観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域(3)
観音正寺中世本堂現境内説
中世本堂が現在の境内地付近にあったとする説もあります。
中井均氏の「観音寺城の構造試論」(中井 2011年)は現境内説ですが、その主張は正直違和感だらけです。
中井均氏論文引用
長文になりますが、その部分を引用します。原文では改行がありませんが、ここではブロック分けしています。ただし途中省略はしていません
藤岡英礼氏(藤岡 2007年)らの伝三井邸説に対する反論として述べられています。
「本堂や中心伽藍は現在の観音正寺の場所であった可能性が高い。「桑実寺縁起絵巻」の観音正寺の景観は現在の境内と考えてもおかしくない。むしろ山頂に構えられていたのでは絵巻の情景には違和感を覚える。亀井氏(註 亀井 2003年)によるとこの絵巻は実際の景観を描いており、山頂に位置していたとは考えられない」
「さらに山岳寺院が山頂に選地することはあまりなく、むしろ山頂は聖地であり、堂塔の築かれる場所ではない。繖山の信仰には三国岩をはじめとする巨石信仰が根本であったことはまちがいない。江戸時代に製作された観音寺城跡古図には山頂の馬淵屋敷に「根本観音堂」(ママ)と記されており、ここに小堂のあったことが知られる。これが観音正寺の中心伽藍であったのではなく、伽藍背後の神聖地に祀られた嗣堂であったと見られる」
「さらに山頂付近の巨石によって形成された洞窟状の岩陰には平安時代後期の磨崖仏が刻まれており奥の院と称されている。この奥の院の位置からも山頂が中心伽藍とは考えられない。絵巻(註 桑実寺縁起絵巻)の景観は現在の観音正寺の場所に酷似しており、ここに中世も観音正寺の中心伽藍が構えられていたものと考えられる」
「さらに戦国時代に一旦山麓に下りたことを考えると、再び山上に戻る場合、旧地に戻ると考えるのが自然ではないだろうか」
中井均氏論文感想
・「山岳寺院が山頂に選地することはあまりなく、山頂は聖地であり、堂塔の築かれる場所ではない」(中井) ⇒ 中世密教系の寺院本堂が、山頂ではなく背後に山を抱えて立地していることは常識的な事実ですが、伝三井邸は、中井氏が述べているような頂上でも主稜線上でもなく、主稜線を掘り残した10m以上下にあります。中井氏はなぜ伝三井・馬渕邸を山頂と決め付けたがるのかが謎。
・「観音寺城跡古図には山頂の馬淵屋敷に「根本観音堂」と記されており、ここに小堂のあったことが知られる。これが観音正寺の中心伽藍であったのではなく、伽藍背後の神聖地に祀られた嗣堂であったと見られる」(中井) ⇒ どの時代のことを述べているのか曖昧ですが、少なくとも絵図の「根元観音堂」に堂宇は描かれておらず、絵図作成以前の施設と思われます。なお、「根元観音堂」は伝馬渕邸説もありますが、ここでは現地の遺構から伝三井邸(西)説をとっています。
・「洞窟状の岩陰には平安時代後期の磨崖仏が刻まれており奥の院と称されている。この奥の院の位置からも山頂が中心伽藍とは考えられない」(中井) ⇒ これは重要な点なので後の項で書きます。奧之院の概要については、以前の投稿 にもあります。
・「絵巻(註 桑実寺縁起絵巻)の景観は現在の観音正寺の場所に酷似」(中井) ⇒ 近世に改修される以前の現境内地をどう考えているのか説明がありませんが、少なくとも現境内から三方に崖が描かれている絵巻との共通性は認められません。
・「旧地に戻ると考えるのが自然」(中井) ⇒ 百済寺 (滋賀県東近江市)も、江戸時代の再建本堂は場所を変えています。
現境内地の中世段階の地形がどうなっていたのかは不明ですが、再建時に『近江名所図会 』(そして現在)にあるような、(近世的な)諸堂と住職の居住地である庫裏を一体化するために、適地に場所を変更することがあっても不思議ではありません。
中井氏は、現境内地とその南側の伝進藤・後藤邸あたりのみを観音正寺とします。それ以外の削平地群を坊院とする説については「寺伝に三十三坊または四十坊という規模では現状の遺構にはならない」「それほどの大寺院であったとは考えられない」として否定します。
しかし、寺伝の坊院数はともかく、2023年、2024年と発掘調査が行われている阿弥陀寺(滋賀県近江八幡市)あたりを見ても、ある程度の有力寺院であればいくつかの「谷」グループに分かれた数多くの坊院群(削平地)をもつことは一般的です。観音正寺の場合、現状の遺構群は短く見積もっても500年以上の歴史のなかで蓄積されたものであること、そして曲がりなりにも歴史ある西国三十三所観音霊場札所であることを意図的に過小評価しているとしか思えません。
