石垣 (2) 矢穴 (1) 石切場(観音寺城・観音正寺)
矢穴技法
石垣編、石切場と矢穴です。矢穴の概要、起源、編年については、「矢穴の話 」として別にまとめています。参考にしてください。
要約すると、「矢穴技法」とは母岩から石材を切り(割り)出す技法のひとつです。慶長・元和期(1596年~)に城郭の石垣の石材石切り技法として確立しますが、そのさきがけとして観音寺城でも採用されています。ただし、矢穴技法自体は、もともと石仏や石塔の製作工程で用いられた寺社(とくに寺院)保有の技術で、その国内での起源は鎌倉時代まださかのぼります。
伝池田丸下石切場(採石場)
繖山や安土山は、全体が湖東流紋岩の山で、いたるところで露頭を見ることができます。その一部は磐座として古くからの信仰対象であったと思われます。石垣の石材は、基本的に山内で獲得したようです。
湖東から湖南の湖東流紋岩・安山岩については、こちら でまとめてあります。
「伝池田丸下石切場」は、伝池田丸南斜面、大石垣上部にある石切場(採石場)です。伊庭功氏によって報告されています(伊庭 2006年)。
大石垣上部には、「女良岩(女郎岩)」と呼ばれる巨石群があります。伊庭氏の報告には概略図と写真しかなく、最初は女良岩の周囲を探ったのですが見つからず、場所を女良岩の西側斜面に移し、ようやく多数の矢穴石を見つけました。位置は、動画に出てくる「旗」の位置から推測してください。
矢穴石は、すべて2m以下です。残部ということがあるかもしれませんが、どうも、観音寺城では、女良岩のような巨石は相手にせず、適当な小振りの岩を狙って、さらにそれを持ち運びができる程度に小割りにする、ということだったと思います。地下の岩盤を狙った採掘穴も確認できません。
なお、動画の最後に映っていますが、矢穴石の近くに五輪塔火輪(笠石)が転がっていました。もしや、石造物の石切場?とも思ったのですが、この斜面で製品加工までやるはずはないですよね。
石切場といっても、近世の江戸城や徳川大坂城の石丁場とは違い、特定の場所で長期に採掘を行ったということではないと思います。湖東流紋岩体の繖山は、いたるところで露頭が見られます。伝池田丸下については、矢穴が見られることから「石切場」としておきますが、山全体が「採石場」だったのでしょう。また、(4)の露頭を見ると、ある程度「石の目」を読む経験値があれば、いちいち矢穴を彫る手間をかける必要はなかったのではと思います。矢穴は最終手段だったのではないでしょうか。
奧之院裏石切場
石切場はもう1か所確認しています。繖山最大の聖地(のはずの)奧之院巨石群の裏側です。
ただし、観音寺城とは関係のない、近世近代の石切場で、矢穴は Cタイプ です。
おそらく観音正寺現境内下部の石垣を築くための石切場だと思われます。境内地を支える石垣は西13mのみ中世で、東60mは近世から近代です。現状は明治10年(1877年)に築かれたもので、Cタイプの矢穴があります。ただ、「近江名所図会 」によると、江戸時代には現状に近い状態の石垣が築造されていたと考えられます。
桑実寺石垣の矢穴
桑実寺の石垣の矢穴です。 矢穴口5cmぐらいのCタイプともう少し大型(ただし10cm以下)の矢穴が混在していました。矢穴列の間隔は奧之院裏によりは密ですが、Aタイプよりは開いています。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(21)に続きます。
2024年9月30日投稿