地陣屋 現地解説板(北海道北斗市)】

(写真4・5)は、安政2年(1855年)に完成した日本で最初の稜堡式城堡である戸切地(へきりち)陣屋(北海道北斗市)です。松前藩が築きました。佐久間象山に師事した松前藩士藤原重太(主馬)(松前藩)の設計です。

白老仙台藩陣屋
(6)  【白老仙台藩陣屋(北海道白老町)】
安政3年(1856年)竣工。(A)外曲輪虎口、外枡形と蔀土塁。(B)内曲輪土塁、(C)仙台藩白老元陣屋資料館模型。

(写真6)は、仙台藩の元陣屋、白老(しらおい)仙台藩陣屋(北海道白老町)です。安政3年(1856年)竣工です。北方警備のために築かれた陣屋には、各藩それぞれの拠点となる「元陣屋」と支所となる「出張(でばり)陣屋」がありました。仙台藩には、根室と広尾に出張陣屋が築かれました。

五稜郭(北海道函館市)は、箱館奉行所として築かれました。安政元年(1854年)3月、日米和親条約の締結によって箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上知し、同年6月に箱館奉行を設置しました。設計は、松前藩士藤原重太と佐久間象山の五月塾で同期同門であった武田斐三郎(伊予藩→幕臣)です。設計にあたっては、箱館に来航したフランス海軍艦コンスタンティーヌ号の艦長であったルイ・ド・モントラベルの情報・教授によるとの説がありますが、モントラベルの経歴からみると、陸上要塞の築造・運営に関わる知見はなかった可能性が高いとのことです(時田太一郎 2025年)。
幕府は、五稜郭築造と同時に、弁天(岬)台場(北海道函館市)など沿岸台場の設置も進めました。
戸切地陣屋、五稜郭、弁天台場については、前回の投稿を合わせて参考にしてください。

江戸湾防備

幕府が海防に対し危機感をもち取り組むようになったのは、文化3年(1806年)から翌年に起こったロシアによる蝦夷地侵攻と、文化5年(1808年)8月の長崎港でのフェートン号事件を契機とします。
江戸湾防備の開始は文化7年(1810年)で、会津藩を相模湾側、白河藩を房総側に配置し、台場を築かせています。
しかし、それでも身近な問題としての切迫感はなかった可能性があります。

【黒船来航】

幕府を驚愕させたのは、やはり嘉永6年(1853年)のペリー艦隊来航です。6月3日、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に侵入します。
老中首座の阿部正弘は、海防に強い問題意識をもち早くから幕府に対して海防の建議を行っていた韮山代官の江川英龍を「勘定吟味役格兼鉄砲方」として登用し、台場の築造位置の選定や大砲鋳造などの任にあたらせました。
英龍の取りまとめた海上台場築造の建議書では、第1案を相模国走水(神奈川県横須賀市)と上総国富津(千葉県富津市)の間、第2案を羽田・川崎沖を防衛ラインとしましたが、両案はペリーがアメリカ合衆国の国書の回答を受け取りに再来航するまでの期限にとても間に合わないことから、現実的な第3案の品川沖が台場築造場所に決定されました。これが品川御台場(内海御台場/品海砲台)です。
老中阿部正弘による決定は嘉永6年7月23日で、普請を命じられたのは、英龍の他に、勘定奉行の松平近直と川路聖謨、勘定吟味役の竹内保徳、目付の堀利忠でした。この5名を中心に、100名をこえる幕府役人が携わったようです。
決定から設計、測量、仕様書の作成、工事の入札がほぼ同時に進められ、ペリー来航から2か月に満たない8月25日には、第一台場、第二台場、第三台場の埋め立て工事がスタートしています。
工事は諸大名ではなく、享保期以降採用されるようになった請負制で、幕府作事方大棟梁平内大隅延臣らが実施しました。平内家は、鶴家、甲良家とともに、幕府関係の江戸城や日光東照宮、増上寺などの建設や修繕を行う作事方大棟梁を代々世襲していました。設計は江川一門が担当しましたが、実施設計は作事方で行っていたのかもしれません。資材は、
幕府直轄領から集められました。
驚くべきスピードと組織力ですが、それだけ幕府は危機感をもっていたということだと思います。

品川第三台場
(7)  【品川第三台場(東京都港区)】
嘉永7年(1854年)竣工。レインボーブリッジから。
品川第六台場
(8)  【品川第六台場(東京都港区)】
嘉永7年(1854年)竣工。レインボーブリッジから。立ち入りはできません。

