観音寺城 (18)

 

観音寺城主要部 (4) 伝池田丸・伝落合丸

伝落合丸と城道

「主殿」が想定されている伝平井丸から城道を南に下ると、伝落合丸と伝池田丸です。
現状の山内道は、伝平井丸から伝池田丸曲輪内を通り抜けて追手道(表坂道)につながっていますが、本来の城道は、伝池田丸内ではなく、伝池田丸北虎口前から「扉石」のある曲輪のひとつ上の小曲輪ないしその上部山腹を経由していたと考えられています(図3)。現在は崩落しているとのことで(村田 1992年)、のぞいても分かりません。

伝落合丸は、穴蔵状の凹地と虎口が2か所並んでいます。藪化していることもあり、もともと穴蔵なのか、現状から当時の状況をうかがい知ることはできません。
『五個荘町史』 (村田 1992年)、千田嘉博氏(2009年)は、焔硝(火薬)を保管した蔵、「焔硝蔵」説をとっていますが、この時代にありえるのでしょうか。

伝落合丸前
(1)  【伝落合丸】
(A)北虎口、(B)伝落合丸前城道、(C)南虎口。虎口といっても寺院的な造りです。
伝池田丸北虎口
(2)  【伝池田丸 北虎口】
(A)右手が伝池田丸と北虎口、(B)(C)虎口前城道です。

伝池田丸

伝池田丸は繖山西尾根の先端部にある曲輪で、南側は大堀切によって遮断されています。
また、伝本丸同様、曲輪の南から西辺に石塁が築かれています。
曲輪は北虎口が正門で、城道を通って伝平井丸・伝本丸と連絡しています。南虎口については、曲輪内から見るとそれらしい袖石があるのですが(写真3C)、外から見ると石垣を崩したようにも見えます。おそらく当時の虎口ではないと思います。
西虎口については、その城外下部のルートがあまりはっきりしていませんが、宮津口道と合流すると思われます。

伝池田丸南虎口
(3)  【伝池田丸 南辺・南虎口】
(A)南辺石塁、(B)南虎口外から、(C)南虎口内から。
伝池田丸西虎口
(4) 【伝池田丸 西虎口】
伝池田丸石塁
(5)  【伝池田丸 西辺石塁】

伝池田丸も1969~1970年に発掘調査が行われていて、礎石建物や石組み溝などが確認されています。
建物の方位と配置から、西虎口付近を境に南北2区画に分かれていたと考えられます。

池田丸遺構図
(図1) 【池田丸 遺構配置略図】
新谷和之氏(2023年)から転載です。
伝池田丸発掘調査
(6)  【発掘調査状況】
南区石組み溝(建物周囲の雨落ち溝)。滋賀県立安土城考古博物館(2009年)からの転載です。
伝池田丸石列
(7)  【伝池田丸 石列・礎石】
建物Bの関連遺構か。
【伝落合丸から伝池田丸動画】

「御二階」

観音寺城には、二階に座敷のある御殿が山上にあったことが同時代史料から分かっています。

連歌師谷宗牧

天文元年(1532年)10月に連歌師谷宗牧(たにそうぼく)が訪れたときの記事には、観音寺城「二階」の座敷からの眺望が語られています。

「去年の御不例ならびに発蘭軒めし下されて、祈療のこる所なくて。このごろいさゝか御快気とて、澄玄さへくださるべき、をりよくまかりくだりたるよし、進藤山城寺御内議きかせられたり。宿老面々にさへ御対面なきころなれば、御礼もはばかりおほくて、さたにもおよばざるに、過分の事なり。
(中略) 座敷は二階、もっとも眺望をいはば、老曽森、麓の松原につづきて、板倉の山田、蒲生野の玉のをやま、さなからみがける砌(みぎり)なるべし。遠くは大和・河内・伊賀・伊勢の山ものこるくまなし。ちかき海つらかけたる津田の細江。登蓮法師がすみけむ阿弥陀寺の西日うつり行く水茎岡の湊。空飛ぶ雁に芦間の小舟もけじめわかれぬ風景。西湖の十境は絵にもかきけむかし。数奇争の御茶湯、名物かすをつくされ、献々はいふに及はず、御菓子のかぎり・花むすび・葉のえようなどめもあやなり。蓋はたびかさなれど、御養性堅固の事にて、各のみ酪酎、正躰無きほどなり」

