観音寺城 (3)

 

観音正寺と観音寺城 (1)

城郭寺院

観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)の遺構群について、『五個荘町史』(1992年刊)では「山頂とそれに続く尾根部分に曲輪がないこと、密接な曲輪群の多くが縦横に連絡し合って碁盤目状に配置されていること、これら二点に加えて、本丸伝承地が西に偏っているため、縄張の中心が定めがたいこと」から「通常の山城の縄張と比べてかなり異様である」としています。

観音寺城模型
【観音寺城模型】滋賀県立安土城考古博物館
観音寺城・観音正寺は、繖山主稜線の南側斜面に築かれています。

以前は、これこそが六角氏の城造りの極意?であると私も思っていましたが。
研究者の間では、蔭山兼治氏の論文以降、観音寺城の曲輪群と考えられていた削平地の多くは中世山岳寺院、観音正寺の坊院群であり、観音寺城はこれと並存し、一部を取り込んだ「城郭寺院」とする考えが主流になってきています。

「城郭寺院」とは、寺院をベースに築かれた城郭であり、とくに比叡山延暦寺の影響力の強かった近江周辺では、相当数確認することができます。
天台・真言宗の密教系有力寺院では、本寺(中心伽藍)が多くの末寺(坊院)を従えていますが、谷内の直線的道路(参道)に沿ってひな壇状の削平地が並ぶ状況はまさに「坊院群」そのものです。観音正寺では4単位の坊院群(A~D)があり、こうした坊院群は「谷」と呼ばれています。
「城郭寺院」「坊院」、本寺と坊院群が一体となった「一山寺院」などは、別の投稿でまとめています。こちら を参考にしてください。

観音正寺観音寺城
【観音正寺坊院群】
藤岡図をもとに作成しました。観音寺城中心部、観音正寺坊院群などの図化はオリジナルです。寺伝では33坊、あるい「72ヶ坊3院」といった伝承があるようですが、削平地の数はそれ以上ありそうです。
繖山登山道
【観音寺城・観音正寺地形図】
県報告図とカシミール3D地形図を合成しました。

繖山には、多くの登城(参詣)ルートがあります。林道を利用することが多いと思いますが、山麓からの登山道としては、赤坂道と薬師口道が良く整備されています。薬師口道は、桑実寺を経由する際に入山料300円が必要です。センサーで探知されます。御屋形跡と大石垣を結ぶ表坂道は、石段の多い赤坂道よりも歩きやすい道です。
本谷道は、現在林道上部について民間ベースで伐採など整備が進められています。くわしくは こちら

(左上) 表林道(表参道)駐車場、(右上)裏林道(裏林道)駐車場、(左下)裏林道ゲート手前登頂者用駐車場(無料)、(右下)石寺楽市参拝者用駐車場(無料)。
林道は通行料600円(普通車)が必要です。冬期通行止め期間があるので、観音正寺HPをご確認ください。裏林道山上駐車場から本堂まではほぼ登りがないのに対して、表林道山上駐車場から本堂までは石段約400段の登りがあります。ただし、とくに裏林道はすれ違いが可能な場所が少なくので運転の難易度は高めです。林道の通行可能時間は8:00~16:30です。早朝から歩きたい場合は、裏林道ゲート手前駐車場、石寺楽市駐車場、安土城考古博物館駐車場が利用できます。標高差が最も少ないのは裏林道ゲート駐車場で、観音正寺までなら150mです。

観音正寺

観音正寺(滋賀県近江八幡市安土町石寺)は、天台宗系単立の寺院です。山号は繖山(きぬがささん)で、標高433mの繖山(きぬがさやま)の山頂南側の標高370m付近に現在本堂を構えています。なお寺号について、中世史料では「観音寺」が多いようですが、ここでは「観音正寺」で統一しておきます。

寺伝による創建は、推古天皇13年(605年)に聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるとのことです。
1993年の火災で、本堂や本尊千手観音立像、聖徳太子の創建伝承にかかわる「人魚のミイラ」などを失ってしまいました。火災前の旧本堂は、彦根城の欅御殿を移築したもので、本尊の千手観音立像は明応6年(1497年)の銘をもち、国重要文化財に指定されていました。