品川台場は、品川沖から深川洲崎(東京都江東区東陽一丁目)にかけての海上に11基、沿岸台場の品川御殿山下台場(東京都品川区)(写真9)を含め12基が計画されました。台場群が連携して防備にあたる「間隔連堡」です。「間隔連堡」については、前回の投稿を参考にしてください。
工事は昼夜兼行で進められ、翌嘉永7年7月までに第一・第二・第三台場が、12月までに第五・第六・御殿山下台場が竣工、第四・第七台場は起工したものの途中で中止になりました。計画12基のうち完成は6基でした(図1)。現存するのは、このうち第三台場(写真7)と第六台場(写真8)です。
ペリーが再来航した嘉永7年1月16日には間に合っていませんが、嘉永6年11月14日付けで、第一台場(川越藩)、第二台場(会津藩)、第三台場(忍藩)、第五台場(庄内藩)、第六台場(松代藩)、御殿山下台場(鳥取藩)の警衛担当が決定され、未完成のまま配備されていたようです。

品川台場配置図
(図1)  【旧国鉄士幌線 糠平湖周辺図】
背景図はカシミール3Dで作成。

なお、江川英龍は、安政2年(1855年)1月、第五・第六・御殿山下台場が竣工してほどなく急逝します。韮山代官であったことから直轄地での資材調達にも関わっていたようで、多忙を極めた結果だったのかもしません。
英龍が手がけた韮山反射炉は、後を継いだその子英敏が完成させました。また、英龍がかねがね主張していた農兵制は、英敏の次代英武の文久3年(1863年)になってようやく幕府が許可をして実現することとなりました。

英龍は勝海舟に比べると知名度こそありませんが、少なくとも一時期は幕府の海防・軍事を牽引していました。英龍の開設した韮山塾の門下生には、薩長の藩士も多数いたことから、存命であったらどういった立ち位置で維新を迎えたのか、興味が尽きません。

御殿山下台場跡
(9)  【御殿山下台場跡(東京都品川区)】
(A)(B)台場の記念碑と第二台場にあった品川灯台のレプリカ。(C)台場東隅部、以前は路地に石垣が顔を出していたそうです。

【御殿山下台場跡】
東京都品川区東品川1-8-30
品川区立台場小学校入口に記念碑があります。台場は、輪郭が道路として残っています。品川灯台の現物は愛知県の明治村に移築されています。

大坂湾防備

大坂湾周辺には、全国約1,000か所の台場の約10%が築かれました。これは、大坂湾(摂海)防備が朝廷のある京都警衛に直結すると考えられていたからです。

【プチャーチン大坂湾侵入】

朝廷と幕府を驚愕させたのが、嘉永7年(1854年)10月のロシア使節プチャーチンのディアナ号事件です。停滞する条約交渉を進めようとしていたプチャーチンは、京都が聖域であることを知った上で、長崎から大坂湾に回航し天保山沖に停泊しました。異国船の突如の侵入は、幕府、朝廷に大きな衝撃を与え、大坂湾そして京都は一気に緊迫化し、「摂海防禦」が強く叫ばれるようになりました。プチャーチンからみると思惑通りで、その後日露和親条約を締結することとなりました。
幕府は、京都と大坂湾防備の強化を図ることとし、京都に関しては、当時警衛にあたっていた彦根藩に加え小浜藩と大和郡山藩が交代で兵を出すこと、篠山藩、淀藩、膳所藩、高槻藩には外国船来航時の京都七口の警衛を、そして大坂湾に関しては、紀伊藩、徳島藩、明石藩に台場の築造を命じました。

海防をめぐる政局は、江戸湾から大坂湾に移りました。

高崎台場
(10)  【徳島藩高崎台場(兵庫県洲本市)】
文久元年(1861年)。(A)生石岬展望台から高崎台場全景、(B)北東隅石垣、(C)北西隅石垣。
高崎台場石垣
(11)  【徳島藩高崎台場(兵庫県洲本市)】
東辺石垣。
松帆台場
(12)  【徳島藩松帆台場(教護県淡路市)】
文久元年(1861年)竣工。(A)火薬庫跡、(B)外縁部、(C)土塁。