「(定頼は) 去年の発病の後、治療の甲斐があって、最近は調子が良く、ちょうど訪問してくれたのだからと、進藤貞治を通して、面会を許可してくれた。宿老たちですら面謁できないのに、たいへん恐れ多いことだ。
(中略) (定頼のいる) 座敷は二階にあってそこからの眺望を申せば、老曽(蘇)森・麓の松原に続いて、板倉の山田・蒲生野の玉のを山、まるで磨いた拘のようだ。遠くには大和・河内・伊賀・伊勢の山々が見え、近くの琵琶湖には、津田の細江、阿弥陀寺の西日が映る水茎岡の湊、飛ぶ雁や芦の聞を行く小舟等々の美しい風景が見える。西湖の十境は絵にも描かれるであろう。茶湯の道具には名物が沢山あり、酒のことは言うまでもなく、お菓子等々も目に美しい。酒を何杯もいただいたが、(定頼は) 養生中ということでお呑みにならず、他の面々が酪酎して正躰をなくすほどだった」
『東国紀行』(村井 2019年からの引用)

相国寺僧録司梅叔法霖

「御二階」は別の史料にも登場します

相国寺僧録司の梅叔法霖(ばいしゅくほうりん)は、天文8年(1539年)2月9日に登城し、神崎左京亮の屋敷で休憩。本膳、追膳とも三菜に汁物三椀の食事と酒をご馳走になりました。その後、屋形にて定頼、義賢(四郎)と対面し、式三献の儀と贈答品の交換を行っています。
そして、翌日には「屋形二階」にて五献の供応をうけています。滞在は3日間で、最終日の2月11日には家臣らに見送られながら下山しています。

大石垣展望
(8)  【観音寺城からの眺望】
伝池田丸の一段下、大石垣上より。

「御二階」は、足利将軍の金閣・銀閣やその後の安土城天主に通じるような高層御殿であったのかもしれません。
谷宗牧の語る眺望には、脚色や誇張があった可能性もありますが、繖山西尾根の傾斜変換点上部にある伝池田丸は、「御二階」の最適地です。現状は樹木が邪魔していますが、老蘇森から、蒲生野、阿弥陀寺、水茎岡の湊、西湖は実際に見ることができそうです。北方の描写がないことも実際的です。

連歌師谷宗牧は、25日間も観音寺城に滞在して、連歌や碁、猿楽、茶の湯、詩歌などに興じています。家臣屋敷の場合もあったと思いますが、伝池田丸がサロン的な施設(伝平井丸上段とは別の会所)であった可能性がありそうです。
松下浩氏は、伝池田丸が「ゲストハウス、迎賓館的な施設」(松下 2016年)であったことを想定しています。

伝池田丸 嫡子・隠居御殿説

伝池田丸では発掘調査によって多くの礎石建物群が発見されています。ただし、現状の礎石建物群から「御二階」は特定できません。少なくとも楼閣的な建物はなさそうです。
ただし、守護館では、当主の代替わりで御殿を建て替えることがあることから、発掘調査による建物群は、義賢・義治時代に建て替えられた建物群の可能性があります。

観音寺城主要部
(図2) 【観音寺城主要部】
千田嘉博氏(2009年)掲載図をもとに加筆させていただきました。

伝池田丸の発掘調査で確認された礎石建物群の規模と形状(平面)は、提示されている図ごとにバラバラで定説があるわけではなさそうですが、伝池田丸の建物で気になるのが、建物Aが伝本丸御殿と同規模ないしやや大きいことです。
復元案のひとつに藤村泉氏の説(図2)があり、伝池田丸南区について建物A(図2)を常御殿、渡り廊下で結ばれた東側に会所(建物B)と泉殿(建物C)としています。ただし、泉殿にともなう池庭は不明。
藤村泉氏の原著は今のところ入手できていないので詳細は不明ですが、これを引用した千田嘉博氏は、伝池田丸を独立した屋敷として捉えているようです(千田 2009年)。

伝平井丸を「主殿」とした場合、伝本丸は曲輪内部に連絡道があるのに対して、伝池田丸と伝平井丸は、一端曲輪外の城道を通らなければなりません。これは不自然で、当主屋敷(御殿)はやはり伝本丸だと思います。伝池田丸を独立した屋敷(御殿)とするならば、当主に次ぐ人物の屋敷ということになります。
武田氏館(躑躅ヶ崎館)(山梨県甲府市)では、西曲輪(西ノ御座/西之御館)を嫡子武田義信の新居として増築しています。
朝倉館(福井県福井市)に隣接する中の御殿は、義景実母光徳院の屋敷跡と推定されています。

永禄11年(1568年)の廃城段階については、伝本丸御殿が当主義治屋敷、伝池田丸南区御殿が義賢(承禎)屋敷といった可能性もありそうです。

伝池田丸については、迎賓館的な施設(会所)と嫡子・隠居屋敷(御殿+会所)の2案としておきます。まだまだいろいろな仮説がありそうですが、証明のしようもないので、このあたりにしておきます。

掲載写真撮影位置図
(図3) 【伝落合丸・伝池田丸 掲載写真位置図】

「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。

参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。

観音寺城(19)に続きます。

2024年9月22日投稿


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