観音正寺は、西国三十三所観音霊場第32番札所です。西国三十三所巡礼は、日本で最も歴史がある巡礼で、確実なところでは嘉元元年(1303年)に宇多法皇が西国三十三所観音霊場に誦経を命じています。さらに近江国園城寺僧行尊(1057~1135年)の巡礼記、園城寺僧覚忠による応保元年(1161年)の巡礼記があり、三十三所の寺院の組み合わせはこの当時から変動していないとのことです。宗派は、真言宗、天台宗、法相宗で鎌倉新仏教を含んでいません。

西国三十三所は、青岸渡寺(和歌山県那智勝浦町)、紀三井寺(和歌山県和歌山市)、粉河寺(和歌山県紀の川市)、壺阪寺(奈良県高取町)、長谷寺(奈良県桜井市)、興福寺南円堂(奈良県奈良市)、醍醐寺(京都市伏見区)、石山寺(滋賀県大津市)、園城寺観音堂(滋賀県大津市)、清水寺(京都市東山区)、圓教寺(兵庫県姫路市)などで、これらの寺院は、多数の子院を従えた地域の有力寺院です。

観音正寺
【現観音正寺境内】
2022年3月撮影。現在の境内地は、江戸時代の再建時のものです。
奧之院

信仰の場としての繖山の歴史は、さらにさかのぼる可能性があります。
繖山山中には、各所に信仰の対象となるような巨石(磐座(いわくら))があり、現在「奧之院」とされている磐座の岩窟には、平安時代の後期の作とされる磨崖仏5躰(7躰とも)が刻まれています。以前は禁足地だったと思うのですが、最近は拝観が可能とのことで撮影してきましたが、彫りが浅く表面の劣化も進んでいて、肉眼での確認は難しい状況です。

【観音正寺奧之院】動画
観音正寺奧之院磨崖仏
【奧之院磨崖仏】
左側4躰はなんとなく分かりますがどうでしょう。
観音正寺奧之院磨崖仏2
【奧之院磨崖仏 部分】
色調・コントラストを強めに補正してみました。
奧石神社

万葉の昔から歌に詠まれてきた「老蘇森」(おいそのもり、国史跡)にある奥石神社(おいそじんじゃ)(滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)は、繖山をご神体としていたとの説もあるそうです。
奥石神社も、沙沙貴神社と同じ、延長5年(927年)にまとめられた「延喜式神名帳」(えんぎしき じんみょうちょう)に記載のある「式内社」です。

奧石神社
【奧石神社 拝殿】滋賀県近江八幡市安土町東老蘇
「老蘇森」に鎮座します。本殿は、天正9年(1581年)に、織田信長が家臣柴田家久(勝家の一族)に命じて造営させたもので、国指定重要文化財です。

奧石神社駐車場です。
奧石神社のある「老蘇森」は国指定史跡です。この森は、平安時代には広く人々に知られています。『梁塵秘抄』『能因歌枕』などに近江国の歌枕として紹介され、紀行文にも登場します。旧中山道(国道8号線)交差点から、石寺(観音寺城)とは逆(南)へ折れてすぐです。

こうしてみると、繖山は山岳信仰の聖地であり、その後磨崖仏にみられるような修験道の場となり、山岳寺院(観音正寺)として整備されていったと考えられます。

繖山は、六角氏の故地にある信仰の山であり、観音正寺は、地域の有力寺院です。また、六角氏は前々回の投稿にも書きましたが、天文法華の乱(天文5年(1536年))や、志賀の陣(元亀元年(1570年))などで比叡山延暦寺などの天台宗徒と協調関係にありました。また、永正15年(1518年)、大永3年(1523年)には、六角氏重臣進藤山城守がやはり天台宗の百済寺(滋賀県東近江市)の城郭化を手助けしています。
永禄6年(1563年)に制定された分国法『六角氏式目』に、領地のことを「山」(比叡山)と「国」(六角氏)が議定によって取り決めることを記しているように、近江国の権力、地域支配は武家と寺院による多元的、重層的なものであり、このことは、観音正寺と観音寺城との関係を考える上で軽視すべきではないと思います。武家(六角氏)の都合だけで理解するのは間違いではないかと思うのですが、どうでしょう。

観音寺城(4)につづきます。


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