(写真10・11)は、紀淡海峡の高崎台場(兵庫県洲本市)、(写真12)は、明石海峡の松帆台場(兵庫県淡路市)で、ともに徳島藩が築造しました。とくに高崎台場は大規模で、将軍家茂が視察に訪れています。明治期には陸軍が砲台に転用しています。

攘夷運動から戊辰戦争

安政5年(1858年)、幕府がアメリカ、英国、フランス、ロシア、オランダとの間に修好通商条約を締結すると、下関戦争など一部の暴発はあったものの対外関係は沈静化していきます。一方で、攘夷論は外形的には対外関係でありながら、国内により深刻な対立を生み出しました。

安政7年(1860年)3月3日、日米修好通商条約を主導した幕府大老井伊直弼が桜田門外の変で横死すると幕府の権威は失墜し、朝廷内では急進的な攘夷論が主流となり、幕府に対して攘夷断行を迫りました。
こうした状況を受け、文久3年(1863年)3月、将軍徳川家茂は朝廷内の攘夷論を抑え公武合体を進めるために上洛します。朝廷側の求めに応じたものですが、幕府側の目論みは、幕府こそが朝廷の守護者であることを国内外に示すことで、上洛に合わせ幕府主導の京都警衛と大坂湾防備が大幅に強化されました。
文久2年から翌年にかけて、徳川慶喜、松平春嶽らが大坂湾を巡視。老中格小笠原長行を摂海台場築立用掛に任命し、幕府自ら和田岬砲台(兵庫県神戸市)・湊川崎砲台(兵庫県神戸市)・西宮砲台(兵庫県西宮市)(写真13)・今津砲台(兵庫県西宮市)や天保山台場(大阪府大阪市港区)などの西洋式の台場(砲台)を築造します。

西宮砲台
(13)  【西宮砲台(兵庫県西宮市)】
慶応2年(1866年)竣工。他に和田岬砲台が現存しますが、和田岬は見学に制限があり、予約が必要です。

これらのうち、和田岬・湊川崎・西宮・今津砲台は、中央に「石堡塔(せきほとう)」と呼ばれる石造砲塔を備えています。世界史で「マルテロ・タワー」と呼ばれる砲塔をもつ台場は、日本ではこの4か所だけです。これは、当時海軍奉行並として来坂していた勝海舟の部下佐藤与之助(政養)によって設計され、新たに編成された「御台場築立御用掛」が工事を担当しました。これらは、文久3年(1863年)に着工し慶応2年(1866年)に完成します。

ランドマークとなる石堡塔の採用には、軍事面とともに幕府そして将軍の武威を示す装置としての役割もあったと考えられています。

【転機 文久3年(1863年)】

将軍家茂が上洛した文久3年(1863年)は、過激な攘夷論から一転内戦に向かう大きな転換点の年となりました。
家茂は、朝廷の急進的攘夷派に押され、攘夷の実行を5月10日と決し、同日、長州藩は下関(馬関)海峡を封鎖。航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えました。しかし、翌月には、報復としてアメリカ・フランス軍艦が海峡内の長州軍艦や台場を砲撃し、壊滅的打撃を与えました。報復攻撃は、翌年にも行われ、長州藩砲台は占拠され徹底的に破壊されました。(写真14)は、長州藩壇ノ浦砲台(山口県下関市)です。

壇ノ浦砲台
(14)  【長州藩壇ノ浦砲台(山口県下関市)】
文久3年(1863年)竣工。

文久3年7月には、前年の生麦事件を契機とし、イギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島湾で激突します。薩英戦争です。薩摩藩も善戦しますが、城下の約10%が焼失するなど被害は甚大でした。(写真15)は、薩摩藩天保山砲台(鹿児島県鹿児島市)です。

天保山砲台
(15)  【薩摩藩天保山砲台(鹿児島県鹿児島市)】
嘉永3年(1850年)竣工。 

列国の軍事力を思い知ると、攘夷の機運は急速に後退していきます。三条実美ら攘夷急進派公家と長州藩は、天皇による攘夷親征を画策するなど暴走しますが、これは孝明天皇の意に沿うものではなく、文久3年8月18日、薩摩藩や会津藩によって三条実美ら急進派公家と長州藩は京都から排除されました。「八月十八日の政変」です。

内乱の時代の城

攘夷決行からわずか数ヶ月後の八月十八日の政変で政局は大きく変わり、内乱の時代に突入していきます。
長州藩は、反撃を試みた翌元治元年(1864年)7月の禁門の変でも敗れ「朝敵」となり、その後の幕府による長州征伐につながっていきます。しかし、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐で幕府軍が長州藩に敗れると、幕府の権威は失墜し、内乱は倒幕となり拡大していきました。

