観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域(2)
観音正寺中世本堂「根元観音堂」説
観音正寺は戦国時代に焼失、破却されているため、現存する縁起・寺伝は江戸時代に成立したもので、江戸時代以前の同時代史料はほとんどありません。
中世の中心伽藍(本堂)については、現境内地周辺とする説ともう一つ、「根元観音堂」説があります。
江戸時代に描かれた鳥瞰絵図では、本谷道のたどり着いた先、頂上付近に「根元観音堂」(石寺本A)、「古元観音堂」(石寺本B)、「根元観音」(川並本)の注記があります。建物は描かれていません。「国ノ間」(伝三国間)の右手にあることなどから、上部削平地群の最上段にある伝三井邸(東西)・伝馬渕邸の可能性が高く、藤岡英礼氏、伊庭功氏らはここを中世観音正寺の本堂と推定しています(藤岡 2007年、伊庭 2011年など)。
鳥瞰図の絵図全体は、こちら でダウンロード できます。
伝三井邸(東西)・伝馬渕邸は、現境内地以外では最も広い削平地であり、掘り残し土塁でそれぞれが区画されています。背後は東西主稜線(大土塁)になります。
伝三井邸・伝馬渕邸は見学用に整備されていませんが、掘り残し土塁を降下することで(藪が苦手でなければ)簡単に到達できます。以下の写真は2024年3月前半で、所々に雪が残っています。この時期であれば、見通しは利かないまでも、ある程度遺構を写真でも捉えることができます。以前11月に降りたときの写真はほぼ意味不明でした。ただ、写真よりは下の動画の方が多少分かりやすいかもしれません。
伝三井邸(東西)・伝馬渕邸のうち、中央の伝三井邸(西)が本堂推定地です。ここでは中央(A)と伝馬渕邸境の土塁に接続(B)した2基の基壇(土壇)が確認できます。中央基壇Aは、範囲全体がはっきりしているわけではありません。
観音正寺中世本堂に関する同時代史料として、唯一可能性が指摘されているのが『桑実寺縁起絵巻』上巻第一段の絵図です。これは、将軍足利義晴が六角定頼を頼って桑実寺正覚院に滞在したときに発願し、絵師土佐光茂に描かせて天文元年(1532年)に寺に寄進されたものです。上巻第一段の図は、下巻第二段に描かれた桑実寺境内とは別ものであることから、観音正寺ではないかと考えられています(亀井 2003年)。
三方を崖で囲まれた範囲に、本堂、三重塔、鐘楼などが写実的に描かれています。伊庭功氏も指摘していますが、左手の崖(実際には掘り残し土塁)に接続したL字基壇は、ちょっとできすぎとも思えるほど伝三井邸(西)の基壇Bに酷似しています(伊庭 2011年)。
「根元観音堂」参道
「根元観音堂」に至る参道について、現状では現境内によって下部坊院群(伝進藤・後藤邸)間が断絶していますが、伝三井邸(西)・伝馬渕邸境から現境内側に降下するルートは、方向的に前回の投稿にある、現境内地西側の中世石垣の東端、近世拡張範囲の西端に接続しそうです。
『桑実寺縁起絵巻』の絵図では本堂正面に石段がありますが、伝三井邸(西)の正面は現在大きくえぐれています。これは現境内造成時の土取りか、現境内に移るときに「魂抜き」のようなことが行われたのかもしれません。また、現境内下部後藤邸東側は土砂崩れを起こしていて砂防ダムがあるとのことで、その上部にあたることから現境内造成前の自然崩壊かもしれません。崩壊地の要因は不明ですが、伝後藤邸東端の参道が、そのまま伝三井邸(西)につながる可能性は高いと思っています。この件も伊庭功氏が指摘しています(伊庭 2011年)。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(12)に続きます。次回は観音正寺中世本堂現境内説、本堂移転説などについてです。
2024年8月18日投稿