観音正寺坊院群(1)
観音正寺坊院群
今回は、観音正寺坊院群です。
現在は、主要遺構群の多くが中世観音正寺に由来するとの考えが主流になってきています。
しかし、城郭寺院としての見方が一般的になっても、現在残る遺構の成り立ちについて、どこまでを観音正寺とみるか、どこを六角氏が城館として改修し、新たに築いたのかについては諸説あります。
現在観音正寺境内がある繖山南斜面には、無数の削平地とこれらを結ぶ山内道(参道・城道)・石段がありますが、参道を中心にそれに沿って削平地がひな壇状に並ぶ状況は山岳寺院の坊院群そのものです。
大寺院の坊院群は、「谷」と呼ばれる複数のグループから構成されることが一般的で、ここでもA~Dの4グループに分かれそうです。
藤岡英礼氏(2007年)、伊庭功氏(2010年)は、主要な坊院群を3グループとし、坊院群DはCに含めて考えているようです。
寺伝によると、観音正寺最盛期には3院77坊があったとのことですが、繖山南斜面の削平地はそれ以上あります。しかし、中世観音正寺は、短く見積もっても500年以上の歴史があり、現況はその歴史が蓄積された姿です。すべてが中世を通して存在していたとはかぎりません。
なお、観音正寺の遺構を限定的に考える中井均氏(2011年)は、観音正寺を現境内から坊院群Aのみとし、現境内上部から坊院群B~D周辺すべてを家臣団屋敷としています。
しかし、尾根の頂部に曲輪を築いていないこと、山内の道が中井氏も城郭中心部とする伝本丸・伝平井丸に向かって集まっていないこと、そもそも多数の道があること自体が城郭的ではありません。この「非常識」は六角氏の場合はアリなのか。。そうは思えません。
石塁は、白山平泉寺(福井県勝山市)、百済寺(滋賀県東近江市)、金剛輪寺(滋賀県愛荘町)、長法寺遺跡(滋賀県高島市)などで坊院区画として築かれています。城郭石垣のルーツのひとつで、観音寺城伝本丸、伝平井丸、伝池田丸の外周も石塁です。
坊院群A(伝進藤・後藤邸)
藤岡英礼氏(2012年)によると、山岳寺院では、15世紀以降に坊院区画の方形化や、中心伽藍と坊院群そして山下をつなぐ直線道路(参道)の整備が進んだとのことです。
この視点から見ると、坊院群C・Dは、参道も坊院区画も整っていません。
坊院群Bは、今回遺構の分かる写真を用意できませんでしたが、とくに下部の参道は石段もあり、直線的でした。ただ、坊院区画は整っていません。
これに対して、坊院群A(伝進藤・後藤邸)は、石垣・石塁によって道路と坊院区画が整然と築かれています。おそらく、坊院群B~Dが15~16世紀以前に衰退したのに対して、坊院群Aは、中世を通して観音正寺の中心的な「谷」(坊院群)として維持・整備されてきたのだと思います。
なお、「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。
家臣名については こちら 、「坊院」など城郭寺院については こちら にまとめてあります。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(6)に続きます。
2024年7月15日投稿