将軍家茂の上洛から始まる激動の文久3年(1863年)から、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還を経て、旧幕府軍の箱館政権が五稜郭で無条件降伏をした明治2年(1869年)5月18日まで、わずか6年間でした。
文久3年以前には、海防にかかわる城郭や台場、前稿の冒頭で触れた攘夷戦を想定した長州藩支藩長府藩の勝山御殿(山口県下関市)などが築かれましたが、文久3年以降、とくに戊辰戦争は、戦局が一方的で、新たな城郭が築造(着工)されることはほとんどありませんでした。それでも、いくつか動乱期を反映した城郭(台場/陣地)が存在します。

京都周辺

(写真16、図2)は、淀川の河川台場である楠葉(くずは)台場(大阪府枚方市)です。稜堡式城堡です。
京都守護職の会津藩松平容保が計画から設置に至るまで主体的に関与した台場です。
文久2年(1862年)12月、このころの朝廷内は、三条実美などの急進的攘夷論者が中心になって幕府に攘夷決行を迫っていましたが、一方で攘夷に対する諸外国の報復攻撃を危惧する朝廷は、淀川台場構想について薩長土他九藩と会津藩にそれぞれ諮問します。
各藩とも、浅瀬の多い淀川を外国船が遡上してくることには懐疑的で、会津藩も翌年2月に否定的な答申を行い、ここで一端淀川台場計画は中止になります。

楠葉台場
(16)  【楠葉台場(大阪府枚方市)】
慶応元年(1865年)竣工。)
楠葉台場全体図
(図2)  【楠葉台場「河州交野郡楠葉村関門絵図一分計」(大阪府枚方市)】
慶応元年(1865年)竣工。現地案内板に加筆。

【楠葉台場】
大阪府枚方市楠葉中之芝二丁目
国指定遺跡で、楠葉台場跡史跡公園として整備されています。私が行った2022年当時、専用駐車場はありませんでした。現状不明。

しかしその後、容保は幕府に対して淀川台場構築の建白書を提出。幕府もこれを受け入れ、勝海舟の監督下で西洋兵学に詳しい広瀬元恭・栗原唯一が設計を担当することとなりました。一時期、容保が京都守護職を離れていたことから着工は遅れましたが、元治元年(1864年)5月から工事が進められ、慶応元年(1865年)5月に完成。対岸の梶原台場(大阪府高槻市)も7月には完成しました。
容保の心変わりは、外国船対策を建前としつつ、長州藩を中心とした尊攘派志士の封鎖を目的としていたと考えられています。楠葉台場は京街道を、梶原台場は西国街道を内部に取り込み、関門(関所)としての機能をもっていました。

なお、大政奉還後の慶応4年(1868年)1月、旧幕府軍は朝廷へ「討薩」を上表するために大坂城から京都へ進軍し、鳥羽伏見の戦いが勃発します。ここで敗れた旧幕府軍は、橋本陣屋と楠葉台場に陣取り体制の立て直しを図ろうとしますが、北側に防備をもたない楠葉台場は機能せず、逆にここを占拠した薩長軍が大坂城攻めの拠点としました。

会津戦争

慶応4年(明治元年)(1868年)の会津戦争では、既存の会津若松城(鶴ヶ城)(福島県会津若松市)、白河小峰城(福島県白河市)、二本松城(福島県二本松市)以外に、母成峠(福島県猪苗代町)(写真17)など会津国境地帯に新たな陣地が築かれました。このうち、馬入峠(ばにゅう)防塁(福島県郡山市・天栄村)は稜堡式の特徴をもちます(写真18、図3)。旧幕府歩兵奉行大鳥圭介の回顧記『南柯紀行』によると、馬入峠防塁は旧幕府工兵方吉沢勇四郎と会津工兵隊が、慶応4年5月に築いたとのことです(広長秀典他 2017年)。
会津国境は、同年8月21日の母成峠の戦い(写真17)で新政府軍に突破されました。

母成峠防塁
(17)  【会津藩母成峠防塁(福島県猪苗代町)】
慶応4年(1868年)竣工 
馬入峠防塁
(18)  【会津藩馬入峠防塁(福島県郡山市・天栄村)】
慶応4年(1868年)竣工。
馬入峠防塁図
(図3)  【会津藩馬入峠防塁(福島県郡山市・天栄村)】
(広長秀典他 2018年)からの転載。一部加筆。

