観音寺城主要部 (3) 伝本丸上部
観音寺城 見付 (1)
伝本丸を「常御殿」エリアとした場合、直接城外に開口する北西虎口は無防備に見えますが、伝本丸上部を含めてみると、観音寺城らしからぬ意外と厳重な「構(かまえ)」となっています。
見付
見付(見附)とは城門のことで、赤坂見附や四谷見附など江戸城三十六見附が有名です。静岡県磐田市見附の地名は、中世にさかのぼるようですが、見付(城門)は江戸時代的な用例かもしれません。
観音寺城の「見付」には、「権現見付」「閼伽坂(あかさか)見付」「大目付」「裏見付」「薬師口見付」「宮津口見付」がありますが、これは、江戸時代、おそらく18世紀後半以降に描かれたと推定されている3枚の鳥瞰絵図 が根拠になります。ただ、絵図のあちこちに「見付」の注記はあるものの、「権現見付」「閼伽坂見付」あたりをのぞくと、場所の比定は困難です。さらに、「権現」「閼伽坂」といった固有名は絵図にはありません。固有名詞といえるかどうかなんともですが、川並本の鳥瞰絵図に「大目付」「裏見付」があるだけです。
あくまでも、昭和40~50年代に吉田勝氏、田中政三氏 が名付けたものだと思います(吉田 1970年、田中政三 1979年)。
曲輪名と同じで、遺構名称として使用します。
伝本丸上部曲輪群
現在、桑実寺から観音寺城に通じるルートは薬師口道と呼ばれ伝本丸に通じていますが、この薬師口道は、伝小藤(小倉藤助)邸・伝伊藤邸・伝小梅(小倉)邸(伝本丸上部曲輪群)エリアを大きく迂回しています。
伝本丸上部曲輪群は、伝本丸に対して繖山の頂上側、尾根上部にあり、伝本丸守備の要(かなめ)となるエリアです。
伝本丸上部曲輪群へは、伝本丸北東虎口手前から登ります。あまり歩かれてはいませんが、面白いルートです。
伝小藤邸裏の尾根筋には石塁を築いていて、伝小藤邸側の切岸は高さをもっています。現在は、石塁上が伝本丸から繖山頂上方面に向かうルートとなっていますが、当時も城道を兼ねていたかどうかは不明。しかし、この石塁は伝伊藤邸・伝小梅邸側に武者走りを備えていて、薬師口道を意識した造りとなっています。
この伝小藤邸裏石塁の両端には虎口があり、東側が「裏見付」、西側が「薬師口見付」(A)と呼ばれていますが、現在、この虎口は直接薬師口道には通じていないように見えます。
薬師口道は、桑実寺が設置したであろう「丁石(一~十)」が置かれているなど、近世に改変されていることは間違いないと思いますが、裏虎口と薬師口見付Aについては、城外に開く虎口というよりも、伝伊藤邸、伝小梅邸を駐屯地として、伝小藤邸に兵を供給するための虎口ではないかと想像しています。伝小藤邸は、普請は甘いものの、薬師口道側に向かって数段の削平地が普請されています。
伝本丸を「常御殿」エリアとした場合、伝本丸北西虎口(薬師口見付B)が直に城外に開口していることが大きな疑問点ですが、伝本丸上部曲輪群を含めてこのエリア全体を見ると、伝本丸上部曲輪群は薬師口道に対して横矢が掛かる構造になっており、伝本丸北西虎口は伝本丸上部曲輪群の裏側に隠れた位置にあることがわかります。
観音寺城の防備は、全体的に見ると(とくに尾根筋は)スカスカですが、この主要部については、それなりの備えが認められます。伝本丸も、西辺部の土塁(石塁)は高く、内側中段に武者走りをもっています。
その下部にも石垣があり、防御ラインを形成しています(写真9)。また、桑実寺自体が出城的な役割をもっていた可能性があり、伝本丸薬師口道側の守りは意外にもしっかりしていたと思われます。
「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(18)、伝池田丸に続きます。
2024年9月16日投稿