中井氏は「観音寺城のイレギュラーな構造」を認めますが、これは観音寺城でも観音正寺でもない「家臣団屋敷」によるものとしています。しかし、道路とそれに沿ったひな壇状の削平地(平坦地)群は坊院群の基本型で、数多くの事例があるのに対して、「家臣団屋敷」なるものの考古学的な事例がしめされていません。
また、「家臣団屋敷」を「六角氏の強力な家臣統制の結果を示すもの」と述べていますが、「強力な家臣統制」といいながら、山内道が観音寺城中心部に向かっていくような城としての求心性がまったく認められない点など、藤岡氏らが再三指摘している点についての反証が行われていません。
観音正寺の移転時期を永禄年間(1558~1570年)としますが、永禄6年(1563年)には「観音寺騒動」が勃発します。これは、六角義弼(義治)が重臣後藤父子を忙殺したことに端を発し、家臣団のほとんどが主家に敵対。六角氏が没落する契機となった事件です。少なくとも、観音寺騒動以降に、「強力な家臣統制」のもと家臣団集住政策が進められたとは考えられません。
観音正寺中世本堂移転説と里坊
観音正寺本堂には移転伝承があります。
これは、明和3年(1766年)以降の観音正寺と桑実寺との山論(境界争い)の中でたびたび問題となったようで、裁定にあたった本山との間のやりとりをまとめた『山論初事』によると、観音正寺側は天暦10年(957年)を、桑実寺側は応仁年間(1467~69年)を主張したようです(藤岡 2007年、安土城考古博物館 1995年)。ただ移転時期として一般的にいわれているのは永禄年間(1558~1570年)で、これは「南無大慈大悲観世音菩薩西国卅三所順礼縁起」(観音正寺文書)(未見) (伊庭 2006年)を根拠としているようです。
移転先は山麓の石寺集落内で、鳥瞰絵図では、石寺集落の東側、観音谷の谷口に「古観音谷」(石寺本A)、「中古観音堂」(石寺本B)、「観音堂」(川並本)の注記があります。こちらも建物は描かれていません。川並本では石垣が描かれていますが、石寺本Aは注記のみです。
石寺では、教林坊付近から旧本堂まで東西約500mの範囲に、三十三の坊があったといわれています(安土城郭調査団 2006年)(図2)。ただこれらが、本堂とともに山上から移転してきたのかは不明です。比叡山では、妻帯を許された坊主兼地侍である「天台山徒(山法師)」が、山麓に拠点をもっていましたが、15~16世紀になると、利便性からか衆徒の多くも山を下り、坂本(大津市)周辺に居住を移していたといわれています。これは「里坊」とよばれています。
本堂の石寺への移転について、藤岡氏は懐疑的ですが、これは『山論初事』にある天暦10年(957年)説、応仁年間(1467~69年)説に対してだと思います。永禄年間説については、研究者の多くは事実と考えているようです。
永禄年間説とは、具体的には永禄6年(1563年)に勃発した「観音寺騒動」です。顛末を記した『長享年後畿内兵乱記』には、「観音寺乱妨、一宇不残焼失、観音寺本堂迄回禄、麓石場寺三千家屋一時焼却」とあります。観音正寺本堂と山麓石寺の焼失が別々に書かれているので、少なくともこの段階までは山上に観音正寺があり(藤岡 2007年)、それが焼けて石寺に移った可能性があります。ただ、これは六角氏による強制的な移転ではなく、本尊を待避させるための仮設的な本堂の設置であったと思われます。
なお、1993年に焼失した旧本尊千手観音立像は明応6年(1497年)銘があったとのことなので、この段階では焼けていません。
観音正寺奥之院と堀切
永禄年間(1558~1570年)は、まさに六角氏が没落・滅亡へ向け坂道を転げ落ちていった時期です。
・永禄3年(1560年) 野良田の戦い(滋賀県彦根市)。六角義賢(承禎)、浅井長政に敗れる。
・永禄6年(1563年) 観音寺騒動。
・永禄9年(1566年) 浅井長政が六角領内に侵攻。
・永禄10年(1567年) このころ浅井・織田同盟(諸説あり)。
・永禄10年(1567年) 岐阜城落城。信長美濃制圧。
・永禄11年(1568年) 信長上洛戦。承禎・義治、観音寺城を放棄して甲賀へ逃亡。
対浅井・織田対策として、観音寺城の防備を固めようとするのは当然の考えだと思います。ただ、現況が観音寺城の最終型であるはずなのに、城郭らしい閉鎖性はやはりどう考えても不完全です。
最大の謎が、北主稜線繖山山頂付近に遮断施設がないことです。観音寺城の主要部南側(伝池田丸)南側には守護大名六角氏の居城に相応しい大堀切がありますが、(図2)の通り主要部北側にはありません。頂上付近には伝沢田邸がありますが、稜線そのものは切断されていません。東西主稜線を「大土塁」に見立てるにしても、北主稜線側に堀切がないのは疑問を通り越してミステリーです。
この点について、村田修三氏は『五個荘町史』(村井 1992年)のなかでなんとか説明しようと試みていますが、正直説得力はありません。その後このことは問題として避けられているようで、私の知る限り、正面から取り上げている研究者はいません。