【馬入峠防塁】
福島県郡山市・天栄村
福島県道235号羽鳥福良線の郡山市・天栄村市村境にあります。
県道の両側に土塁が展開しています。

箱館戦争

蝦夷地には、先に書いたように北方警備にかかわる多数の陣屋、台場が築かれましたが、松前から箱館周辺の松前城(北海道松前町)、戸切地(へきりち)陣屋(北海道北斗市)、五稜郭(北海道函館市)、弁天台場(北海道函館市)などの城堡群は、明治元年(1868年)から明治2年の旧幕府軍(蝦夷共和国(箱館政権))と新政府軍の箱館戦争で実戦使用されることになりました。

開陽丸
(19)  【開陽丸記念館(北海道江差町)】
榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊の旗艦。明治元年(1868年)11月に江差沖で座礁・沈没。

(写真18)の四稜郭は、この時旧幕府軍によって新たに築造された陸上台場で、同じ稜堡式の五稜郭や戸切地陣屋とは異なる経緯で築かれました。この時期、旧幕府軍によって築造(改築)された台場には、七稜郭とも称される七飯(峠下)台場(北海道七飯町)(八巻孝夫 2017年)や、矢不来台場(北海道北斗市)(八巻孝夫 2018年)などがあります。

四稜郭
(20)  【四稜郭(北海道函館市)】
明治2年(1869年)竣工。(A)南東辺、(B)虎口、(C)「箱館戦争図幅」(現地解説板から)。 

稜堡式の陣地は、西南戦争でも築かれているようですが、まだ歩いたことがありません。
城郭の歴史はここで終焉するようにもみえますが、その系譜は陸軍の砲台につながっていきます。

江戸時代までは、海中に造られても、陸上に造られても大砲を備える場所を「台場」といっていましたが、明治以降陸軍は、沿岸にあるものを「砲台」、人工島に造ったものを「海堡」、野戦砲台を「堡塁」と呼称を区別するようになります。とくに「堡塁」は城郭そのものです。

