観音寺城 (15)

 

観音寺城主要部 (1) 伝平井丸
観音寺城伝平井丸虎口
(1)  【伝平井丸虎口】

観音寺城主要部と守護館

観音寺城の主要部を繖山西尾根の伝本丸・伝平井丸・伝池田丸周辺とすることについては、おおむね衆目の一致するところです(藤岡 2007年、伊庭 2011年、松下 2016年など)。

この観音寺城主要部は、軍事拠点に特化されたものではなく、守護所としての機能をもっていました。
とくに、天下人六角定頼が当主であった天文年間(1532~1552年)は、将軍足利義晴の御成があったり、京都からさまざまな文化人が訪れ連歌会や饗宴が催されています。

室町時代の守護館(所)は、武田氏館(主郭)(山梨県甲府市)、大友氏館(大分県大分市)が一辺200m四方で、六角氏の小脇館(滋賀県東近江市)も200m四方に復元されています。しかし、京都の将軍邸(御所)や細川管領邸などが、平安京条坊制にもとづく方一町(40丈/約120m)の区画割りにもとづいて築かれていたことから、これが基準となっていたようです。
越前朝倉義景の朝倉館(福井県福井市)は、西側正面で堀を含む一辺が120mを測ります。内側で90m、内側平坦地が約6,400㎡(80×80m)と守護館としてはやや小規模ですが、これは、中の御殿など周辺に機能が分散していたことによるのかもしれません。

これに対して、観音寺城の主要曲輪は、伝本丸(本城)が70×45m(最大長)、伝平井丸が62×37m、伝池田丸が80×45m(最大長)ですが、伝平井丸以外は不整形です。いずれにしても、規模から見た場合、単独の曲輪では守護館として成立しないと思われます。そうなると、曲輪ごとの役割の違いや機能区分が問題になります。

朝倉館の空間構造

守護館内部の状況は、朝倉館を対象として小野正敏氏が詳細な検討が行っています(小野 1997年・2024年)。
朝倉館では、永禄11年(1567)年5月にあった将軍(同年4月に将軍宣下の院宣)足利義秋(義昭)御成についての詳細な記録が『群書類従』などに残っていて、これと発掘調査成果にもとづく遺構群との対照が小野氏によって行われています。

朝倉館全景
(2)  【朝倉館】福井県福井市
2024年3月撮影。泉殿とその先の小座敷がガラス床になっていました。遺構を痛めないで遺構内を当時の目線の高さで歩けることがコンセプトだそうです。ただ、たまたまかもしれませんが、ガラスの裏面が水滴で曇っていて、ガラス越しに下の遺構を見ることはできませんでした。

そこから復元される朝倉館は、以下の通りの機能区分が考えられていて、これは、室町時代後半期から戦国時代の将軍邸から上級武士居館に至るまでのスタンダードな空間構造として考えられているようです。
これをまとめると以下のようになります。

ハレ 接客を含む対外的交渉が行われる空間
 ○「表」= 主殿 対面と儀式の空間
 ○「裏」= 会所 宴会の場 (池庭・能舞台など)

 家人の日常生活やハレの空間を裏で支える機能をもつ空間
 ○「表」= 常御殿 当主の日常生活の場
 ○「裏」= 台所 など

朝倉館空間構造
(図1) 【室町時代後半期の館・屋敷の空間構造】
小野正敏氏による(小野 1997年・2024年)
主殿の儀礼

武家儀礼の代表が、主従関係の契りを確認する「式三献」(しきさんこん)です。かわらけ(素焼き土器)で酒を三度づつ飲みほす、結婚式の三三九度の原型です。

会所の饗宴

15世紀ごろ以降、武家のたしなみとして能や舞、狂言や茶、花、香、連歌などが急激に普及し、そうした遊興的な行事や宴会が行われるサロン的な空間として「会所(かいしょ)」が発達しました。池庭・泉殿や能舞台などが併設されました。
会所での饗宴は、初献からお膳をかえて酒肴を供応します。
天文3年(1534年)、浅井亮政が京極高清・高広を小谷城(滋賀県長浜市)に招いた際には十五献まで。朝倉義景が足利義秋を招いた際は十七献まで続きました。足利義秋の饗宴では、奇数回の供応ごとに献上品があり、さらに途中で能や茶の湯などが催されています。

観音寺城では、天文2年4月21日に義賢の元服式にあわせ、将軍義晴の観音寺城定頼屋形への御成がありましたが、残念ながらその記録は残されていません。
しかし、連歌師谷宗牧や相国寺鹿苑院主梅叔法霖らの滞在記があり、山上の六角氏館の状況をうかがい知ることができます。
天文8年(1539年)に相国寺鹿苑院主梅叔法霖が観音寺城を訪れた際は、屋形二階で五献の供応をうけています。この「御二階」については、伝池田丸ではないかと考えられています(松井 2016年)。

観音寺城の主要部

観音寺城では、1969年から1970年に伝本丸、伝平井丸、伝池田丸の発掘調査が行われ、建物礎石や庭園遺構、排水路、溜枡などの遺構が発見されました。また、大量の土師器やすり鉢、輸入陶磁器など、16 世紀後半の遺物が出土しています。16 世紀後半ということで、定頼ではなく義賢(承禎)の時代の遺構群かもしれません。その下層に遺構が存在するかどうかは不明。

観音寺城主要部
(図2) 【観音寺城主要部】
滋賀県立安土城考古博物館(2009年)からの転載です。一部加筆しています。

朝倉館で想定されている館内の空間構造をもとに観音寺城の主要部を対照してみると、おおむね以下のとおりと考えられます。

伝本丸  常御殿
伝平井丸 主殿
伝平井丸上段 会所A
伝池田丸 会所B (他案として嫡子などの御殿)

観音寺城主要部
(図3) 【観音寺城主要部】
千田嘉博氏の図(千田 2009年)をもとに加筆させていただきました。

伝平井丸

以前の投稿でも書きましたが、公的な御門(礼門)は、客人を圧倒する伝平井丸虎口以外には考えられません。
となると、伝平井丸は「主殿」となります。

【伝平井丸動画】
動画中の「埋門」は こちら
観音寺城伝平井丸虎口
(3)  【伝平井丸虎口】
観音寺城伝平井丸虎口
(4)  【伝平井丸虎口】

伝平井丸(下段)については、江戸時代に観音正寺、桑実寺の墓地となっていたことからか、発掘調査は行われていません。
伝平井丸上段では庭園跡が確認されているとのことなので、ここが「会所」ということになります。
伝本丸は、伝平井丸から連絡道を登った奧にあることから、「裏」のエリア、「奧御殿」=「常御殿」になると思います。

観音寺城伝平井丸近世墓地
(5)  【伝平井丸下段 近世墓地】
観音寺城伝平井丸伝本丸通路
(6)  【伝平井丸・伝本丸通路】
伝平井丸から。正面上が伝本丸。
観音寺城伝本丸南虎口
(7)  【伝本丸南虎口】金戒光明寺
伝平井丸・伝本丸通路上部。
観音寺城伝平井丸上段発掘調査
(8)  【伝平井丸上段発掘調査状況】
滋賀県立安土城考古博物館(2009年)からの転載です。伝平井丸上段の発掘調査写真はだいだいこれが使われていますが、何がどうなっているのかは解説がないので不明。手前は池のようにも見えますが。
写真掲載位置図
(図4) 【掲載写真位置図】

なお、「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。

家臣名については こちら でまとめています。

参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。

観音寺城(16)、伝本丸に続きます。


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