まったくの私見ですが、こうした城郭としてのイレギュラーな構造は、観音正寺に関連する宗教的禁忌にかかわっているのではないかと思っています。
そこで問題になるのが中世奧之院、ないし創建伝説にもとづく聖地です。
『観音正寺建立縁起』の聖徳太子伝説には「人魚伝説」と「天楽岩伝説」「星伝説」があり、後二者は、繖山(天蓋山)山頂の巨石「天楽岩」にかかわるものです。現在観音正寺では、これを現奥之院としています。
ただ、江戸時代の鳥瞰絵図には、同じ位置と思われるところに「大宮天神」(石寺本A)の注釈があるのみで、並んで描かれている巨石は石寺本A・川並本とも「万石岩」となっています。
現奥之院の岩窟にある磨崖仏は、平安時代後期作といわれていて、繖山の信仰の起源を探る上で重要なものですが、「奥之院」は本来寺社の本堂・本殿より奥にあり、神仏の降臨地であったり開山祖師を祀る場です。現奥之院は、現本堂・中世本堂推定地のどちらからみても奥之院らしからぬ場所にあります。観音正寺固有の門ではないにしても、絵図(石寺本B )では「見付大門」とする権現見付の外の参詣道沿いで、現本堂・中世本堂推定地の「手前」にあります。表参道である本谷道、赤坂道と本堂の関係から見ても方向違いです。
磨崖仏が古い時代のものだとしても、これを「奥之院」としたのは江戸時代以降、もしかすると、磨崖仏の評価が定まった後、ごくごく新しい時期かもしれないと推測しています。現「奥之院」位置は、中世本堂現境内説=根元観音堂説否定のよりどころのようですが、聖徳太子「伝説」と同じで、絶対的な事実ではないはずです。
あくまでも私見ですが、創建伝説の舞台となる「天楽岩」は、本来(中世には)繖山山頂から北主稜線上にあり、このことで「結界」となる堀切が設けられなかったのではないかと考えますがいかがでしょうか。
奥之院と寺院の城郭化で参考になるのが百済寺 です。
百済寺は、武家ではなく、百済寺自らが寺域の城郭化を行った「城郭寺院」です。百済寺は寺域前面に横堀と土塁からなる「大手要害」、寺域を囲む尾根には段曲輪を重ねていて「南要害」「北要害」と呼ばれています。しかし、南北要害の最奧部は堀切などがなく突然寺域が終わっています。本堂裏にも遮断施設はありません。
百済寺では、本堂裏から約8km離れた大萩(現東近江市百済寺甲町)に奥之院(西ヶ峯不動堂)があり、元亀4年(1573年)4月の信長による焼き討ちの際には、奥之院に本尊の植木観音を移しています。現在境内内にある不動堂は、明治時代に奥之院から移築したものです。
弥高寺(滋賀県米原市)では、本堂裏に大堀切があり、聖地伊吹山との間が遮断されていますが、これはあくまでも、弥高寺跡を武家(京極氏)が城郭として利用した場合です。
寺院自らが城郭化を行う場合、基本寺域内に堀を設けません。比叡山延暦寺でも堀切は確認されていません。このことは、こちら でまとめています。
まとめ
中井氏は、永禄年間(1558~1570年)に、繖山を「完全に城郭とするため、観音正寺を山麓に下ろし、参拝を禁止した」とします。しかし、永禄年間、とくに観音寺騒動以降、家臣団の集住政策とこれにともなう大規模な曲輪(家臣屋敷)の普請が行われたとは考えられません。また、「参拝を禁止」が事実ならば面白い話ですが、他でこうした逸話は読んだことがなく、中井氏も根拠史料をしめしていません。
個人的には、現境内中世本堂説には不具合が多く、中世本堂伝伊庭邸(西)を支持したいと思っています。
観音寺城の範囲は、藤岡英礼氏(2007年)、伊庭功氏(2011年)、松下浩氏(2016年)らが指摘する通り、伝本丸・伝平井丸・伝池田丸周辺を主要部とし、頂上側の伝伊藤邸、伝小梅邸、伝沢田邸周辺までで、あと東主稜線上の伝淡路丸、大見付、伝三国ノ間(伝三国丸)あたりが出曲輪(出丸)・見張り台などになる可能性があります。
家臣団や客人は、坊院群A(伝進藤・後藤邸)を宿坊としていたか、あるいはこのエリアの坊院跡を改修して屋敷としていたのではないかと思っています。そもそも「家臣団集住説 」には疑問を感じています。
六角氏(宗教的権威の利用)と観音正寺(寺域・寺領の保護)はWin-Winの関係にあったと思います。
堅固な防衛ラインを形成しているとはいいがたい観音寺城の城郭らしからぬ構造、そして、六角氏が観音寺城を主戦場としなかったことなど、観音正寺の存在を考えると説明できるような気がします。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(13)に続きますが、「観音正寺と観音寺城 中世本堂位置と城域」はこれで終わります。
2024年8月19日投稿