これらを含め、今後遺跡ごとに紹介していきたいと思います。

(動画)  【幕末の城 ダイジェスト】

海防・攘夷・内乱 年表

本稿に関連する出来事をまとめてみました。
(長崎)長崎警備、(北方)北方(蝦夷)警備、(江戸)江戸湾防備、(大坂)大坂湾・京都防備

慶応17年1612年幕府直轄地に禁教令。
慶応18年1613年禁教令全国に発布。
元和2年1616年明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限る。
寛永10年1633年幕府が特別に認可した奉書船以外の渡航を禁じる。海外に5年以上居留した日本人の帰国を禁じる。
寛永12年1635年長崎外国船の入港を長崎のみとする。
寛永13年1636年長崎長崎、出島完成。
寛永14年1637年島原・天草の乱、翌年2月まで。
寛永16年1639年ポルトガル船の来航禁止(鎖国体制完成)。島原・天草の乱への関与を疑う。
寛永17年1640年長崎通商再開依頼のため来航したポルトガル人61名を処刑。
寛永18年1641年長崎オランダ商館を平戸から長崎出島に移す。
寛永18年1641年長崎長崎警備を佐賀藩と福岡藩の隔年交代制とする(幕末まで)。
正保4年1647年長崎ポルトガルの軍艦が長崎に来航(黒船来航)。
承応2年1653年長崎長崎湾港に台場(古台場)設置。平戸藩築造。承応4年完成。
寛政4年1792年北方ロシア使節アダム・ラクスマンが来航。
寛政11年1799年北方東蝦夷地を幕府直轄地として盛岡藩と弘前藩に警備を命じる。
文化元年1803年ロシア使節ニコライ・レザノフ、長崎に来航し通商を要求。
文化3年1806年文化の薪水給与令。対外緩和策。「文化露寇」で即撤回。
文化3年1806年北方 レザノフの通商要求が拒絶されたことに対する報復として、配下のニコライ・フヴォストフが樺太・択捉両番所、利尻島・礼文島などを襲撃(「文化露寇」)。文化4年まで。
文化4年1807年北方松前藩を陸奥梁川に移封し、蝦夷地全体を幕府直轄として東北諸藩に警備を目的とした出兵を命じる。
文化5年1808年長崎フェートン号事件。長崎港に侵入したイギリス海軍フェートン号に対し何らの対処もできず。
文化5年1808年長崎長崎湾口5か所に「新台場」築造。
文化6年1809年大坂大坂湾防備開始。当初は尼崎藩・岸和田藩・高槻藩が担当。
文化7年1810年江戸江戸湾防備開始。会津藩を相模湾側、白河藩を房総側に配置し、台場を築造。
文政4年1821年北方松前藩復帰。
文政8年1825年異国船打払令
天保12年1841年幕府、高島秋帆の高島流砲術を採用。
天保13年1842年アヘン戦争で清国の敗戦が伝わる。異国船打払令を廃止して、薪水給与令。対外緩和策。
嘉永3年1850年長崎湾口3か所に佐賀藩が独自に「佐賀台場」を築造開始。四郎ヶ島台場(完成1853年)など。
嘉永6年1853年江戸ペリー来航。6月3日、ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、江戸湾入口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊。
嘉永6年1853年江戸7月、品川沖に海上台場築造決定
嘉永6年1853年幕府、海軍の創設・強化の必要性から、大船建造の禁を廃止。
嘉永7年1854年江戸1月16日、ペリーが再来航。日米和親条約を締結。
嘉永7年1854年大坂プチャーチン大坂湾来航。日米和親条約締結を知ったロシア使節のプチャーチンのディアナ号が、長崎から回航し大坂湾の天保山沖に侵入。
安政元年1854年日露和親条約を締結。
安政2年1855年幕府、海軍士官養成のため長崎海軍伝習所設立。その後築地軍艦操練所へ。
安政2年1855年北方最初の西洋式稜堡式城堡(城郭)である松前藩戸切地陣屋竣工。
安政2年1855年北方松前城下と和人地をのぞく東西蝦夷地を再び幕府直轄地とし、松前藩と仙台藩・盛岡藩・弘前藩・久保田藩・会津藩・庄内藩に対して沿岸の警備義務を割り当てる。
安政5年1858年日米修好通商条約締結。イギリス、フランス、ロシア、オランダとも(安政の五カ国条約)。
安政7年1860年桜田門外の変、井伊直弼横死。
文久3年1863年朝廷の攘夷実行要求に対し、将軍徳川家茂上洛。
文久3年1863年攘夷実行の勅命。家茂は5月10日を決行日とする。
文久3年1863年5月10日、長州藩攘夷実行、下関戦争。長州藩下関(馬関)海峡を封鎖。
文久3年1863年薩英戦争。前年の生麦事件を契機とし、イギリス艦隊と薩摩藩が鹿児島湾で激突。
文久3年1863年八月十八日の政変。攘夷急進派公家、長州藩が朝廷から排除される。
元治元年1864年禁門の変。長州藩、会津・桑名・薩摩藩などに敗れ「朝敵」となる。
元治元年1864年下関戦争。イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊が長州藩砲台を占拠し徹底的に破壊。
元治元年1864年第一次長州征伐。
慶応2年1866年第二次長州征伐。将軍家茂死去により終戦。実質幕府軍敗退。
慶応2年1866年北方五稜郭完成。新たな箱館奉行所。
慶応3年1867年10月14日、大政奉還。
慶応4年1868年1月、鳥羽・伏見の戦い。
慶応4年1868年4月11日、江戸城無血開城。
慶応4年1868年8月、会津戦争、会津国境での戦い。母成峠防塁など。
明治元年1868年9月22日、会津藩他旧幕府軍降伏、若松城(鶴ヶ城)落城。
明治元年1868年10月26日、榎本武揚他旧幕府軍五稜郭占拠。
明治2年1869年5月18日、旧幕府軍(箱館政権)無条件降伏。

参考文献は「幕末の城投稿一覧」にまとめてあります。
次回からは、個々の遺跡を紹介します。

魚見岳台場・四郎ヶ島台場2024年4月、松前城・四稜郭・開陽丸記念館2023年6月、白老仙台藩陣屋2022年6月、品川台場2024年1月・2025年10月、御殿山下台場2025年10月、高崎台場2024年10月・2026年3月、松帆台場2025年3月、西宮砲台2026年3月、壇ノ浦砲台2019年11月、天保山砲台2024年1月、楠葉台場2022年12月、母成峠防塁・馬入峠防塁2022年11月現地、2026年8月16日投稿。