近江の石塔・石仏 (3)

 

百済寺子院引接寺(滋賀県東近江市)
石塔寺(滋賀県東近江市)
敏満寺遺跡石仏谷遺跡(滋賀県多賀町)
長法寺遺跡(滋賀県高島市)

花崗岩と湖東流紋岩・砂岩

石仏や磨崖仏は、もともと修験者、僧侶によって彫られていましたが、鎌倉時代になると、中国現淅江省寧波出身の伊行末(いのすえゆき)を祖とする伊派や、伊派の分派でおもに関東で活躍した大蔵派などの石工集団が出現し、室町時代の初期にかけて多くの優品が残しています。伊派については1375年まで「伊行長」という人物の作品が確認されています。
この時代の石造物の多くは硬質な花崗岩製で、近江周辺の石造物の分布は「花崗岩」地帯と重なっています。岩根山(十二坊)・菩提寺山周辺、当尾(京都府木津川市)周辺も花崗岩体の地域です。こうしたところに専門の石工集団の拠点があったのでしょう。

【主要遺跡と周辺地形図】
背景図はカシミール3Dで作成。

一方、戦国時代の小型石造物の石材については、敏満寺石仏谷遺跡の報告書で石造物の岩石鑑定が行われていて、これによると、湖東流紋岩類が全体の約85%を占めるとのことです。あえて花崗岩を入手するのではなく、近隣の河川にある湖東流紋岩類の円れきを使用したようです。
畿内全体としてみても、入手と加工が容易な「砂岩」製が目立つようです。
製品を見てもわかりますが、この時期の小型の石仏・石塔は、願主本人ないしは近親者、身近の村内(寺内)の工人あたりが製作したのでしょう。量産されたのかもしれませんが、中世前期のような優れた専門性にもとづくものとは思えません。

地蔵菩薩と阿弥陀仏

石仏は「お地蔵さま」とよくいわれますが、鎌倉時代から室町時代初期の石仏を見ても、阿弥陀仏とともに地蔵菩薩が目立ちます。これは「地蔵信仰」(極楽浄土に往生が叶わない衆生は、かならず地獄へ堕ちるという信仰から、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった)の広まりと関連しているようです。
これに対して戦国時代の小型の石仏は、ほとんどが阿弥陀仏です。二体が並ぶ双仏石は、以前投稿した当尾辻千日墓地例のように、本来は阿弥陀仏と地蔵菩薩のはずですが、これらははっきりしないものが大半です。
戦国時代の阿弥陀信仰(浄土信仰)というと、浄土真宗(一向宗)が思い浮かびますが、近江の上記寺院はいずれも天台宗です。浄土宗・浄土真宗の普及が背景にあったとしても、この時期の阿弥陀信仰は、宗派をこえた広がりをもっていたようです。

【石龕仏(五輪塔)】
①~③百済寺引接寺、④石塔寺。②④は双仏石で、④は屋根が別石。③は五輪塔。

石仏には、大きく分けて3種あります。

●石龕仏(せきがいぶつ、龕=厨子) 方形に掘り窪めた中に石仏を刻むものです。頭部に三角形の屋根を表現するものと、頭部が水平で全体が四角形のものがあります。後者は別石の屋根をもっていた可能性があります。

●板碑形石仏 仏像の上に、圭頭(三角形)で顎状の張り出しをもつものです。三角屋根の石龕仏と違い、仏像左右の凸状の縁がありません。明らかに板碑と分かるものもあれば、石龕仏と区分できないものもあります。本来別系譜であったとしても、それが当時どこまで認識されていたかは不明です。

●舟形(光背形)石仏 全体が舟形(光背形)のもの。

近江の百済寺、石塔寺では石龕仏、板碑形石仏が京都の化野念仏寺では舟形(光背形)石仏が多いようでした。また、仏が二体となる双仏石、石仏の代わりに「五輪塔」を彫ったものが一定量あります。

戦国時代の墓制

「阿弥陀信仰」は来世の極楽往生を願うもので、この段階の阿弥陀石仏は墓地に造立されることを目的としてつくられました。現在の百済寺引接寺や石塔寺、化野念仏寺の石仏・石塔群はあとからまとめられたもので、造立当時の状況のままではではありません。
化野は東山の鳥辺野、洛北の蓮台野とならぶ平安時代以来の京都の墓地で、風葬の地として知られています。百済寺は、百済寺と引接寺の間付近が墓域だったようです。

当時の墓地の様子は、敏満寺石仏谷遺跡や滋賀県甲良町正楽寺遺跡などの発掘調査で明らかになりつつあります。
複雑でなかなか説明が難しいのですが、石仏谷遺跡では、斜面をひな壇状に造成し、平坦面に塚状の盛土や河原石の列石で区画をつくっています。その区画ごとに火葬骨の蔵骨器を入れた埋納坑や蔵骨器のない埋納坑が複数あり、その区画後部に石仏や五輪塔を複数立て並べていたようです。
石仏や一石五輪塔は墓標として立てられましたが、埋葬数よりも明らかに多いことから、追善供養などでも立てられたのではないかと考えられています。この時期の追善供養は、私的にはちょっと疑問ですが。
敏満寺石仏谷遺跡は、現在一部について史跡整備が進められていて、通常公開は行われていないようです。
長法寺では、東側の尾根(小丘陵)に「墓が尾」と呼ばれる墓地があります。ここでは、400年以上の歳月の中で朽ちて埋没した生の姿を見ることができます。

長法寺
【長法寺遺跡墓が尾 石仏・石塔】

長法寺は、織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したと伝わる、城砦施設を設けた山岳寺院跡です。廃絶後、いつしか人々の記憶から消え、1956年(昭和31年)に滋賀県立高島高校歴史研究部が再発見するまで山中に埋もれていた廃墟です。
長法寺については、Instagramで投稿済みですが、ブログでも投稿予定です。
アクセスは、滋賀県教育委員会の埋蔵文化財活用ブックレット3が参考になります。


大名家は、江戸時代になって儒教や吉田神道の影響から、墓主(藩主)の業績を顕彰し、始祖(藩祖)からの未来永劫続く子孫の恒久的な繁栄を強く願うようになり、先祖祭祀の象徴として墓所は整備され、石塔は巨大化していきました。それに比べると室町時代は、無銘の石塔が多く、戦国期に支配者層がリセットされたこともありますが、有力大名家であっても墓の所在すら明らかでないことが多々あります。墓や葬儀、供養といったもの、言い換えれば先祖祭祀や「家」の恒久性に対して大きな意義を認めていない時代にみえます。
しかし一方で、一般の墓地では石仏・石塔が爆発的に増加します。小型の石仏・石塔を造立した階層は不明ですが、少なくとも大名や家臣や公家、僧侶でも最上位層とは考えられません。
どういった階層が、どんなパワーを背景にしているのか。いかなる祭祀が行われたのか。いまのところ、その疑問を解決してくれるような本、論文に出会えていません。
また、戦国時代の石仏・石塔は、また継続的に追っていきたいと思っています。

一端終わりにします。

参考文献
・上原幸徳「正楽寺遺跡の石製墓碑と区画墓」『紀要』第12号 財団法人滋賀県文化財保護協会 1999年
・多賀町教育委員会『敏満寺遺跡石仏谷遺跡』サンライズ出版 2005年
・滋賀県教育委員会『長法寺跡 高島市鵜川』埋蔵文化財活用ブックレット3(近江の山寺3) 2010年
・小林裕季「比良山系の山城(2)」『紀要20』公益財団法人滋賀県文化財保護協会(2012年発行)
・狭川真一『中世墓の終焉と石造物』高志書院 2020年


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